南洋興発の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:21 UTC 版)
南洋群島の統治を受任した日本が直面する国際的な社会問題を解決するため、松江に白羽の矢が立てられる。設立時の資本金の約70%を東洋拓殖とその子会社が出資、松江春次を初めとする社員と技術者が内地・台湾の製糖会社から招致された。 1922年に、松江は西村拓殖を買収して南洋興発を立ち上げ、南洋殖産のサイパン島、テニアン島における権利と事業を継承した。設立に際し、ドイツ製の最新の製糖機が導入され、50km近い鉄道路が敷設された。南洋殖産、西村拓殖の元従業員1,000人に加え、沖縄県からの約2,000人の移民が従業員として雇用された。経営方針として、日本本国、特に沖縄県の無産農民を導入した開拓の推進と、日本経済の南方への進出が掲げられた。 1923年よりサイパン島の製糖工場が稼働するが、オサゾウムシによる虫害、サトウキビを運搬する鉄道路の不備が会社を悩ませた。また、同年に発生した関東大震災により、東京に蔵置していた製品の砂糖が焼失する被害を受ける。先行きの見えない経営のため、内地からは南洋群島の開発の可能性を疑問視する「南洋群島放棄論」も呈された。ジャワ品種のサトウキビの導入による虫害の撲滅、輸送状況の改善により、1925年から経営は好転する。1925年に南洋興発の工場で9,000トンの砂糖が生産され、1935年には68,000トンにまで増加する。南洋庁は南洋興発に製糖事業を独占させ、耕作地の貸与に始まり砂糖の出荷に終わる工程では制度面・資金面において厚い保護を受けた。 製糖業の中心地であるサイパン島とテニアン島のジャングルは開拓されて工場・農場に変わり、道路・軽便鉄道が敷設された。1932年の南洋庁の歳入は約482万円であり、うち約309万円を南洋興発からの出港税が占めていた。
※この「南洋興発の設立」の解説は、「南洋興発」の解説の一部です。
「南洋興発の設立」を含む「南洋興発」の記事については、「南洋興発」の概要を参照ください。
- 南洋興発の設立のページへのリンク