テストと評価
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「FMA I.Ae. 33 プルキー II」の記事における「テストと評価」の解説
I.Ae. 33の設計の有用性を実証するために2機のグライダーが別の移住者であるライマール・ホルテンとの契約で製造され、1948年から1949年にかけてタンク自身の操縦によるものを含めて空力特性のテスト飛行が行われた。これらのテストにより横方向の安定性に顕著な問題があることが分かり、2機の試作機の製造が始まる前にこの問題の解決のために尾部に改修が施された。近代的な機械設備の不足により全ての金属部品加工の多くは手作業に頼っており、試作機は手工業的な過程の末の産物であった。ペロン大統領の構想ではアルゼンチンに航空産業を立ち上げる恩恵は、先進諸国の製造設備と比肩する製造基準を導入することになるというものであった。しかし、タンクはこの段階で製造設備や治具が適切なものではないことに気付き、基本的には手作業による加工に頼ることにした。最初の機体(No. 01)は静止テストに供され、後にテスト中に破壊された。 1950年に製造された最初の「飛行可能」なI.Ae. 33の試作機(No. 02)は、エドムンド・ワイス(Edmundo Weiss)大尉の操縦で同年6月27日に初飛行を行った。2回目の飛行で元フォッケウルフ社のテストパイロットのオットー・ベーレンス(Otto Behrens)が700 km/h (435 mph)で飛行しているときに激しい横方向の安定性の問題に遭遇し、用心のために飛行場へ帰投した。非常に高速の着陸によりかなりの力で跳ね上がったことにより右側の主脚のストラットが破損した。機体の修理中に「くせのある」着陸特性を是正するために前脚ストラットの延長されたことにより機体の地上姿勢が変更される一方でショックアブソーバーがより大きな「入力」に対応できるように調節された。御し易いとはいえなかったが、この改良によりI.Ae. 33の離陸、着陸と低速での特性は改善された。より深刻な空力的な問題は根深い翼端失速(主翼付け根より前に翼端が失速することで予期せぬ「回転運動」が発生する)で、主翼付け根付近の前縁に変更が加えられた。一方で尽きることの無い横方向の安定性の問題を解決するために方向舵に改良が施された。これらに加えてキャノピーは2本の外枠により強化され、エンジン排気口の上部には小さな覆いが取り付けられた。 テストパイロットの素養を持つタンクは、機体の失速特性の解明のためにテストを引き継いだが、テストに必要な機体に改修を施して「プルキー II N. 02(m)」とするには数カ月を要し、3回目のテスト飛行は10月23日まで実施できなかった。続いて行われた高高度飛行テストの最中に2度連続してI.Ae. 33は不意に失速状態に陥ったが、タンクは回復するのに十分な高度9,000 m を飛行していた。機首にバラストを追加することでこの問題は解決した。1951年2月8日にブエノスアイレスの「ホルヘ・ニューベリー空港」でタンクはペロンの前でI.Ae. 33の公開飛行を行った。観衆には、政府高官、議会議員や各国大使館の武官で構成される外交団が大勢の観客と共に含まれていた。展示飛行ではI.Ae. 27 プルキー IとI.Ae. 33 プルキー IIが飛行した。 テスト飛行が成功裏に終了するとアルゼンチン空軍はI.Ae. 33の前量産型12機を発注した。1951年に空軍はこの新型機の受け入れに一連のテスト飛行を行うための技術パイロットの部隊を設立した。1951年5月31日に行われたSoto中佐による最初の飛行で1,000キロメートル毎時 (621 mph)付近の速度で激しい振動が発生した。タンクは問題の原因が究明されるまで唯一の試作機の飛行停止を宣言したが、この制限は見過ごされ試作機は飛行を続けた。28回目の飛行の直前にテスト・プログラムに配属されていたVedania Mannuwal大尉は、午前中のテスト飛行では発生しなかったがそれまでの飛行で振動の原因と考えられた機体への負荷をかけないように忠告された。直前のテスト飛行ではVedania大尉のチーム・リーダーは「用心」したが、Vedania大尉は事前の注意事項を無視して午後のコルドバ近郊のテスト飛行でアエロバティック機動を実施した。高いG荷重旋回に続いて主翼が胴体から脱落する構造破壊が発生した。マーチンベーカー Mk.1 射出座席を苦労して作動させ、Vedania大尉は機体が背面状態の時に低空で射出したが、パラシュートは完全には展開せずVedania大尉は死亡した。プルキー IIの欠陥の原因は、主翼と胴体を締結している結合ピンの溶接に関連した加工技術の不手際にあった。近代的な鍛造技術とプレス機器が欠如していたアルゼンチンには溶接は必要不可欠の製造工程であった。 試作3号機(No. 03)の製作は、この試作2号機の損失の直後に始まった。設計チームは、横方向の安定性の改善のための方向舵の大型化、排気口覆いの拡大、特徴ある機尾側面から回転して突き出るエアーブレーキの追加、キャノピーの更なる強化といったことを含む最初の「飛行可能」な試作機で発見された設計上の不具合に対処する数々の変更から手を付け始めた。機体内部の燃料搭載量を増加したことにより航続距離は2,030 - 3,090キロメートル (1,260 - 1,920 mi)へ延びた。新しいI.Ae. 33の試作機はJorge Doyle大尉の操縦で1952年9月23日に初飛行を行った。この機体は1952年10月11日にペロン大統領の前で展示飛行を行うために準備されていたが、飛行テストは再開された。この展示飛行で操縦することになっていたベーレンスはプルキー IIの飛行範囲の限界領域での飛行特性について制限を課されており、ベーレンスはその飛行特性を「テストパイロットとして経験した中で最悪」と評した。展示飛行の2日前に予行演習を行っていたベーレンスは低空でプルキー IIを失速、墜落させてしまい死亡した。これで試作機は失われた。 1953年にタンクは4番目の試作機(No. 04)を製作し、左右の主翼にストール・フェンスを、後部胴体に4条のストレーキを追加して設計上のディープ・ストールの問題を解決しようとした。その他の改良には与圧式コックピット、燃料容量の増加と4門の信頼性の高いイスパノ・スイザ HS.404 20 mm 機関砲を装着した最初の試作機となった。Conan Doyle中尉の操縦で1953年8月20日に初飛行した4番目の試作機は、Gonzalez中尉とBalado中尉により1954年から兵装のテストが始められた。 レーダーを搭載したI.Ae. 33の「全天候」型が計画される一方でアルゼンチン空軍は、改良型のアフターバーナー付のニーン エンジンを搭載して最高速度マッハ 0.98が期待される量産型のプルキー IIを100機購入して迎撃任務に就かせるという予備的な計画を立案した。1951年のオランダや1953年のエジプトといった数か国の購入希望者が一様にI.Ae. 33に興味を示したが、量産化に向けての明確な意思表示の欠如により輸出販売の見込みは妨げられ、結局は両国共に他の入手可能な戦闘機を購入した
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「ハンドレページ HP.115」の記事における「テストと評価」の解説
1機のみの試作機「XP841」はJ・M・ヘンダーソン(J.M. Henderson)の操縦でベッドフォードの王立航空研究所で1961年8月17日に初飛行を行った。コンコルド開発計画での研究においてBAC 221(改良型のフェアリー デルタ2)が高速領域での研究に、HP.115が低速領域での研究に使用された。HP.115は69 mph (111 km/h)という低速でも十分な機体制御に余裕を持ちつつパイロットが急激なバンク角の変更を披露できるほどの高い能力を持っていた。2度の軽微な事故にもかかわらず実験計画は1974年までの長い期間に渡り、デルタ翼機の離陸と着陸時の運用に関する貴重なデータを提供した。 ニール・アームストロングが1962年にテストパイロットとしてHP.115を飛行させることになっていたが、アームストロングが宇宙飛行士に選定されるとアメリカ航空宇宙局はこの機を操縦する許可を取り消した。アームストロングは後に1971年になってHP.115に搭乗した。 HP.115は「リーディング・エッジ・エキヒビション」の一部であるヨーヴィルトンの艦隊航空隊博物館にBAC 221とコンコルドの試作機と共に展示されている。
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テストと評価
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B-クラス シリアルナンバーの「U-9」をつけた試作初号機は、1940年9月15日に初飛行し、その後に要求仕様F.19/40の試作機段階にもかかわらず軍用機シリアルナンバー 「AX834」をつけて航空機・兵装実験機関(A & AEE)でテストされた。武装はハリケーン機と同様に8丁の.303 ブローニング機関銃を装備していた。M.20の試作機はハリケーン機よりも優速、生産型のスピットファイア機よりは低速であったが、装弾数は多く、航続距離は両機よりも長かった。イギリス上空からドイツ空軍が駆逐されるとM.20への要望は消え、量産に入ることなく設計は放棄された。試作初号機はウッドレイで廃棄処分にされた。 「U-0228」後に「DR616」のシリアルナンバーをつけた試作2号機は、アレスティング・フックとカタパルト射出ポイントを備えた艦隊航空隊の艦載機を求めた要求仕様 N.1/41に応じた機体として製作された。1941年4月8日に初飛行したこの型は、CAMシップからカタパルトで射出することが可能であったが、CAMシップが飛行甲板を備えていなかったので任務終了後は不時着水することになり、このため降着装置は投棄可能となっていた。旧式のハリケーン機がこの任務に充てられたことでM.20は不要となり、結局この艦載型も廃棄処分とされた。
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「I.Ae. 30 ナンク」の記事における「テストと評価」の解説
テストの結果この機体は良好な飛行特性を持ち、要求性能に合致していることが分かった。コルドバからブエノスアイレスまでの横断飛行の最中にI.Ae. 30は、南アメリカのピストンエンジン機の速度記録である平均速度780 km/h を記録し、この記録は破られていない。アルゼンチン空軍は既に次世代の戦闘機としてI.Ae. 27 プルキー Iを計画しており、試作機は最終段階までは開発されなかった。 公式な興味が薄れた1949年初めに唯一の飛行可能な試作機がテストパイロットCarlos Fermín Bergaglioの判断の誤りで着陸時に事故を起こし、酷く破損した。パイロットは無傷で機体も修復可能であったが、空軍は破損した試作機の破壊を命じ、未完成の試作機2機を廃棄処分にして開発計画を破棄した。
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「I.Ae. 27 プルキー I」の記事における「テストと評価」の解説
試作機の初飛行はオズヴァルド・ヴァイス(Osvaldo Weiss)中尉の操縦で1947年8月9日に行われた。本機の性能は不満足なものであると考えられ、そのうちに真に先進的でより発展性のあるFMA I.Ae. 33 プルキー II の研究が進んだためにプルキー Iの歴史は短いものであった。それにもかかわらず航空機史の中でプルキー Iはアルゼンチンとラテンアメリカで開発、製造された最初のジェット戦闘機として価値のあるものである。プルキー I によりアルゼンチンは世界で5番目の自力でジェット戦闘機を開発した国となった。 修復された試作機は現在ブエノスアイレスのモロン(Morón)にあるアルゼンチン空軍(Fuerza Aérea Argentina)の航空博物館(Museo Nacional de Aeronáutica)に展示されている。
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「マーチン・ベイカー MB 3」の記事における「テストと評価」の解説
シリアルナンバー R2492と「実験機No.120」("Experimental Aeroplane No.120")が与えられたMB 3は、試験のために一時的に第26運用訓練部隊(26 OTU :Operational Training Unit - RAF Wing in Buckinghamshire)に配備されて1942年8月31日に初飛行を行った。試験はSnaith大佐の指揮とその他リンネル(Linnell)とバートン(Burton)少将(Air Vice Marshal)の監督下で実施された。ベイカー大尉の操縦で初飛行が成功した後の一連の試験飛行でMB 3は高い運動性と操縦の容易さを示した。1942年9月12日の離陸後間もなくエンジンが停止し、ベイカー大尉は機体を救おうと困難な不時着を敢行した結果飛行場に墜落して死亡した。 部隊報告書では以下の様に述べている:「離陸直後に突如としてエンジン出力を失ったベイカー大尉は、機体を救おうと飛行場内へ緊急着陸を試みたが樹木の切り株に激突して死亡した。」 その後、原因究明の査問法廷は事故原因を「エンジン内部のクランクシャフトのスリーブが破損したことによりエンジンが停止し・・・」と判定した。 裏付けのない報告書では、事故機のネイピア セイバー エンジンは既に地上運転の段階でオーバーヒートの問題を抱えていたとされている。 地上整備員のジョージ・ビグナール(George Bignall)は「誰もハンガー内に立ち入ることを許されなかったが試験時には機体を見ることができた。ベイカー大尉が操縦して滑走路を低空でその機体が非常な高速で飛行するのを時折見かけた。」と思い返し、事故当日のことをこう語る「ベイカー大尉がストゥックリーに向けて離陸した時に自分は機銃の調節をしていた。大尉は離陸して直ぐにエンジンが停止し、着陸させようと試みたが墜落した。」 民間人のジョン・ソーントン(John Thornton)も事故を目撃した:「モーリスと私が耕していた所から畑2つ隔てたところに脱穀された麦わらが積み上げてあった。MB 3はこれに激突し、燃え上がった。コールドハーバー農場(Cold Harbour Farm)の農場管理人'バニー'・ウインター('Bunny' Winter)が我々二人を墜落現場へ急かしたが、燃え上がる機体からベイカー大尉を救い出すには遅すぎた。」 部隊報告書では、実際にはウインター氏がベイカー大尉の遺体を機体から何とか引っ張り出したとされている。 様々な遅れと予想される納入の遅延により航空省はこの設計案が時代遅れであると判断し、量産の発注は行わなかった。 唯一の試作機の喪失にもかかわらずMB 3の設計案は諦められることはなく、マーチンはロールス・ロイス グリフォン エンジンを搭載したMB 4を設計することを決めた。この計画は、後にMB 5となる全く新規の設計案のために破棄された。
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「EWR VJ 101」の記事における「テストと評価」の解説
2機の試作機X-1とX-2が作られ、1963年4月10日にX-1号機が最初のホバリング飛行を行った。ホバリング飛行から水平飛行への遷移は1963年9月20日に行われた。VJ 101C X-1号機は40回の空力飛行と24回のホバリング飛行に14回の完全遷移を行った。これらのテストの間に垂直離着陸機では初めて音の壁を突破したが1964年9月14日に自動操縦の欠陥が原因で墜落した。1964年7月29日にVJ 101Cはアフターバーナーを使用せずにマッハ1.04で飛行した。 1965年10月22日に新しい自動操縦装置を取り付けたX-2号機は遷移飛行を成功させた。テストは引き続きX-1号機には無かったアフターバーナーを付けたX-2号機で続けられた。しかし開発プロジェクトは1968年にキャンセルされた。マッハ2級の迎撃機になると目されたVJ 101D型は造られなかった。VJ 101C X-2号機は現在ミュンヘンのドイツ博物館で吊るされて展示されている。
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