規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/14 15:02 UTC 版)
残存する墳丘は東西で約19メートル。墳高は地表から2.8メートル(石室床面から2.3メートル)。主軸を北北東に向けた横穴式石室を持つ。墳丘上に2か所、道路側に1ヶ所の盗掘口があった。 羨門および羨道の約半分が道路建設の際に削られているため、これらの詳細な形状などは不明。 石室は奥行きが5.4メートル。胴張形で最大幅は1.96メートルだが奥壁幅は1.66メートル、入口付近では幅1.40メートルとなっている。側壁は大きさの違う割石を小口積みしており、残存高は東側で32~86センチ、西側で50~120センチ。また、奥壁は幅85センチ、高さ1.25メートル、厚さ40センチの一枚岩で、床面には奥壁から2メートルまで玉砂利が敷かれていた。県道6号を豊田市方面へ向かうと、愛・地球博記念公園にある観覧車と道を挟んだ反対側の合流路に石室が開口しているのを見ることが出来る。
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規模と構造
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「岩屋古墳 (小牧市)」の記事における「規模と構造」の解説
発掘時には北西側を除く墳丘封土の大半が失われていたが、墳丘周辺で検出された溝状遺構を「周溝」と仮定すれば古墳の規模は約20~25メートルと推定されるという。 南・西側では羨道の石材が露出するまで崖状に封土が削り取られて、石室材の一部が転落し、東側に至っては石室東側が露出する状態まで墳丘が完全に削り取られていた。これは古墳裏手の石切場への通路を確保するため、江戸時代に掘削された可能性が高いとされる。 石室は擬似両袖式の横穴式石室。玄室は胴張型で全長3.8メートル、幅2~2.2メートル、高さ2.2メートル。玄門の幅は1.2メートル、高さ1.8メートル。羨道は残存長で3.6メートル、幅1.9メートル。石材は岩崎山から切り出された花崗岩、玄室は持ち送り積みで3~4段の石を使って構築されている。基底石には1メートル前後の石材が使用されており、鏡石は幅1.5メートルほど、玄門石も埋没部分まで含めれば全長2メートルを測るなど、比較的大きな石材が多い。また、幾つかの石材には築造当時のタガネによる加工痕が確認されている。 内部からは家形石棺の蓋などが出土しているが大半は失われており、石材として利用するために持ち出されたと考えられている。推定される棺の長さは2メートル。材質は礫質凝灰岩で、石棺材のみ禅師野(現・犬山市)付近から持ち込まれたものと推定されている。 なお、墳丘のさらに下層からは竪穴式住居4棟とそれに伴う溝状遺構7本、さらに20ヶ所以上のピットが検出された。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 16:31 UTC 版)
主軸は北西50°で、墳長約60メートル、後円部は直径約35メートル、高さ約7メートル、前方部は幅約52メートル、高さ約4.3メートルの前方後円墳。2段築成と推定されているものの、現状では確認できない状態である。前方部は道路により端部が失われるなどして原形を留めず、現在では忠魂碑が設置されており、後円部も大きく破壊されていたため、近年になって盛土により復元されている。葺石や埴輪などは無い。考古学者の柴田常恵は周濠は存在しないものと考えていたが、かつて周囲を囲んでいた幅10メートル程度の馬蹄型周濠があったとする説もある。なお、かつては陪塚と思しき塚が古墳の近傍に複数あったが、1887年(明治20年)の調査時点ですでに失われており、その規模など詳細は不明である。 内部構造については、1887年の記録として後円部にあったものが「一枚岩で棺は無い」と記録されていたことから、横穴式石室などではない石槨構造であったとする意見がある。墳丘の西側に発掘された石材の一部が置かれているが、これの詳細も不明である。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/03 05:03 UTC 版)
「若宮八幡古墳 (東松山市)」の記事における「規模と構造」の解説
古墳は東松山台地の西側の縁辺に位置しており、墳径約34メートル、高さ4.5メートルの円墳。石室は砂質凝灰岩によって築造されており、両袖式複室構造で全長8.8メートル、玄室長4.28メートル、前室長2.55メートル、羨道長1.97メートル。天井石からの重量を軽減させるべく両側の側壁が弧を描きながら脹らむ胴張型の構造となっている。出土品(後述)などから、6世紀末~7世紀初頭の築造と考えられている。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 09:42 UTC 版)
幅 - 約11.1メートル 長さ - 約5.1メートル 煉瓦造・4連アーチ構造 埼玉県内に残る煉瓦造りの樋門としては最古とされ、2005年(平成17年)には社団法人土木学会の土木学会選奨土木遺産に、また2007年には「春日部市の赤煉瓦建造物」として経済産業省の近代化産業遺産にも選出された。 角出し部分の上部に水色の水道管が設置されていた時期があった。理由は不明だが撤去され、やや下流側に移設されている。 煉瓦造りの樋門が多く現存するのは全国でも埼玉県のみで、その中でも最古だったことから価値が認められ、2019年に埼玉県指定文化財に指定された。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/16 18:48 UTC 版)
全長約26メートル、全幅約9.5メートル、水面からの高さ約8メートル。樋門は水路の橋も兼ねており、欄干部と階段は人造石モルタル仕上げ、上部は間知石積みとなっている。下部の水路部分は煉瓦造で4ヶ所のアーチ状の水路が作られて、上流側の中央2か所に木製の門扉とそれを引き上げるための機構が残る。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 04:11 UTC 版)
「天王山古墳 (春日井市)」の記事における「規模と構造」の解説
築造時の墳径28メートル、高さ4.5メートルと推定されており、かつては墳丘上に小さな社が置かれていた。従来、墳丘南側斜面の削平と先の社への通路以外は比較的に良好な状態と考えられていたが、2007年の調査で墳丘西側が中腹から削平されていたことが判明している。また、同調査で葺石が検出された。主体部や周溝は確認されていない。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 06:02 UTC 版)
発掘時には墳径20メートル・墳高4メートルの円墳とされたが、調査当時には道路をはさんだ西側にも塚状の土が残っており、これを前方部とする墳長40メートル以上の前方後円墳であったとの説もあって、墳長45メートル・後円部径20メートルのほか、墳長48メートル・後円部径29メートル・前方部幅24メートルを想定している説もある。 主軸を西方向に置いた主体部は割竹形木棺を粘土で包んだ粘土槨で、槨の上面はベンガラを含んだ赤色の粘土層で覆われていた。木棺の両端は粘土を煉瓦状に焼いた「セン」(塼、土偏に専)と呼ばれるものを積み重ねて塞いでおり、同様の例は無いと言う。また、木棺の北側に「セン」を使った副葬品室を設けるなど特徴的なもので、多数の鉄製品が出土した。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 13:42 UTC 版)
主軸は北西50°で、墳長約74メートル、後円部径約38メートル、高さ約6メートル、前方部幅約43メートル、長さ約37メートル、高さ約4.5メートル。くびれ部幅は約30メートルでその北側に造り出しがある。また、地籍図からかつては盾型の周濠があった可能性があるとされる。正式な発掘調査がされたことはなく、遺物は確認されていない。 現在では後円部東側に溝状の落ち込み地形が確認できるが、「春日山から巨石が掘り出され、白山神社の鳥居前の記念碑の台石に利用された」「春日山の上にある巨石も掘り出されたもの」「掘るとすぐに巨石にあたる」といった記録が残っており、横穴式石室の羨道から玄室の一部まで掘削された跡と考えられている。 また、前方部の発達状態から古墳群では最後に築造された前方後円墳と見なされている。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 13:43 UTC 版)
主軸は西北西70°で墳長は約86メートル、後円部径約48メートル、高さ約6.5〜7メートル。前方部は幅・長さともに約48メートルで高さ約5メートル。くびれ部の幅は約30メートルで両側に造出がある。馬蹄型の周濠が残存しているが、前方部(神社の参道)側の一部は区切られて池として利用されている。また、墳丘には葺石が残存している。なお、主体部については未だ調査がなされていない。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:13 UTC 版)
湧田山1号墳は北西に短小な前方部が突出する全長約100メートルの大型の前方後円墳で、後円部は正円形ではなく、丘陵の主軸に並行する形で長軸がある楕円形の形状をもつ。基底部が92×73メートル、高さは12~14メートルである。後円部の裾は段築部から丘陵の自然地形につながり、平野部や竹野川に面する東側に比べると、西側の基底部は不明瞭となっている。 後円部にとりついた前方部は、前端までの長さが約28メートル、前端の幅は40メートルで、高さは4~6メートルと測定された。後円部にのみ幅4~8メートルの段築をもつ二段築成となっており、前方部の頂点の平坦部の尾根からほぼ水平に直線で後円部の段築テラスに連なる、前方後円墳の墳丘上に円形の壇を載せたような構造となっている。この構造は丹後地方の他の前方後円墳と大きく異なる。 埴輪や葺石などの外表施設は存在しなかった可能性が高く、墳丘は地山を削る一方で、盛り土をして整形したものと思われる。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:00 UTC 版)
墳径36メートル、墳高4.5メートルの円墳状だが、前方後円墳であるとの説もある。墳丘の北側から西側にかけて、周濠の一部(幅3メートル)が残っており、市内に残る古墳の中では状態が良いとされる。かつて墳丘から須恵器が発見されており5世紀末の築造と推定されているが、正式な発掘は行われていないため内部主体は不明。 なお、古墳自体は神域となっており立入禁止だが、敷地横の住宅街の路地から境内を囲む塀越しに、墳丘と周濠を見る事ができる。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:52 UTC 版)
主軸は北西30.5°で、墳丘長約81メートル、前方部の幅約42メートル(推定)、高さが5.5メートル、後円部径約38メートル(推定)、高さが6.5メートル。先に記したように墳丘の近くまで住宅があるため内濠を含めた墳裾部の詳細な調査は行なわれておらず、墳丘の規模については必ずしも確定した数値ではない。近年の調査では墳丘長約74メートル、前方部幅約48メートル、後円部径約42メートルの数値も挙げられている。また、2段築造であったと推定されており、くびれ部北東側に造り出しの痕跡らしきものがみられる。墳丘の発掘調査は行なわれておらず内部主体は不明。葺石は確認されていない。 1936年(昭和11年)の愛知県の測量記録によれば墳丘は盾型の二重周濠に囲まれており、外堤の高さは180センチメートルほどであった。2006年(平成18年)の調査で北側の外堤に方形張出部が存在した可能性が指摘されている。また、愛知県道59号名古屋第二環状線(茶臼山交差点〜小幡ヶ原交差点間)建設に伴う2008年(平成20年)度の調査では前方部北側の中堤の角が検出され、先の発掘調査の結果と重ね合わせると、前方部外濠の幅は18〜19メートルに及び、周濠を含めた古墳の全長135〜140メートル、外濠前面幅約125メートルと推定されている。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:10 UTC 版)
前方部が短い帆立貝型前方後円墳で、墳丘長は約39メートル、周濠部分を含めると全長約59メートル、後円部の直径が約27メートルと推定される。年月を経る間に墳丘の削平が進んでおり、現存するのは表土から50センチメートル程度のため、前方部・後円部とも高さについては数値が算出されていない。 2005年の発掘調査で、前方部の傾斜角が下部で約12度、上部で約40度と変化している構造が確認された。同様の構造は近接する志段味大塚古墳でも確認されている。後円部では傾斜角の変化を確認できていないことから前方部の3面のみに設けられていた可能性が高い。 周濠は一重で逆台形の断面を持ち、現在の残存高から約1.1メートルの深さがある。外堤の上部に幅60センチメートル程度の平坦面があったと見られているが、後円部側では外堤も掘平されている。また、周濠底から葺石とみられる石材が見つかっているが墳丘部では葺石を確認できないため、後年の削平などの際にほとんど落下したと考えられている。 2019年度の発掘で南側に造り出しが発見されている。 2020年度の発掘で南側くびれ部から前方部に葺石が検出され、造り出しの辺りからは、高坏形器台の破片や円筒埴輪以外の埴輪の破片など、墳丘上に祭祀に使われたと思われる遺物が出土している。後円部の周壕部分より有頸有茎鏃の一種で短頸平根系柳葉式鉄鏃が見つかっている。 西大久手古墳(左下)と周辺の古墳(1987年) 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 2008年当時の西大久手古墳(2008年(平成20年)7月)
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:53 UTC 版)
1960年(昭和35年)の測量調査では全長63メートル、後円部径40メートル、前方部幅35メートルなどとされた。1988年(昭和63年)から翌1989年にかけての発掘調査時の残存部再測量では後円部径32メートル、周濠幅6メートルなどの数値が示されている。また、この調査時に後円部の南東側で横穴式石室と複数の出土品が発掘され、これによって古墳の主軸が東方55°を向いていることや、くびれ部南側に造り出しが残存していたことも確認された。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:10 UTC 版)
前方部が短い帆立貝形古墳で、墳丘長は約37.5メートル、周濠部分を含めると全長約58メートル、後円部の直径が約26.5メートルと推定されている。なお、墳丘の多くが掘平されているため墳高は不明だが、現存する後円部の状態から2段築造であったとも考えられている。 従来は「東大久手・西大久手古墳は主軸方向と規模が同一である」と双方の関連が言われてきたが、2005年(平成17年)の調査で前方部の角と側辺および周堤の角部を検出したことなどで、従来考えられていた墳丘の形態と比べて全長が短くなり、主軸がずれていることも確認された。また、西大久手古墳と志段味大塚古墳に確認される前方部の傾斜角の変化が見られないことから、先の2基とは違って地元勢力との関連が深い可能性も指摘されている。 須恵器のほか円筒埴輪が出土しており、前方部と後円部の境に葺石と思われる列石と円筒埴輪が確認されている。2008年(平成20年)の調査では後円部の数ヶ所で墳丘を囲む円筒埴輪列の残存が確認された。 東大久手古墳(中央左下)と西大久手古墳(左下)、右上に位置するのが志段味大塚古墳(1987年) 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 2008年当時の東大久手古墳(2008年(平成20年)7月)
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:53 UTC 版)
古墳の規模はかつて「全長50メートル、後円部の直径30メートル、高さ8メートル、ただし周辺が削り取られている可能性がある」とされたが、その後の田中稔の研究で「全長75+8メートル、後円部・前方部の最大幅40メートル、くびれ部幅30メートル」とされ、長らくこの数字が使用されてきた。 昭和初期の地籍図や敗戦直後の現況図などの資料から、全長138メートル、前方部幅100メートル、後円部直径72メートル、高さ10メートルで、断夫山古墳に次ぐ規模があったとの説もある。主体部については不明な点が多い。 明治期に作られた地籍図では西本願寺の後園として北西部から南に位置し、北西端の後円部はよく保存され、道路も周囲に沿ってカーブしている。南の前方部の長さを含めた全長138メートルとする説は寺域範囲125メートルなどを根拠に再検討が提案されている。
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規模と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:00 UTC 版)
前方部が短い帆立貝形古墳で、墳丘は全長約55メートル(周濠部分を含めると全長約62メートル)、後円部の直径が約40メートル(主軸方向に1メートルほど長い楕円形)、墳高は後円部で約7メートル、前方部で約1.5メートルと推定される、主軸を北東方向(わずかに北寄り)に向けている。墳丘には円筒埴輪が置かれ、墳裾部に河原石の葺石を巡らしていた。また、後円部にはテラス面が確認されているほか、後円部から見た右側くびれ部に造出が付設されており(ただし大部分は江戸時代以降に削られたと見られる)、その上部に埴輪列の一部が残存している。 前方部の傾斜角と葺石の施工が変化している構造を持っており、周濠側では約10度と緩やかで拳大の円礫を敷き詰めるように葺いているが、墳丘側では約40度の傾斜を持つ部分もあり、大き目で平たい河原石を、5センチメートルから10センチメートルの隙間をあけて平面を外に向けて貼り付けたように葺いている。前方部の傾斜角が変化する同様の構造は、周辺では西大久手古墳のみとされる。 周濠は一重で馬蹄形に墳丘を囲んでいると推定され、緩やかな逆台形もしくはV字形の断面を持つ。外堤上部に幅0.5メートルほどの平坦面が確認されるなどしているが、開発により一部は舗装道路下に埋没している。
※この「規模と構造」の解説は、「志段味大塚古墳」の解説の一部です。
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