規模と指揮系統
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 16:33 UTC 版)
「軍団 (古代日本)」の記事における「規模と指揮系統」の解説
標準的な軍団の定員は千人であったが、後に軍団・兵員の縮小が実施され、小さな国ではこれより少なくなったり、廃止されたりした。小さな軍団は、百人単位で適当な大きさに編成されたらしい。記録上に見える一個軍団の兵員数は二百人から千人の間であるが、陸奥国の例では時代によって10000名で6個軍団、あるいは8000名で7個軍団という例も見られるため、千人を超える例も存在したと考えられている。 軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。戦争の際は、将軍が指揮の頂点に置かれた。 軍団の規模によって 千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。 六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。 五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。 (区分としては「五百人以下」と「六百人以上」の間の規定がないようにみえるが、実際は軍団は百人単位の編制であるため問題はない) 軍団の軍毅以下の指揮系統と編制は以下の通りとなる。 校尉が二百人を率いた。二百長とも呼ばれた。 旅帥が百人を率いた。百長とも呼ばれた。 隊正が五十人からなる「隊」を率いた。隊正は隊長とも呼ばれた。 火長は十人からなる「火」を率いた。火は兵士の生活・行動・補給の単位で、おそらく一つの火で十人分の食事を作ったことに由来する。 伍長が五人からなる「伍」を率いたとする説があるが、明確な規定がなく発掘資料にも見えないことから、存在を疑う者もいる。 その他に主帳が事務を取り扱った。 大毅 - 少毅 - 校尉 - 旅帥 - 隊正 - 火長 - (伍長) 各々の軍団には、銅製の印章があった。筑前国に置かれた遠賀団と御笠団の印章が、1899年と1927年に大宰府周辺(現・福岡県太宰府市)で出土している。
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