フライブルク大学時代(1916年 - 1928年)
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「エトムント・フッサール」の記事における「フライブルク大学時代(1916年 - 1928年)」の解説
1916年 ハインリヒ・リッケルトの後任としてフライブルク大学哲学科の正教授となる。 『イデーン』II、IIIのための草稿や、『第一哲学』『現象学的心理学』『受動的綜合』などを執筆するが、いずれも刊行されるのは死後のこととなる(『イデーン』II、III草稿はIの公刊時にはすでに執筆を終えていながらその後も推敲を重ね続けていたともいわれる。現在は『フッサリアーナ』第4、5巻に収録)。 1919年 ハイデッガーが助手となる。 1927年 ハイデッガーの『存在と時間』を読み、自分の後継者とも目していたハイデッガーの考え方に自分との相違を感じ始める。 大英百科事典の依頼を受けて新項目「現象学」を執筆することになり、協力者として(また、共同作業を通じて見解の相違を埋めるため)ハイデッガーを指名するが、結果として完全に相容れないものが明らかになり、一人で仕上げることとなる(この新項目のための原稿は「ブリタニカ草稿」と呼ばれている)。 1928年 1905年冬学期の講義『内的時間意識の現象学』がハイデッガーによって手稿から編集され、『年報』第9巻に発表される(フッサールとハイデッガーはすでに決裂していたが、関係修復の望みがまだフッサールの側に残っていた前年に依頼したものである)。 この年をもってフライブルク大学を定年で退官。後任には、決裂してもなおフッサールの強く推薦したハイデッガーが就任する。 この年、ドイツに留学してきた田辺元を通して、西田幾多郎が『自覚に於ける直観と反省』で展開した思想の概略を聞くことができた。フッサールは数学者のエルンスト・ツェルメロと一緒に田辺の解説に耳を傾け、熱心に議論したのだという。
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