しょし‐ひゃっか〔‐ヒヤクカ〕【諸子百家】
諸子百家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/11 13:55 UTC 版)

分類
諸子百家の「~家」の分類は、漢代の学者が後から与えたものである[1]。したがって、諸子百家自身は自分達のことを「~家」とは呼んでいなかった。とはいえ、大まかな学派意識は持っていた[2]。特に「儒」と「墨」と呼ばれる集団が二大学派として認知されていた(儒家八派・墨家三派)[3]。
前漢初期の司馬談は、諸子百家を六家(六学派)に分類した[4]。
後漢の班固は『漢書』芸文志で、上記の六家に三家を加えて九流に分類した。
さらに、これに小説家を加えたものを十家としている。(このような『漢書』芸文志の分類方法は「九流十家」と呼ばれる。)
そして、十家に兵家を加えた合計十一家を諸子百家というのが、現代では一般的である。
歴史
春秋時代に多くあった国々は次第に統合されて、戦国時代には7つの大国(戦国七雄)がせめぎ合う時代となっていった。
諸侯やその家臣が争っていくなかで、富国強兵をはかるためのさまざまな政策が必要とされた。それに答えるべく下克上の風潮の中で、下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家が登場した。諸侯はそれらの人士を食客としてもてなし、その意見を取り入れた。さらに諸侯の中には斉の威王のように今日の大学のようなものを整備して、学者たちに学問の場を提供するものもあった(稷下の学士)。その思想は様々であり、政治思想や理想論もあれば、実用的な技術論もあり、それらが渾然としているものも多い。墨家はその典型であり、博愛主義や非戦を唱えると同時に、その理想の実践のための防御戦のプロフェッショナル集団でもあった。儒家も政治思想とされるものの、同時に冠婚葬祭の儀礼の専門家であった。兵家は純粋な戦略・戦術論を唱える学問と考えられがちであるが、実際には無意味な戦争の否定や富国強兵を説くなどの政治思想も含んでいた。
百家争鳴の中で、秦に採用されて中国統一の実現を支援した法家、漢以降の王朝に採用された儒家、民衆にひろまって黄老思想となっていった道家が後世の中国思想に強い影響を与えていった。また、兵家の代表である孫子は、戦術・政治の要諦を短い書物にまとめ、それは後の中国の多くの指導者のみならず、世界中の指導者に愛読された。一方で墨家は、儒教の階級主義を批判して平等主義を唱え、一時は儒家と並ぶ影響力を持ったが、その後衰退している。
書物の著者
諸子は、諸侯に自説を説くだけでなく、自説を継承・拡散する弟子の育成もした[5]。現存する『~子』という書物は、名目上の著者は諸子本人だが、実際の著者は多くの場合その弟子たちだった[5]。「先生・師匠」を意味する「子」という尊称が使われたのもそのためだった[5]。また、現存する『~子』の大半は複数の「篇」からなるが、本来は一篇で一個の作品だった[6]。その後、前漢の宮廷図書館の劉向ら後世の学者による編集を経て、現存する『~子』の形になった。
後世の受容
漢代
前漢には、道家または儒家を軸に諸子百家を統合したような、雑家的な思想が流行した。その例として、黄老思想、『淮南子』、陸賈・賈誼の思想がある[7]。また『史記』や『戦国策』に諸子の伝記や逸話がまとめられた。
宮廷図書館の劉向・劉歆らは、諸子の書物を収集整理して『七略』に一覧を記した。この『七略』をもとに上記の『漢書』芸文志が書かれた。
魏晋以降の忘却
魏晋以降は、儒教において孔子や孟子が、道教・玄学・禅などにおいて老子や荘子が、兵学において孫子が、といった形で、一部の諸子のみが重視され、それ以外の諸子はあまり注目されず、大半の書物が佚書となった。
そのなかで諸子全体に注目した希少な例として、劉勰『文心雕龍』諸子篇[5]、唐宋八大家の著作[8]、黄震『黄氏日鈔』読諸子篇[5]、高似孫『子略』、宋濂『諸子弁』などがある。また『抱朴子』『劉子』『金楼子』など、諸子に倣った書物も作られた。
近世以降の諸子学
明末になると、出版文化の発達による叢書出版の流行により、諸子全体が再注目され[9]、楊慎・李贄・焦竑・胡応麟・傅山らが諸子を研究した[5]。
清末の考証学や[5][10]、江戸時代の徂徠学派[11]・折衷学派[12]・考証学派[13]の漢学では、さらに多くの学者が諸子を研究した。近現代になると、西洋哲学に対する「中国哲学」の代表格として諸子が重視されるようになった[14]。
20世紀末から21世紀には、中国各地の考古遺跡において、諸子の異本や佚書を含む竹簡・帛書が発掘された[15]。その例として『老子』(老子#馬王堆・郭店の発掘書)『孫臏兵法』『戦国縦横家書』がある。
目録学
『漢書』芸文志以降の図書目録(目録学)では、図書分類上の分野名として「~家」が転用された[16]。つまり例えば、四部分類の「子部」において、北魏の『斉民要術』などの農書は「農家」の書物、明の『紀効新書』などの兵法書は「兵家」の書物とされた[17]。
脚注
- ^ 伊東倫厚・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)『諸子百家』 - コトバンク
- ^ 『荘子』天下篇、『荀子』非十二子篇など
- ^ 『韓非子』顕学篇
- ^ 『史記』太史公自序の「論六家要旨」。
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:論六家要旨
- ^ a b c d e f g 関口順・濱口富士雄 著「諸子学」、溝口雄三; 丸山松幸; 池田知久 編『中国思想文化事典』東京大学出版会、2001年、348-355頁。ISBN 978-4130100878。
- ^ 鶴間和幸『始皇帝の愛読書 帝王を支えた書物の変遷』山川出版社、2023年。ISBN 978-4-634-15216-8。192頁。
- ^ 井ノ口哲也『入門 中国思想史』勁草書房、2012年。 ISBN 978-4326102150。 「第三章 国家統一のための政治思想―秦・前漢」
- ^ “唐宋変革期における諸子学の隆盛及び中唐古文家との関係”. KAKEN. 2023年10月16日閲覧。
- ^ 三浦秀一「明代諸子学史略 ─ その形成過程を論じ地平の拡張に及ぶ ─」『集刊東洋学』第119巻、2018年。
- ^ 小林武『中国近代思想研究』朋友書店、2019年。 ISBN 9784892811784。 「第三編 清末の諸子学と異文化受容」
- ^ 松井真希子. “徂徠学派における中国先秦諸子研究―文化交渉学の視点から”. KAKEN. 2023年10月21日閲覧。
- ^ 土屋紀義・佐々木研太『江戸時代の呂氏春秋学:山子学派と森鐵之助・新出注釈二種』中国書店、2017年。 ISBN 978-4903316581。
- ^ 町田三郎「力作の『管子纂詁』」『江戸の漢学者たち』研文出版、1998年、ISBN 978-4876361557。
- ^ B.A.エルマン 著、馬淵昌也・林文孝・本間次彦・吉田純 訳『哲学から文献学へ: 後期帝政中国における社会と知の変動』知泉書館、2014年。 ISBN 978-4862852007。 p. 339f(馬淵昌也解説)
- ^ 西山尚志「諸子百家はどう展開したか」『地下からの贈り物 新出土資料が語るいにしえの中国』中国出土資料学会、東方書店、2014年。ISBN 978-4497214119
- ^ 金文京「中国目録学史上における子部の意義 : 六朝期目録の再検討」『斯道文庫論集』第33号、慶應義塾大学附属研究所斯道文庫、1998年 。
- ^ “全國漢籍データベース 四庫提要”. kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp. 2023年11月22日閲覧。
関連項目
- 疑古
- 百花斉放百家争鳴
- 先秦諸子繋年
- 新編諸子集成
- 中国哲学書電子化計画
外部リンク
- 中國哲學書電子化計劃 - 諸子百家の各著作の原文(英語と中国語)
- 『諸子百家』 - コトバンク
諸子百家
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詳細は「諸子百家」を参照 諸子百家は春秋戦国時代に栄えた哲学者・学派である。同時代に中国では大きな文化的・知的発展が起こった。同時代の後半は混乱と血みどろの戦闘を含むにもかかわらず、中国哲学の黄金時代としても知られる、というのはこの時期に広い範囲の思想・思考が自由に討論され、発展したからである。この時代に討論され洗練された思想・思考は東アジアの国々で今日に至るまで生活様式・社会意識に大きな影響を与えてきた。この時代の知識人の社会は旅をする学者の存在によって特徴づけられる。彼らはしばしば様々な国の為政者に参謀として召し抱えられ内政・戦争・外交に関して助言を授けた。この時代は秦王朝による中国統一とそれに続いて起こった焚書坑儒によって終わりを告げた。漢書には10の主な学派が列挙されている: 儒学、人間は特に自己修養・自己創造を含む個人的・社会的努力を通じて学び発展して完全になることができると教える。儒学の主な思想は徳の修養と道徳的な完成度の発展である。儒学は、基本的な道徳的価値である「仁」と「義」を維持するために受動的であるにしろ能動的であるにしろ必要ならば人は自らの命を捨てるべきであると考える。 法家、人の本性は利己的であって矯正できないと説く。それゆえ、社会秩序を維持する唯一の方法は人々の上に規律を課し、法律の厳格な施行を計ることである。このことを法家は何よりも上に置き、大衆の富の上での繁栄と軍事力増強を図った 道家、三宝、つまり、「慈」(同情心、憐み)、「儉」(節度、節制)、「不敢為天下先」(謙遜)を重要視する哲学。ただし道教徒は概して自然、人と宇宙の関係、健康と長寿、無為(活動しないことを通じた活動)に重点を置いていると考えられてきた。宇宙、つまりそれ自身から起こってくるもの(道)との調和は多くの道教徒の規則と実践の意図された結果である。 墨家、普遍的な愛という考えを唱道する。墨子は「天の前では皆平等である」、また、全ての人を分け隔てなく愛することで疑似的な天国を作ろうとするべきだと考えた。その認識論は原始的な唯物論的経験主義とみなされる。彼は人間の認識力は人間の抽象化にその要素に基づく想像力や直観的な論理の代わりにその知覚能力―視覚や聴覚のような感覚的経験―に基づくと考えた。墨子は倹約を推奨し、墨子が贅沢だと非難した音楽や儀式を重要視している点で儒家を非難した。 陰陽家、陰陽説と五行説を統合する。騶衍はこの学派の始祖だと考えられている。 農家、農民のユートピア的共産主義を唱道する。中国社会は古代の賢王神農の時代のそれに倣って作られるべきだと農家は考えた。神農は民俗的な英雄で中国文学の中で「皆とともに実地で働き、決定が届く限りの皆のことを考慮している」と描写される。 名家、定義と論理を重視する。古代ギリシアのソフィストや弁証家[要曖昧さ回避]と相似であるとされる。最も著名な名家は公孫竜である。 縦横家、倫理的な原理の代わりに実践的な事柄に重点を置き、そのため政治・外交的戦略、議論・ロビーイングの腕前を強調した。この学派の学者は有能な演説家・議論家・戦略家であった。 雑家、別の学派の教えを統合する。例えば、呂不韋は様々な学派の学者を見出して共同して『呂氏春秋』と呼ばれる著書をものした。様々な学派の美点をまとめ、各学派にみられる欠点に関してはこれを避けた。 小説家、思想において独特な点のない学派だが市井の人々が議論した、市井の人々に由来する全ての思想よりなる哲学である。 もう一つの学派は兵家であり、戦術と戦争哲学を研究した。孫子と孫臏が影響力の高い指導者である。しかしながら、この学派は漢書に定義された「十家」の一つではない。
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