勉学の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 19:01 UTC 版)
1882年(明治15年)に、祖母の霜が死去した。菊栄はそれを機に、町に出て勉学に励みたいと決意し、伯父に申し出た。菊栄らを労働力と見なす伯父は当初は許さなかったものの、菊栄の固い決意の前に折れた。 菊栄は婦喜と共に伯父の家を出、高知の南新町(後の高知市桜井町)に家を借り、新たな生活を始めた。伯母の好意で家賃と米代を凌ぐことはできたが、それ以外の収入は皆無だった。菊栄たちは「裁縫、賃仕事承り桝」の看板を掲げ、紐作りの内職や縫い針仕事の手間賃で、爪に火を灯すような生活を送った。 1888年(明治21年)、アメリカ人宣教師のアンニー・ダウドが高知英和女学校(1895年〈明治28年〉廃校)を開校して生徒の募集を始め、菊栄はここへ進学を決めた。かつて婦喜から、父の樹庵が隠れキリシタンだと聞いていたことから、その教えを極めたいとの思いもあった。菊栄は父の影響に加え、この学校の教育により、慈愛精神を深めていったと見られている。 しかし伯父はこれを幸いに、菊栄が異教徒になったとの理由で、仕送りを停止した。不運は続き、婦喜が病床の身となってしまった。憧れて入学できた高知英和女学校は1889年(明治22年)、わずか7か月で退学せざるを得なかった。なお退学の直接的な理由は婦喜の病気だが、他に授業の多くが英語でレベルが高かったこと、名家の女子たちが多かったことなども理由に挙げられている。
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