南洋興発創業以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 02:57 UTC 版)
同年11月29日、政府と東洋拓殖の協力の下に、南洋興発を創業し、その最高経営責任者(専務取締役)となった。創業3年目で経営を軌道に乗せ、そしてテニアン島にも製糖工場を建設したのを機に、欠員だった取締役社長に就任した。その後、製糖業以外にも事業を拡大し南洋群島における最大の企業へと発展させた。 これらの経営手腕から、松江は「砂糖王(シュガーキング)」の異名をとるようになった。また、工員のために映画館・理髪店・演劇場・酒場など様々な娯楽施設をサイパン島や他の島々に建設した。1934年(昭和9年)8月には現職社長としては異例の松江の寿像建立に至った。この松江像はサイパン戦の戦火をくぐり抜けて、現在も砂糖王公園のシンボルとして残っている。 1940年(昭和15年)、健康上の理由から社長を辞任して会長に就任した。1943年(昭和18年)には、相談役に就いて南洋興発の経営から完全に身を引くことになった。なお高木惣吉が組織した海軍ブレーントラストに海軍省顧問として参加している。この間1941年(昭和16年)から1943年(昭和18年)まで蔵前工業会理事長を務めた。 1954年(昭和29年)11月29日、脳溢血で死去。この日は南洋興発の創業記念日でもあった。戒名は「顕光院殿春誉南洋興発大居士」である。会津会会員。
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