創業までの経緯
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「神谷伝兵衛」も参照 牛久シャトーの創業者、神谷伝兵衛は1856年に三河国(現在の愛知県東部)で生まれた。1873年、彼は横浜の外国人居留地でフランス人が経営するフレッレ商会で労働者として働き始め、ここでワインを知ることになった。1880年、独立した伝兵衛は東京・浅草で濁り酒の一杯売屋「みかはや銘酒店」を開業した。これは日本初の洋酒バー「神谷バー」の前身であった。当時の日本ではワインが一般には普及していなかったが、伝兵衛は1881年から輸入ワインに蜂蜜などを添加した甘味葡萄酒の販売を始め、1886年に「蜂印香竄葡萄酒」として商標登録したこの再生葡萄酒は人気商品となった。 明治20年代になると日本国内で輸入葡萄酒が流通し始め、伝兵衛は葡萄酒の醸造に向けて動き始めた。1894年、伝兵衛は養子の伝蔵をフランスのボルドーへ留学させた。牛久シャトー公式サイトによれば、伝兵衛は兄の娘を自身の養女とし、伝蔵は養女と結婚して婿養子に入り、結婚の3日後にフランスへと出立したという。伝蔵はデュボア商会が所有するカルボンブラン村醸造場でブドウの栽培法、機械の操作、醸造技術を学び、1897年1月に帰国して関連書籍、醸造用具、土壌サンプルなどを持ち帰った。 同年4月、伝兵衛は東京府豊多摩郡東大久保村(現在の東京都新宿区)でボルドー産のブドウの苗木6000本の試作を始めた。同年10月、醸造場の建設地を探していた伝兵衛は茨城県稲敷郡の女化原の原野120町歩を購入した。女化原はブドウの栽培に適した土壌で広い土地をまとめて購入することができ、また前年1896年に開通した日本鉄道会社土浦線(現在のJR常磐線)の牛久駅の近くに位置しており、交通の便にも優れていた。伝兵衛は1898年3月までに購入した土地のうち23町歩を開墾して試作していた苗木を移植し、「神谷葡萄園」を開設した。また設置した仮醸造場で白ワイン、赤ワインの醸造に成功し、1901年3月からフランスの醸造場をモデルとして醸造場の建築を開始した。三笠ホテルの設計などで知られる岡田時太郎が事務室、醗酵室、貯蔵庫、倉庫の工事設計を担当し、総工費3万強を費やして1903年9月に「牛久醸造場」が完成した。これにより、神谷葡萄園および牛久醸造場はブドウの栽培からワインの醸造、貯蔵、瓶詰出荷までの一貫した製造工程を有する日本初の本格的なワイン醸造施設となった。
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創業までの経緯
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1971年の夏、当時16歳のスティーブ・ジョブズと当時21歳のスティーブ・ウォズニアックは共通の友人ビル・フェルナンデスの紹介で知り合い、友人となった。2人の商業的な協力関係は1971年の秋に始まり、ウォズニアックが雑誌記事を参考にオリジナルのブルーボックス(英語版)(電話回線を不正利用して無料での長距離電話を可能にする機械)を自作し、ジョブズが学生などを相手にそれを売り回った。最終的に200台余りのブルーボックスが販売され、ジョブズとウォズニアックは大きな利益を上げたが、あるとき銃で脅されブルーボックスを奪われたことがきっかけとなり、身の危険を感じた2人は販売を止めた。ジョブズはのちに、ブルーボックスで商売をした経験がなければAppleが誕生することもなかったのは「100パーセント確実」だと語っている。 1975年までに、ジョブズはリード大学を中退してゲーム会社アタリに、ウォズニアックはカリフォルニア大学バークレー校を中退してヒューレット・パッカード (HP) に勤務していたが、ジョブズがウォズニアックを自分の職場に忍び込ませ、アタリのゲームを無料で遊ばせる代わりに仕事を手伝ってもらうなど、2人の交友関係は続いていた。1975年3月5日には、シリコンバレーのコンピュータマニアによる「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ (HCC)」の第1回会合がカリフォルニア州メンローパークで開かれ、ウォズニアックも参加した。HCCで当時最新鋭の個人用コンピュータ「Altair 8800」に触れたウォズニアックは大きな刺激を受け、すぐに自作コンピュータの設計に取り掛かった。 1976年3月1日までに、ウォズニアックはプロセッサとして安価なMOS 6502を使用し、外部ディスプレイとしてテレビを、入力機器としてキーボードをつなぐことができる自作のマイクロコンピュータを完成させた。ウォズニアックは、のちに「Apple I」と命名されるこのマシンをHCCの会合に持ち込んで披露し、大きな反響を得た。ウォズニアック自身はApple Iの回路図を無料で配布することを望んでいたが、ジョブズはこのコンピュータの商業的可能性に興味を抱き、Apple Iの組み立てに必要なプリント配線板を製造販売するビジネスを2人で始めるべきだと訴えた。 ウォズニアックは勤務先であるヒューレット・パッカードにApple Iを売り込んだが、HPの上層部はそのようなコンピュータの製品化に関心を示さず、結局ウォズニアックはジョブズと共に新会社を立ち上げ、事業を始めることに合意した。商品となるプリント配線板を設計製造するには1,000ドル以上の費用が掛かったが、ジョブズは愛車のワーゲンバス(フォルクスワーゲン・タイプ2)を、ウォズニアックは愛用していたヒューレット・パッカード製のプログラム電卓 (HP-65) を売却し、1,300ドル余りの資金を捻出した。
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