勉学の日々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 08:28 UTC 版)
嘉永2年(1849年)、米沢藩の藩医・伊東昇廸(伊東家は代々医を業とし、昇廸の父の名を伊東祐徳といった)の子として生まれるが、兄の祐順が家を継いだため、安政3年(1856年)に同藩の医師・平田亮伯の養子となり、藩校・興譲館(現在の山形県立米沢興譲館高等学校)で学び、さらに江戸へ上って古賀謹堂の門で学んだ。 戊辰戦争においては、米沢藩は政府軍に敵対した奥羽越列藩同盟の中心として戦うが敗北。その後、藩命によって東京へ上り、明治2年(1869年)5月に慶應義塾(現在の慶応義塾大学)に入り、吉田賢輔に英学を学び、のち大学南校(現在の東京大学)に入学した。明治3年(1870年)に小倉処平とともに貢進生制度を建議する。明治4年(1871年)には旧藩校・興譲館に「洋学舎」を設置するために尽力し、慶應義塾出身の村道之助・宮内赫助・滝川喜六ら3名を招いた。 明治4年(1871年)、岩倉使節団に随行し、訪欧する。当初はロシアに留学する予定であったが、ベルリンで青木周蔵・品川弥二郎らの知遇を得て説得され、統一したばかりのドイツでの留学に切り替えた。ベルリン大学で政治学、ハイデルベルク大学で国際法、ライプツィヒ大学で商法を習得する。このうちハイデルベルク大学では日本人として初の、博士号(ドクトル・フィロソフィ)を得た。
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