創業以降
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1873年、マギルスは高さ14mの2段式延長はしご車「ウルマ―・ラダー(Ulmer Ladder)」を開発し、1873年にウィーンで開催された国際博覧会で発表し金メダルを受賞している。1883年にはマギルスの長男ハインリッヒが会社に加わる。業績は好調であり、新工場設立など得て企業規模が拡大している。1887年にマギルスは会社を3人の息子に対し譲渡。マギルスが開発した車両(ワゴン)は初期は馬により牽引され、次に蒸気エンジンに替わり、その後ガソリンエンジンによる動力に切り替わっている。1910年代後半にはトラックやバスの製造を開始。当初アメリカから輸入されたディーゼルエンジンを使用していたが、1929年以降、独自のディーゼルエンジンを開発し、このエンジンを使用した車両製造を開始している。また、マギルス製品は過酷な状況下でも作動するため技術力に関し定評がある。この他にもマギルスはターンテーブル式のはしご車を発明しており、これはマギルス・リッター(Magirus Leiter)と呼ばれ世界中で消防隊の必須機材となっている。 1940年から1945年までマギルスの名称は使用されず、フロントグリルに付いていたMを模したエンブレムもクレックナー=ドイツ(Klöckner-Deutz 正式には Klöckner-Humboldt-Deutz, KHD Deutz AGの前身)名義となり、KHDのエンブレムである円形の物に代わり販売が行われている。1949年にエンブレムはマギルスのMに戻っており、ブランド名はマギルス=ドイツとして販売されている。1974年にフィアットのトラック部門とのパートナーシップを締結。この結果、1975年にフィアットの商用車部門「イヴェコ」が誕生している。1975年にマギルス=ドイツはイヴェコの傘下企業となっており、「イヴェコ・マギルス」としてマギルスブランドのトラックを製造している。KHDとフィアットとの合弁事業は1979年に突如終了し、急遽フィアットがマギルス=ドイツの所有者となっている。イヴェコのトラックは、1980年代の終わりまでドイツおよび他のヨーロッパ市場や中東市場ではマギルスブランドとして販売されていた。 2013年、イヴェコ・マギルスは消防用設備品に関して再び「マギルス」ブランドを使用することを決定している。また、この年の9月23日に社名を「Magirus GmbH」に変更している。現在、マギルスブランドは、消防設備部門にのみ使用されているブランド名となり、通常のトラック部門ではイヴェコブランドが使用されている。
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創業以降
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1950年5月、齋藤、山崎、宇城の3名は京都機械を退社。京都市南区比永城町に24坪の工場を借り、創業者3人、京都機械からの移籍が4名、さらに工場の貸主である某社から1名、合計8名で創業した。なお藤田は創業者らの説得により、別の企業に在籍したまま、社外役員として経営に参加する。6月には車載工具の低価格化を狙うトヨタが、納入元を京都機械から京都機械工具に切り替える。その後朝鮮戦争特需により自動車業界と足並みを揃えるように、京都機械工具の業績も右肩上がりとなる。 1950年8月2日、京都機械工具株式会社が正式に発足。資本金は100万円。社長は齋藤が務めた。当時はスパナを手がけていたが、工程の全ては外注であった。なお製造と販売は分離しており、販売は藤田の在籍する京華産業に委ねられた。当時の商標は「京」の字を円形にした「工」の字で囲ったもの。工の字が二重丸に見え、「二重京丸」として親しまれた。 1950年 - 10月ごろから翌年にかけて、京都市南区東九条烏丸町に一貫生産が可能な工場(烏丸工場。工場165平方メートル、空き地132平方メートル)を設け、会社と生産の移転を行う。旧工場もメッキ設備を新設するなどして並行使用される。 1952年 - 資本金を200万円に増資し中京区西ノ京中合町の土地を買収し、御池工場(敷地1653平方メートル)を建設。10月には本社を移転、鍛造工場も作られ、完全な一貫生産体制が整う。 1953年 - スパナ、プライヤー、モンキーレンチのJIS表示を取得。資本金を400万円に増資(以下割愛)。従業員数は53人に増加した。 1956年 - 防衛庁の、1958年には日本国有鉄道の納入指定を得る。 1957年 - 伏見区下鳥羽長田町で14850平方メートルの土地を購入。営業を委ねていた京華産業が東京事務所を設立。伏見工場は1960年9月から随時稼働を開始。 1959年 - 8月、ソケットレンチの搾出加工製造の特許を出願。戦時中に見たアメリカ製のソケットレンチを越える品質のものを製造できるようになった。 1961年 - アメリカのフラーツール社への輸出を開始。車載・市販・輸出を同時に手がけるようになる。 1964年 - 伏見工場に本社と工場を移転。1966年には隣接地を1755.6平方メートル買い取り、さらに規模を拡大。御池工場の跡地は「御池ゴルフ」となった。 1966年 - 京都機械工具はトヨタの車載工具の90%を納入しており、トヨタの業績の向上に伴い、日本の作業工具メーカーでトップの業績を得るに至った。市場占有率は10.1%。この年から久御山町での土地の買収を始める。伏見工場では近隣に対する震動・騒音の公害が発生しており、また当地に国道1号枚方バイパスが開通されるなどしたため。なおこの頃から、熱処理、鍛造、メッキと、工程別に子会社を3社独立させている。 1968年 - 11月、久御山工場(敷地面積39000平方メートル)が操業開始。なお完成ないしは移転完了(表面処理工場除く)は1979年。久御山工場への完全移転および伏見工場の閉鎖は2000年2月。 1970年 - 輸出製品向けに特化した北陸ケーティシーツール株式会社を設立。工場の敷地面積約45000平方メートル、操業は1971年3月から。当時の売上高の内、輸出は20%を占めていた。また、1973年時点でその内90%以上はアメリカが対象であった。 1973年 - 販売部門を京華産業から、京華産業工具部を独立させた新会社であるケーティーシー販売株式会社に移管。京華産業工具部からは23名が移籍、京都機械工具からは5名が移籍し、新規入社4名の32名体制であった。同年、同社東京営業所が竣工。次いで仙台、広島など、営業拠点は8箇所となる。 1980年 - 3月、大阪証券取引所第二部、京都証券取引所上場。この頃の資本金は6億500万円。社長である齋藤が勲四等瑞宝章受章。なお1975年には藍綬褒章を受章している。 1981年 - 齋藤が社長を退き会長となり、専務の山崎が社長に、宇城が副社長となる。 1982年 - デラックス工具セット発売(後述)。藤田が社外取締役を退任。 1984年 - ミラーツール発売(後述)。ケーティーシー販売を吸収合併。伏見工場跡の遊休地活用、およびKTCツールのアンテナショップとして連結子会社「株式会社アサヒプラザ」(ホームセンター事業)設立。 1986年 - 精密金型事業に進出。 1988年 - 本社事務所を京都府久御山町に移転。 1989年 - 佐藤浩輔が社長に就任(もともとは三菱銀行から顧問として出向)。創業以来の「創業者トリオ」体制に幕が引かれる。 1992年 - トヨタがコストダウンのために、これまで月に1億円の売り上げを占めていた車載工具のオプション化を実行。輸出車向けへの出荷は継続されるも、車載工具の需要は減少の一途を辿る。 1994年 - ネプロス発表。鈴鹿サーキット公認ツールに認可。 1995年 - ネプロス発売。TMP優秀賞受賞。中国福建省に合弁会社「福清京達師工具有限公司」を設立。1997年からは現地での生産を開始。ただし高級品の生産は行っていない。 2001年 - トヨタF1チームとテクニカルパートナー契約を締結。 2002年 - 21世紀バージョンツール発売。企業ミュージアム「ものづくり技術館」完成。 2003年 - 第16回日経ニューオフィス推進賞「経済産業大臣賞」受賞 2004年 - 中国上海市に合弁会社「上海凱特希工具貿易有限公司」設立(2008年解散)。 2013年 - 大阪証券取引所と東京証券取引所の現物株市場統合に伴い、東京証券取引所2部に上場。11月、子会社「アサヒプラザ」を解散・清算することを発表。清算完了は2015年3月末の見込み。 ※ 特記無き場合、公式サイトの沿革に因る。 ※ 1964年 - 1988年までの間は京都市伏見区下鳥羽渡瀬町101に本社があった。跡地には連結子会社であるホームセンター「アサヒプラザ」(1984年設立)があったが2013年末に撤退(後述)。そののちは従来よりあった西友「下鳥羽店」、「ひごペットフレンドリー京都店」が営業を行っている。 「アサヒプラザ」では「KTC ワールド」ブースでKTC工具の直接販売も行っていたが、大手企業との価格競争により業績低迷が続き、事業の継続は困難として2013年11月20日、「株式会社アサヒプラザ」の解散、清算が取締役会で決定、2013年末をもって下鳥羽店、長岡京店共に閉店することとなった。京都新聞での報道によれば、今後は経営資源を工具事業に集中する見通し。 なおアサヒプラザは一号店が伏見区下鳥羽。1991年に南区吉祥院に出店しているがこれは1994年に撤退。1995年からは長岡京市に出店していた。
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