北朝鮮からの手紙
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欧州で失踪してから8年後の1988年(昭和63年)9月、札幌の石岡の実家にエアメールが届いた。石岡亨本人からの手紙で、消印はポーランドであった。封筒には、手紙のほか、自分と有本恵子の氏名・住所・旅券番号・署名、そして、傷害保険証書と写真3枚が入っていた。手紙の内容は「私と松木薫さんは元気です。途中で合流した有本恵子君ともども3人で助け合って平壌で暮らしております」「衣服面と教育、教養面での本が極端に少なく、3人とも困っています」など、3人の生存と窮乏とを伝えるものだったが、日本国内では何の接点もなかった3人ではあった。松木の住所は「熊本市」としか書かれていなかった。手紙と傷害保険証書証書は小さく折りたたんだ跡があり、便箋代わりに使われたレポート用紙を折りたたむと "Please send this letter to Japan(Our adress is in this letter)."とボールペンで小さく書かれてあった。写真は、自身と有本と赤ん坊の写ったスナップがそれぞれ1枚ずつ計3枚であった。 手紙の内容や差出状況を考慮すると、北朝鮮では自由に郵便物の出せない監視下の生活を強いられていたことは疑いなく、また、北朝鮮国内で投函しても日本に届かないため、こうした手紙は外国人が外国で投函しなければならない状況であったことを示している。「北朝鮮で生存」という手紙を受け取った石岡の母は驚き、すぐに有本恵子の母に電話で連絡した。有本の母も驚いて、家族や今まで恵子の件で相談してきた人びとに連絡した。しかし、松木の住所は単に「熊本市」とあるのみで、しかも、当時松木の実家が家庭の事情で薫の育った家を手放し、何度も引っ越しをしている最中のことだったので、その後2年間も連絡がとれなかった。石岡家では、北朝鮮とのパイプがあると考えられた日本社会党にも手紙のことを相談し、そのことを有本家にも話したが、社会党からは手紙のことを口外しないよう有本家に要請が入ったという。1990年の暮れ、松木家ともようやく連絡がとれ、翌1991年1月、三家族は初めて神戸市で一堂に会した。そこでは、世論にアピールするための会見を設定していたが、北朝鮮にパイプをもつと称する遠藤忠夫という人物の不確かな情報に惑わされ、会見は事実上、中止に追い込まれた。遠藤は左翼系出版物の版元で「よど号グループ」とも親交をもつ人物であり、1, 2か月会見を待てば被害者たちが生きて帰れると約束したが、結局、約束は反故にされた。 赤ん坊の写真については、当初、松木の幼い頃のものかとも考えられた。特に有本恵子の母はずっとそのように思っていた。実際には、石岡亨と有本恵子の2人は結婚しており、その2人の子どもの写真であった。高沢皓司もよど号グループからそのように聞かされていた。石高健次は高沢と相談して1997年5月に有本・石岡の実家を2人で訪ね、その事実を伝えた。石岡家では母親の体調がすぐれなかったので兄が対応したが、好い知らせだと喜んだ。 なお、手紙のなかの「衣服面と教育、教養面での本が極端に少なく、3人とも困っています」という部分に着目したのが西岡力であった。もし、自分たちが何かを学ぶための本が必要というのならば「学習」ということばを使うはずであり、「教育」という言葉を使っているのは、拉致被害者3人は北朝鮮で何かを教える立場、すなわち工作員の日本人化教育を担当させられたのではないかと推測した。また、1991年1月17日付「産経新聞」によれば、この手紙を受け取った3人の家族は、そののち、外務省や警察機関に相談をしたが、その際、外務省より「表面化すると、3人の命に保障がないので公表しないように」と助言されたという。西岡はこれに対し、「もしそれが事実なら、日朝国交交渉が始まるかなり前の時点で、外務省は『北朝鮮という国は日本人を自分の意思に反して国内にとどめておき、そのことを家族が日本で公表すると、その日本人の命に危害を加えかねない国だ』という認識を持っていたことになる」として外務省の姿勢に疑念を呈し、「そのような国に対して、なぜ国民の税金を使って経済協力やコメ支援をしなければならないのか、日本政府は当然その疑問に答えるべきだろう」との見解を示している。
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