創業・コルクから機械事業へとは? わかりやすく解説

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創業・コルクから機械事業へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:23 UTC 版)

マツダ」の記事における「創業・コルクから機械事業へ」の解説

1920年大正9年1月30日広島市中島新町10番地にマツダ源流となる東洋コルク工業株式会社設立された。清谷商会という1890年明治23年創業コルク製造・販売手がける企業経営悪化したため、主な融資であった広島貯蓄銀行中心となり、融資回収事業存続を図る方策として、それまで個人経営から会社組織改める形で設立された会社だった。設立にあたって当時広島主要な財界人参画し、初代社長には互選によって広島貯蓄銀行頭取海塚新八就任した。しかし海塚体調不良により辞任申し出たため、翌1921年大正10年3月取締役の中で唯一経営専念できる松田重次郎社長に就任松田重次郎コルク栓製造する際に出る屑コルクに目をつけ、広島高等工業学校との研究加熱製法による圧搾コルク板を商品化し、廃材から付加価値の高いコルク製品製造成功する海軍から大量受注得て業績回復し東京大阪にも出張所設けて経営積極的に展開した。 しかし東京出張所設けていたことが仇となり、1923年大正12年)に発生した関東大震災によって多く売掛金回収不能となって経営大きな打撃受けたかねてから松田重次郎親交のあった日窒コンツェルン総帥野口遵からの融資倒産回避したが、不況深刻化受けて従業員半分解雇する事態にまで追い込まれ、さらに1925年大正14年12月深夜火災によりコルク工場全焼してしまう。 こうした事態を受け、松田重次郎過当競争となっていたコルク事業から自身が得意とする機械事業への進出決意知遇得ていた呉海軍工廠長の伍堂卓雄支援依頼し日本製鋼所を通す形で注文取り付け資金面では野口保証人となり、芸備銀行から資金調達した1927年昭和2年)には社名東洋工業株式会社改称した1928年昭和3年初頭から、日本製鋼所宇品造船所などの下請工場として海軍関係の兵器機械部品製造始めた東洋工業は、同年10月広海軍工廠指定工場に、翌1929年昭和4年1月呉海軍工廠および佐世保海軍工廠指定工場となり、航空機エンジンプロペラ軍艦精密機械などを受注同年8月には海軍省購買名簿登録され従来第2次下請け立場から各海軍工廠第1次下請け工場地位確立した前述債務保証発端に、日本窒素肥料(現・チッソ)の経営参加開始され1931年昭和6年)には野口自身取締役就任したことで、東洋工業の4人の取締役の内、松田重次郎を除く3人が日本窒素肥料系で占められた。第二次世界大戦の頃まで東洋工業経営おおむねこの陣容進められていくことになる。

※この「創業・コルクから機械事業へ」の解説は、「マツダ」の解説の一部です。
「創業・コルクから機械事業へ」を含む「マツダ」の記事については、「マツダ」の概要を参照ください。

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