五・一五事件
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裁判
事件に関与した海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締罰則違反・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。起訴までの間に、陸海軍と司法省の間で調整が図られ、陸海軍側は反乱罪を軍人以外にも適用する事を主張したが、司法省の反対により反乱罪の民間人への適用は見送られた。
海軍軍法会議
海軍軍法会議は1933年(昭和8年)5月17日、予審を終えて反乱罪・同予備罪で古賀海軍中尉、三上海軍中尉ら10名を起訴した[2]。三上らは公判において自分たちの主張を国民に訴えかけて広めることにより、公判を通じて国家改革を進める事を獄中で誓い合った。7月24日、公判が開始されたが、この際、被告人達には新調した軍服を着ることが特別に許可された。古賀中尉は自分の思想的背景について述べ、政党政治家や財閥などの特権階級を批判した。三上中尉は政治家、財閥、高級軍人らを徹底的に批判し、天皇親政による国家改革の必要を説くなど計3日間にわたって公判で自説を展開し注目を集めた。他の被告人も日本の現状を批判し、犬養首相には個人的恨みはないが国家改革のために仕方なく襲撃したことを述べた。公判は28回にわたって開かれ、9月11日、論告・求刑が行われた。山本検察官は古賀中尉を反乱罪の首魁とし、三上中尉、黒岩予備少尉も首謀者として3名に死刑を、中村中尉ら3名は同罪で無期禁錮、伊東少尉ら3名は反乱予備罪で禁錮6年、塚野大尉は同罪で禁錮3年とそれぞれ求刑した。弁護人は被告人らの愛国心を訴えて情状酌量を求めた。検察官の論告文は事件を暴挙として批判し軍人として政治に関与する事を戒める内容であったが、これは被告人らがロンドン海軍軍縮条約への批判を行っていたことから、海軍内の条約賛成派が主導したものであった。これに対し、条約反対派からは強い反発が起こり、両派の対立抗争が判決に影響を与えることとなった。11月9日、判決が言い渡され、古賀、三上に禁錮15年、黒岩に禁錮13年、中村ら3名に禁錮10年、伊東ら3名に禁錮2年、塚野に禁錮1年という、求刑に比べて遥かに軽い判決が下された。判決文では事件を重罪に当たるものとしながら、被告人らの憂国の志を褒め称える内容となっていた。
陸軍軍法会議
陸軍軍法会議は1933年(昭和8年)5月17日、反乱罪・同予備罪で元陸軍士官候補生11名を起訴し、7月25日、公判が開始された。公判において後藤映範は明治維新の勤皇志士について述べ、五・一五事件を桜田門外の変になぞらえた。篠原市之助は犬養首相には何の恨みもないが支配階級の象徴として仕方なく襲撃したことを述べた。他の被告人も東北の農村の窮状を涙ながらに訴えて政界・財界の腐敗を糾弾するなど自説を展開し、決起に至った動機が日本の革新であることを主張した。公判は8回開かれ、8月19日に論告・求刑が行われ、匂坂春平検察官は被告人全員に対し禁錮8年を求刑した。反乱罪は主導者については全て死刑という重罪であったが、元陸軍士官候補生の被告人らは従属的立場で犯行に関わったのみであるという理由であった。この際、軍人である匂坂検察官が被告人の人間性について褒め称えたりするなど、被告人らに対する陸軍側の擁護的姿勢が見て取れる。9月19日、被告人ら全員に求刑より軽い禁錮4年の判決が下された。
東京地方裁判所
東京地方裁判所は1933年(昭和8年)5月11日、予審を終え民間人被告人20名を爆発物取締罰則違反などの罪で起訴し、9月26日に公判が開始され、23回の公判が開かれた。10月30日に論告・求刑が行われ、橘、長崎に無期懲役、大川ら4名に懲役15年、他の被告に12年から7年の懲役が求刑された。翌1934年(昭和9年)2月3日、判決が言い渡され、橘が無期懲役、大川ら3名が懲役15年、他の被告らが懲役12年から7年となった。首相を射殺した実行犯で首謀者の三上中尉ら軍人が禁錮15年であるのに対し、民間人参加者への判決は相対的に非常に重いものとなっている。
当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり[14]、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが後に起こる二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、実際二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によってうかがえる。
注釈
出典
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “五・一五事件”. コトバンク. 2019年5月15日閲覧。
- ^ a b c d e 小山俊樹、『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』、中公新書
- ^ 海兵52
- ^ 五・一五事件陸海軍大公判記59頁 140頁
- ^ 海兵52、昭和4年11月赤化事件で免官
- ^ 『高松宮日記第2巻』中央公論社、78頁。
- ^ 一年振りに漸く大不祥事の真相明白(大阪朝日新聞1933年5月17日)神戸大学附属図書館新聞記事文庫、2016年8月11日閲覧。
- ^ 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・神戸新聞(昭和8年(1933年)9月20日) 犯罪,刑務所および免囚保護(5-112)
- ^ 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・時事新報(昭和8年(1933年)11月10日) 犯罪,刑務所および免囚保護(5-122)
- ^ 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・中外商業新報(昭和8年(1933年)7月25日) 犯罪,刑務所および免囚保護(5-077)
- ^ 『憲高秘第九〇四號』より「五月事件ニ關スル件報告(通牒)」(昭和七年五月二十日 憲兵司令官 秦眞次)
- ^ 明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第四巻 通史編Ⅱ、学校法人明治大学、1994年、250-251頁
- ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 91ページ
- ^ “五・一五事件~なぜ、海軍青年将校たちはテロリズムに走ったのか”. shuchi.php.co.jp. 2021年5月15日閲覧。
- ^ 山岸ら海軍側の三人も仮出所『東京朝日新聞』(昭和13年2月2日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p133 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 古賀、三上、黒岩が最後に出所『東京朝日新聞』(昭和13年7月6日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p133
- ^ 読売新聞昭和7年5月15日第三号外
- ^ 『昭和史発掘』
- ^ 『昭和動乱期の回想』
- ^ 血盟団、二・二六事件などの記録提出命令(昭和20年12月16日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p345 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 『昭和史探訪2』
- ^ allcinema『映画 重臣と青年将校 陸海軍流血史 (1958)について 映画データベース - allcinema』 。2023年9月27日閲覧。
- ^ “チャップリン暗殺計画 - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇”. テレビドラマデータベース. 2023年9月27日閲覧。
- ^ なるお, もりた (2000). 昭和維新 : 小説五・一五事件. 東京: 新人物往来社
- ^ なるお, もりた (2000). 昭和維新 : 小説五・一五事件. 東京: 新人物往来社
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