北朝鮮での医療活動
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「ノルベルト・フォラツェン」の記事における「北朝鮮での医療活動」の解説
1999年7月から北朝鮮で人道的な医療活動を始めた。最初の任地は海州市近くの病院だった。最初の手術は若い女性の盲腸手術だったが、麻酔薬がないため、患者を手で押さえて麻酔なしで手術を行った。痛みのあまり患者は涙を流したが泣き声は上げなかった。この病院には医薬品も消毒液も注射針も、そして石鹸さえも無かった。床には血痕が残ったまま、トイレもなく、水はバケツで運んでいた。専用の照明もなく、手術台は少しでもよく見えるようにと窓際にあった。 あるとき彼は粗末な病院で不潔な包帯を巻くだけで放置されている、溶けた鉄を浴びて全身の三分の二に大火傷を負った瀕死の工場労働者を見つけた。皮膚移植手術が行われることになったが、フォラツェンやドイツ人の同僚は治療のために自らの皮膚を提供した。メスがないので彼を含む150人の提供者は剃刀で皮膚を切った。奇跡的にこの患者は助かった。彼は二度にわたり自分の皮膚を提供したが、この行動が北朝鮮メディアに報じられて彼は有名人になり、ついには北朝鮮政府からメダルを授与され、一時は(彼の言によれば)外国人としては例外的なVIP待遇を受けていた。朝鮮語を学んで運転免許を取得し、車さえも所有した。現地人「通訳兼ガイド」(実際は監視役)なしでの外出が許され、西側諸国の人間が行ったことのない場所にも立ち入りを許された。 彼はその眼で、国民に飢餓が広がってまともな食料、水、暖房、衛生処置もない一方で、朝鮮労働党の要人が運転手つきのメルセデス・ベンツで外出し、洋食を楽しみカジノで興じる矛盾を目撃する。彼は10の病院と31の孤児院を訪問し、その惨状を極秘に写真を撮影した。抗生物質も包帯もなく、大きな手術は全く行われていなかった。平壌にはキリスト教徒が3000人いると聞いて教会に赴いたが、礼拝堂の椅子には埃がかかり、日曜日の礼拝を見かけることはついになかった。老女ばかりか8歳か9歳の男の子が夜間の道路建設工事に駆り出されているのも見た。ある日ドイツ人の同僚と出かけた先で、路上に死体が転がっているのを見つけて運転手に停車を命じたが、その遺体にはかつてドイツ民主共和国(東ドイツ)でよく見られた明らかな拷問の跡があった。その時の運転手とガイドは翌日交替させられ、二度と会うことはなかった。 この国は二つの階級からなる社会であり、飢餓は人工的なものであるとフォラツェンは確信する。2000年10月、折しもアメリカ合衆国のマデレーン・オルブライト国務長官が北朝鮮を訪問していたことを利用して、外国メディアにこの惨状を告発した。援助団体が自ら物資を配ることが許されないため、人道援助は貧困層には全く届いておらず、そうした物資は党員や軍が横領して売りさばいている、と。北朝鮮メディアは一転彼を「アナーキスト」と断じて攻撃し、また車のタイヤの空気やブレーキオイルが抜かれるなどの嫌がらせを受けた。2000年12月30日、北朝鮮刑法第45条「破壊活動分子」の咎を受け、フォラツェンは中華人民共和国行の列車に乗せられて国外追放された。
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