このえ‐さきひさ〔コノヱ‐〕【近衛前久】
近衛前久
近衛前久
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近衛 前久(このえ さきひさ、旧字体:近󠄁衞 前󠄁久)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿。太政大臣・近衛稙家の子。官位は従一位・関白、左大臣、太政大臣、准三宮。近衛家17代当主。
注釈
- ^ 湯川敏治は、近衛尚通の妹・慶寿院が将軍・足利義晴に嫁いで所生の義輝が将軍になったことで、近衛家を介して朝廷と室町幕府の関係が強化されたことを指摘し、前久の下向の背景には、近衛家先代稙家・正親町天皇・将軍義輝・慶寿院らによって進められていた朝廷(室町幕府)再興計画の一環として謙信の上洛を促すために派遣されたとする説を採る[3]。ただし、近衛家と関東地方に関しては尚通の姉である通称「北の藤」と呼ばれた女性が北条氏綱の後妻になっていたことも考慮する必要がある。しかし、「北の藤」は天文年間末頃には亡くなっていたと推定されるため[4]、近衛家と後北条氏の関係が前久の行動を抑制することはなかったとみられる。
- ^ 谷口研吾は叔父である久我晴通(近衛稙家の実弟)が前久の追い落としに関与した可能性を指摘している[5]が、金子拓は晴通が細川藤孝・一色藤長らと連絡を取り合い、義昭の京都追放後も公家で唯一義昭に同行したことを指摘するものの、前久とも関係があったことを指摘して結論を保留している[6]。
- ^ 天正6年(1578年)6月には2人で少数の供だけを連れて鷹狩りに出て満喫した信長が、その場で当時の公家領としては破格の1,500石の加増の命令書を書いて前久に渡したという。
- ^ この前久邸は元は天正7年(1579年)に羽柴秀吉が自邸として建設したものの、信長に没収されて代わりに前久に贈られた物であり、二条御所周辺で唯一の武家造の建物であったという。
- ^ この事から本能寺の変の黒幕を前久だとする説があるが、本能寺の変直前には信長を後任に推挙して太政大臣を辞任し、かつ変前日にも信長と歓談していた程の親密な関係であった前久にとって、信長の死は痛恨の窮み以外の何物でもなかった。これは、本能寺の変直後に出家している事や、既に徳川氏の天下になっていた慶長13年(1608年)の信長の命日に追悼句会を開いている事からも明白である。
出典
- ^ a b 天野 2014, p. 85.
- ^ 天野 2014, p. 99.
- ^ 湯川敏治『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会、2005年、100-103頁。ISBN 978-4-7971-0744-9。
- ^ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年、29-31頁。ISBN 978-4-86403-289-6。
- ^ 谷口 1994, p. 75.
- ^ 金子拓「久我晴通の生涯と室町幕府」『織田信長権力論』吉川弘文館、2015年、61-63・68-69頁。ISBN 978-4-642-02925-4。
- ^ 谷口 1994, p. 83.
- ^ 近衛通隆「近衛前久」『国史大辞典』 5巻、吉川弘文館、1985年。ISBN 4-642-00505-6。
- ^ 藤本正行『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』洋泉社〈歴史新書y〉、2010年、236頁。ISBN 978-4862486387。
近衛前久(このえ さきひさ)
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「秀吉でごザル!!」の記事における「近衛前久(このえ さきひさ)」の解説
朝廷では関白の役職についている大物政治家。「玉藻」という代々近衛家に伝わる「憑き鬼神」を使役し、祖先藤原鎌足から引き継いだ大鎌を使う。かつては乱世を終わりに導くために各地の有力大名の下に遣いを送り、時には自ら命がけで交渉にあたる事もあった。以前より天下人の育成に奔走していたが、信長次いで秀吉に目を付ける。そのやり口は足利義昭に命じて信長包囲網を形勢し一度は信長を死に追い詰めるなど苛烈を極めたが、最終的に目的のためなら手段を選ばない性格が災いし、秀吉の陰謀により信長との敵対を余儀なくされ、朝廷を信長から守るために信長に先んじて彼の狙っていた何の権限も無い太政大臣の地位を拝命して九州への逃亡を余儀なくされた。後に本能寺に現れ降伏するふりをして信長に近づき切り捨てた。
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近衛前久
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「信長の野望・武将風雲録」の記事における「近衛前久」の解説
征夷大将軍就任イベントで登場する公家。征夷大将軍になると領土の民忠誠度や家臣の忠誠度が上昇する。機種によっては使者が「禁裏使者」、「公家」となっている場合がある。
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近衛前久(このえ まえひさ)
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「テンカイチ 日本最強武芸者決定戦」の記事における「近衛前久(このえ まえひさ)」の解説
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近衛前久
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「徳川家康 (山岡荘八)」の記事における「近衛前久」の解説
公卿。
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