フライブルク大学教授就任
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「フライブルク大学教授就任」の解説
1928年2月25日、ハイデッガーはフッサールの後任としてフライブルク大学の教授に招聘され、就任した。マールブルク大学はハイデッガーの退職は大学にとっての損失であり、招聘を断るよう文部省などへ働きかけたが、ハイデッガーはフライブルクからの招聘を受けた。ハイデッガーがかつて寄宿生活を送ったコンスタンツのコンラディハウス院長マテウス・ラングからの祝辞への返信で「私は、うれしく、かつまた感謝の念をこめて、コンラディハウスにおいてはじまった私の勉学の日々を思いおこしては、すべての私の試みがいかに強く故郷の土に根づいているかを、いよいよまざまざと実感しております」「哲学するとは、畢竟、初心者のほかの何者でもないことの謂いなのです。しかし、私たちが小人たるにもかかわらず、おのれみずからに内なる忠実を保ちつづけ、そこから精進しようと努めるならば、そのわずかな行為も、良きものとなるにちがいありません」と書いた。 1928年から1929年にかけての冬学期にフライブルク大学で「哲学入門」を講義。 1929年4月、スイスのダボスで新カント派のエルンスト・カッシーラーとのダヴォス討論を行い、「神に存在論はない」「存在論を必要とするのは有限者だけである」と語った。この討論にはルドルフ・カルナップも参加しており、ハイデッガーに全てを物理学的用語で表現する可能性について話すとハイデッガーは賛同したという。 1929年夏学期、「ドイツ観念論と現代の哲学的問題状況」を講義、フィヒテの知識学を読解。1929年、「カントと形而上学の問題」を刊行。同年、「根拠の本質について」をフッサール生誕70周年記念論文集に寄稿、同時に出版された。1929年7月24日、フライブルク大学講堂で「形而上学とは何か」公開就任講演。同年、単行本としてボンのフリートリヒ・コーヘン社、のちヴィットリオ・クロスターマン社から刊行。第5版以降、ハンス・カロッサに献呈されている。 1929年9月にハイデッガーはボイロン修道院へ連れ立った愛人エリーザベト・ブロッホマンへ手紙でこのように書いている(文中の「ボイロン」とはボイロン修道院を指し、現存在の真理を表すメタファーとされている)。 人間の現存在の過去というものは、無ではなくて、私たちが深淵へと成長するときに繰り返しそこへと帰っていくところなのです。しかし、この帰還はけっして過ぎ去ったものを継承することではなく、それを変貌させることなのです。ですから、私たちには今日のカトリシズムやプロテスタンティズムは、どうしても嫌悪すべきものとなってしまうのです。けれども、<ボイロン>ー私は簡潔にそう呼ぶことにしますーは、何か本質的なものとなる種子として生育していくでしょう。 — エリーザベト・ブロッホマンへの1929年9月12日付手紙 1929年から1930年にかけての冬学期にフライブルク大学で「形而上学の根本諸概念:世界-有限性-孤独」を講義した。この講義ではオスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落』を踏まえて、現在の貧困、政治的混乱、学問の無力、危険のないところでの全般的な満腹した安楽がいたるところにあるなか、人間の理想や偶像にしがみつくことでなく、「人間の内なる現存在を自由に解放すること」によって「自己封鎖解除」と「決断」が呼び求められると語った。
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