フライブルク大学時代とは? わかりやすく解説

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フライブルク大学時代(1916年 - 1928年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:37 UTC 版)

エトムント・フッサール」の記事における「フライブルク大学時代(1916年 - 1928年)」の解説

1916年 ハインリヒ・リッケルト後任としてフライブルク大学哲学科正教授となる。 『イデーン』IIIIIのための草稿や、『第一哲学』『現象学的心理学』『受動的綜合』などを執筆するが、いずれも刊行されるのは死後のこととなる(『イデーン』IIIII草稿はIの公刊時にはすでに執筆終えていながらその後推敲重ね続けていたともいわれる。現在は『フッサリアーナ』第4、5巻に収録)。 1919年 ハイデッガー助手となる。 1927年 ハイデッガーの『存在と時間』を読み自分後継者とも目していたハイデッガー考え方自分と相違感じ始める。 大英百科事典依頼受けて新項目「現象学」を執筆することになり、協力者として(また、共同作業通じて見解の相違埋めるため)ハイデッガー指名するが、結果として完全に相容れないものが明らかになり、一人仕上げることとなる(この新項目のための原稿は「ブリタニカ草稿」と呼ばれている)。 1928年 1905年冬学期講義内的時間意識現象学』がハイデッガーによって手稿から編集され、『年報第9巻発表されるフッサールハイデッガーはすでに決裂していたが、関係修復望みがまだフッサールの側に残っていた前年依頼したのである)。 この年をもってフライブルク大学定年退官後任には、決裂してもなおフッサール強く推薦したハイデッガー就任するこの年ドイツ留学してきた田辺元通して西田幾多郎が『自覚に於ける直観反省』で展開した思想概略聞くことができた。フッサール数学者エルンスト・ツェルメロ一緒に田辺解説耳を傾け熱心に議論したのだという。

※この「フライブルク大学時代(1916年 - 1928年)」の解説は、「エトムント・フッサール」の解説の一部です。
「フライブルク大学時代(1916年 - 1928年)」を含む「エトムント・フッサール」の記事については、「エトムント・フッサール」の概要を参照ください。

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