フライブルク大学総長就任とナチス入党
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「フライブルク大学総長就任とナチス入党」の解説
1933年1月、フォン・ヒンデンブルク大統領の任命でヒトラーは首相となり、ナチス党がドイツの政権を掌握していった。この頃、フライブルク大学では次期学長選を控えており、社会民主党党員の解剖学者ヴィルヘルム・フォン・メレンドルフが学長内定者であったが、古典文献学者ヴォルフガング・シャーデヴァルトらナチ党員らによってハイデッガーが候補にあがるようになった。4月上旬には内務省ナチ大学担当オイゲン・フェーアレがフライブルク大学視察に訪れ、ハイデッガーは学長選挙にあたってフライブルク大学最古参のナチ党員であるヴォルフガング・アリーらの支援をうけていた。1933年4月21日、ハイデッガーはフライブルク大学総長に選出された。5月1日のメーデーを改称した「国民的労働の日」をもって、エーリヒ・ロータッカー、哲学者アルノルト・ゲーレン、アルフレート・ボイムラー、哲学者ハインツ・ハイムゼート、テオドール・リットら22名の同僚教授とともにナチス党に入党した。党員番号は3125894(バーデン地区)であった。ハイデッガーの党員証はベルリンドキュメントセンター(Bundesarchiv)に保管されている。 若いハイデッガーに深い影響を与えたコンラート・グレーバーフライブルク大司教もボルシェヴィズムへの不安のため、それまで対立していたナチスと和解し、ファシズムは「現代において最も力強い精神運動」とし、「新しい国家(ナチスドイツ)を拒否してはならない、これを肯定し、迷うことなく、尊厳と真摯をもってともに働くべきである」と中央党の新聞で述べるなどナチスを公然と支持した最初のドイツ人司教となったが、1937年には除名された。 5月26日にはハイデッガーはアルバート・レーオ・シュラゲーター顕彰演説を行った。シュラゲーターはフライブルク大学を中退し、第一次世界大戦に志願兵として従軍した後、義勇軍となり、鉄道爆破によって逮捕され銃殺刑となり、ナチスから英雄とされていた。ハイデッガーはシュラゲーターを「もっとも困難なことを引き受け」、「自らの栄誉と偉大さのために、心の中で民族の来るべき出発を思い浮かべて、その光景を自らの魂に刻みつけ、これを信じて行かねばならなかった」とし、この「もっとも偉大なるものともっとも遠くにあるものを自らの魂に刻みつける心情の明晰さ」は、英雄の故郷であるシュヴァルツヴァルトから来るのであり、「これが昔から意志の堅固さを作り上げる」のであり、「彼はアレマンの国土を眺めながら、ドイツ民族とその帝国のために死んでいった」とし、フライブルク学生に「意志の堅固さと心情の明晰さ」をしっかりと保持することを訴えた。 5月27日の就任式典ではハイデッガーは就任演説「ドイツ大学の自己主張」を行い、ナチス革命をカイロス(歴史的好機)であり、「はるかなる任務」に委ねることを聴衆に求め、「われわれが自らを再びわれわれの精神的歴史的現存在の開始という力のもとに置く」ことが真の学問の条件であるとし、大学をナチス革命の精神と一致させるよう訴えた。式典ではナチス党歌「旗を高く掲げよ」が演奏され、ナチス式敬礼を非党員にも強要して物議をかもし、またハイデッガー学長は大学の講義の開始と終了にハイル・ヒトラーの敬礼を義務づけた。聴講していたカール・レーヴィットはソクラテス以前の哲学を勉強したらいいのか、突撃隊と行進したらいいのかわからなくなったと述べている。ヤスパースはハイデッガーから「ドイツ大学の自己主張」演説を送られてからの1933年8月23日の返信で「学長就任演説を送っていただいてありがとうございます。初期ギリシア精神をきっかけにした偉大な筆致には、新しい真理のように、同時に自明の真理のように、またまた感動したものです」と書き、この演説は「信頼するに値する実質を持つ」と賞賛した。突撃隊隊員で歴史家のリヒアルト・ハルダーは「大学を真剣に考え、学問に真っ向から対決したもの、真の簡潔さ固い意志と大胆な不敵さをもってなされた真に政治的な宣言」と賞賛した。ハインリッヒ・ボルンカムも賞賛し、ラインヴェストファーレン新聞は「個人の立場から大学を全体国家の中に組み込もうとする初めての試み」とし、ベルリン株式新聞は「魅惑的であるとともに義務感を呼び覚ます」と評価した。ハイデッガーの学長就任演説についてマルクーゼは1934年に「全体主義的国家観における自由主義との戦い」で批判した。ハイデッガーの講義を受けたこともあった日本の哲学者田辺元もハイデッガーのナチス入党と「ドイツ大学の自己主張」について1934年「危機の哲学か 哲学の危機か」で批判した。田辺元は「単に存在の不可測性、それに対する知識の無力の自覚、という如き原理だけで、積極的に民族国家の形而上学的基礎を確立し、学問も国家奉仕の所謂知識勤務を以て本質とすべき所以を明にし得るか、という如き疑問は必然に起こり来らざるをえない」とし、ハイデッガーの師であるプラトンはその師ソクラテスが死刑になったことを源泉とした「危機の哲学」であるが、理性を参与させることなく単に運命的なる存在に従属しようとするハイデッガーは「哲学の危機」であると批判した。ムッソリーニを一時支持したあと転向して批判したベネデット・クローチェはハイデッガーの演説を「愚かであると同時に卑屈」といい、ハイデッガーがもてはやされるのは「無内容と一般論はいつももてはやされる」からだと1933年9月9日のカール・フォスラー宛書簡で書いた。 1933年6月30日「新しい帝国の大学」をハイデルベルク大学で講演した。11月30日にチュービンゲンナチ党地区本部とドイツ文化のための闘争同盟とチュービンゲン大学学生組織から招聘され、ハイデッガーは「国民社会主義国家の大学」をチュービンゲン大学で講演した。この講演でハイデッガーは「ナチ革命」とは「ドイツの現存在全体の完全な変革」「人間の、学生の、次代の若い大学教師たちの完全な再教育」を意味するとし、「ドイツ人は歴史的民族になる」「次代の学生は、迷うことなく、一心不乱に、民族の知的要求を国家の中で貫徹する戦いを試みねばならない。この戦いにおいて若者たちは、彼らの確固たる意志を導いてくれる指導者に臣従する」と述べた。ドイツ文化のための闘争同盟(Kampfbund für deutsche Kultur)はアルフレート・ローゼンベルクが1929年に創立した組織である。 1933年夏学期の「哲学の根本問題」講義(ヘレーネ・ヴァイス遺品の聴講生ノートに基づくもので、ハイデッガー自筆原稿ではない)でハイデッガーは「この数週間」は歴史的瞬間であり「ドイツ民族が自己自身に立ち還り、自らの偉大な指導者を見つけ出しているのである。この指導者のもとで、自己自身に至りついた民族は、自らの国家を作り出し、国家の中へ組み込まれた民族は、やがて国民国家に成長していき、この国民国家は、民族の運命を引き受ける。こうした民族は諸民族の真只中に立って精神的な負託を自らに課し、自らの歴史を作り上げて行く」「民族は、こうした問い(我々が何者なのか)を発することによって、その歴史的現存在を耐え、危機と脅威の中でそれを堅持し、その偉大なる使命の中にまでそれを持ち込むことができるのであって、民族がこうした問いを発することこそが、民族が哲学的に考えるということであり、それが民族の哲学なのである。」、「哲学の根本問題とは何であり、またその独自の本質は何かについての決定はいつどこで下されたのであろうか。それはギリシア民族−その血統と言語は我々ドイツ人と同一の起源をもつ−の偉大な詩人たちや思索家たちが、人間的=歴史的現存在の比類なき新しい様式を作り出したあの時である」「西欧の人間の精神的=歴史的現存在のこの始まりは、今なおそのままに、西欧の運命である我々の運命に大きく関わるはるか遠くからの指令として、ドイツの運命と繋がっているはるか遠くからの指令として存続している」と述べた。またハイデルベルク大学での「新しい帝国の大学」講演では「ヒューマニズムやキリスト教の考えによって窒息させられることのないナチズムの精神を体し、こうしたことに抗して仮借なき戦いがなされねばならない」「戦いは、民族の宰相ヒトラーが実現する新しい帝国の諸勢力を結集して行われる。」「この戦いは大学の教師と指導者を作り出すための戦いである」と述べた。1933年9月にはフライブルク大学の同僚で世界的な化学者であったヘルマン・シュタウディンガーを「政治的に信用できない」とバーデン州大学担当官フェールレに伝えた。フェールレは早速シュタウディンガーの告訴手続きを行い、ゲシュタポも罷免相当であるという報告書を作成、ハイデッガーも罷免相当であるという回答を行った。結局シュタウディンガーの免職は政府の許可が下りなかったために実行されなかった。10月1日にはフライブルク大学の「指導者」に任命され、大学の「強制的同一化」を推進した。また国際連盟脱退やヒトラーの国家元首就任を支持する演説も行うなど、学外でも積極的な活動を行った。 1933年7月20日にドイツとバチカンとの間で結ばれたライヒスコンコルダート(ライヒ政教条約)にハイデッガーは批判的であった。 1933年9月、再びベルリン大学正教授に招聘された。ハイデッガーは9月4日のアインハウザー宛書簡で「個人的な事情は一切抑えて」「任務を果たすことこそ、アードルフ・ヒトラーの仕事に役立つ最善のこと」としていまだ決めかねると答え、結局は招聘を断った。同時期にミュンヘン大学への招聘もあり、ハイデッガーも検討していたがフライブルク大学の後任人事問題のため1934年1月に断った。同時期にミュンヘン大学へも招聘され、ミュンヘン大学への招聘に際してエルンスト・クリークの親友でマールブルク大学のエーリヒ・イェンシェンは文相シェムへの文書でハイデッガーは「危険な分裂症患者」でハイデッガーの著作は「精神病理学の素材以外の何ものでもない」「タルムード的=三百代的思考」であるゆえユダヤ人にとっても大きな魅力となっていると告発し、他方招聘をハイデッガーも検討していたがフライブルク大学の後任人事問題のため1934年1月に断った。 1933年11月10日のフライブルク新聞は、フライブルク市長ケルバー博士、ツーア・ミューレン学生団体指導者、フライブルク大学総長ハイデッガーの署名で「われらが民族を苦難、分裂、破滅から救出し、統一、決断、栄誉へともたらしたまえる、諸民族の自己責任に基づく共同体の新たな精神の師父にして先駆ける戦士に対して、ドイツ西南の辺境なる大学都市の市民、学生ならびに教授団は、無条件の臣従を約束したてまつる」という総統宛電文を掲載した。 1933年11月、ザクセンのナチ教員同盟(Nationalsozialistischer Lehrerbund、NSLB)大管区長アルトゥール・ゲプファルト、ベルリン大学総長オイゲン・フィッシャー(Eugen Fischer)、ライプツィヒ大学総長アルトゥール・ゴルフ、ゲッティンゲン大学総長フリードリヒ・ノイマン、ハンブルク大学総長エーバーハルト・シュミットと並んでフライブルク大学総長ハイデッガーは「ドイツの学者の政治集会」に参加し、「ドイツ民族は、総統から賛成投票を呼びかけられている。しかし総統は民族に懇願しているのではない。総統はむしろ民族にこの上なく自由な決断のもっとも直接的な可能性を与えてくれている。民族の全体が自らの現存在を望んでいるのか、それともこれを望んでいないのかの決断をである。この民族は、明日、自らの未来そのもの、それ以外の何ものでもないものを選ぶのである」、「究極の決断は、我々の民族の現存在の極限を突き詰める」、極限とは「あらゆる現存在の根源的要求、自己の本質を保持し救い出すというその根源的要求である」と述べた。 1933年11月のフライブルク学生雑誌に寄稿した「ドイツ学生」でハイデッガーは「ナチ革命は我々ドイツの現存在を完全に変革している」、諸君には「ドイツ精神の将来の大学を作り上げるために、共に知り、共に行動する義務が与えられている」、これは「民族全体の自己自身を求める戦いにおいて勇猛果敢に身を投げ出す力によって果たされる」と書き、末尾に「ハイル・ヒトラー!」と書かれていた。11月25日の講演「労働者としてのドイツの学生」では「新しいドイツの学生は今、労働奉仕によって歩んで行く。ナチ突撃隊の考えと一つなのである」、「ナチ国家は労働者国家なのである」「かかる奉仕こそ、すべての人々の民族としての連帯の中で、日々、試練に晒され決断を迫られて、個々人の身分上の出自と責任とを明確にし堅固にするという根本的な体験をさせてくれる」と述べた。この演説は西部地区連合放送網によって実況放送された。また始業式では「仕事がなく失業していた民族共同体同胞は、仕事が確保されることで、まず何よりも先に、国家の中で、国家のために、それゆえにまた民族全体のために、再び現存在たりうるものにならなければならない」、「労働者は共産主義で言われているような単なる搾取の対象ではありません。労働者身分は、財産を奪われて、一般的な階級闘争へ向かうような階級ではありません。(…)労働とは、個人、集団、国家の責任において担われ、そうすることによって民族に奉仕しうるすべての規制された行為と行動を表す称号なのです」「総統に臣従するとは、ドイツ民族が、労働の民族として、その自然のままの統一、その素朴な尊厳と、その真の力を見つけ出し、労働国家として恒久性と偉大さを勝ちとることを、断固として不断に望むことなのであります。こうした未曾有の意志を抱いている人物、我々の総統アドルフ・ヒトラーに、ジークハイル(勝利万歳)三唱!」と述べた。11月11日に発表されたドイツ教授によるアドルフ・ヒトラーへの声明(ドイツ語版)に署名を行っている。 1934年1月23日にはフライブルク学生雑誌に「労働奉仕への呼びかけ」を寄稿した。 かつて自分の友人でマックス・ヴェーバーの甥でもあったエドヴァルト・バウムガルテン(ドイツ語版)がナチ突撃隊とナチ大学教官同盟への加入を申請したとき、ハイデッガーは1933年12月16日ナチ大学教官同盟への手紙でバウムガルテンのことを「マックス・ヴェーバーの周りのリベラル民主主義的なハイデルベルク知識人グループ」に属しており、ホラ吹きの山師であると書いた。さらにバウムガルテンがユダヤ人の正教授エドゥアルト・フレンケル(ドイツ語版)と密接に連絡を取っているとも付け加えた。ザフランスキーによれば、これはハイデッガーにとって表面的に新しい状況に順応する者への警戒であったとするが、ヤスパースはこれを反ユダヤ主義的な攻撃と受け取った。バウムガルテンは学長就任演説について「ハイデッガーにおいては、こうした神秘的な全実体変化がここで起こっている。今日、問いを発する者の知のこうした限界と、こうした無力感に襲いかかっている全とを、ハイデッガーはかつてのように形而上学的に無化する無と解釈することはない。彼には今それが存在的に強力な存在者、つまり単純かつ率直に、ドイツの革命の事実的な出来事と思われている」と論じた。
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