南洋群島への進出を図る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:19 UTC 版)
1914年の第一次世界大戦開戦直後、東沙諸島の開発を断念した西沢吉治と三井物産の関係者が合同で「南洋経営組合」を創設し、西沢が代表となった。前述のように三井物産は日本の燐鉱石輸入を一手に担っており、また西沢は東沙諸島での挫折からの挽回を図っていた。西沢らが目をつけたのはドイツ領アンガウル島のリン鉱石であった。 1914年10月、日本海軍が南洋群島を占領すると、早速南洋経営組合がアンガウル島のリン鉱石採掘事業をドイツ側から引き継いだ。しかしこの措置は他の南洋群島関連の事業が企業出願を経た上で認可を受けていたのに対し、異例の対応と言えた。当然、南洋経営組合のアンガウル島リン鉱石採掘事業には批判が集まった。批判の急先鋒はラサ島燐鉱株式会社であった。安価かつ良質なアンガウル島のリン鉱石が南洋経営組合の手によって日本国内で流通することはラサ島燐鉱株式会社の経営を圧迫することが予想され、しかも南洋経営組合がアンガウル島のリン鉱石採掘事業を担うようなった経緯が不透明であったので、社長の恒藤らの抗議、批判の動きは激しかった。 1915年になって三井物産側は「南洋殖産株式会社」という新会社を立ち上げ、南洋経営組合の事業を引き継ぐ方針を決定する。会社設立の経緯から見てもわかるように、南洋殖産株式会社の発起人主要メンバーは三井物産の関係者で占められた。そのような中で恒藤らラサ島燐鉱株式会社側の動きは海軍省への激しい抗議活動にまでエスカレートした。そうこうするうちにマスコミが設立予定の南洋殖産株式会社とは海軍と三井物産との癒着の産物であり、第二のシーメンス事件に他ならないと批判するようになった。また南洋群島の実態調査を行った外務省は、西沢吉治の企業経営に多くの問題があると指摘し、海軍側も西沢のアンガウル島でのリン鉱山経営に大きな問題がある事実も把握していた。 恒藤らの抗議行動は政界工作に及び、ラサ島燐鉱株式会社が当時の第2次大隈内閣と与党、同志会に食い込んでいるとの報道がされるようになる。一方でマスコミによる海軍と南洋経営組合、南洋殖産株式会社の背後にある三井物産との癒着の追及も激しさを増した。またドイツ政府からはアメリカ政府を通じて再三、アンガウル島のリン鉱石資源を日本が強奪したとの抗議が来ていた。情勢が混迷する中、1915年7月、大隈内閣は南洋経営組合のアンガウル島のリン鉱石採掘事業許可を取り消す決定を行う。決定の背後には恒藤らラサ島燐鉱株式会社側の同志会や政府要人への働きかけがあったと考えられる。結局アンガウル島のリン鉱石採掘事業は海軍の直営事業とされた。南洋殖産株式会社設立計画は頓挫し、西沢や三井物産側のもくろみは潰えた。 採掘されたリン鉱石については入札制で販売されることになったが、ラサ島燐鉱株式会社はアンガウル島でのリン鉱石採掘権獲得のために海軍に請願を提出し続ける。しかし請願が受け入れられることはなく、後に南洋庁直営となる。しかしラサ島燐鉱株式会社は1921年、販売独占権を得るために6万トンのアンガウル産出のリン鉱石を買い占めた。また同年、フランス領ポリネシアのマカテア島産出のリン鉱石2万トンも買い占めるなど、南洋群島でもリン資源獲得を押し進めた。
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