紀南、植物採集・研究
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1900年(明治33年)10月15日、14年ぶりに日本に帰国。大阪の理智院(大阪府泉南郡岬町)、次いで和歌山市の円珠院に居住する。翌1901年(明治34年)、孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交を温める。 1902年(明治35年)、熊野にて植物採集。採集中に小畔四郎と知り合う。田辺を永住の地と定める。多屋勝四郎らと知り合う。『ネイチャー』7月17日号に論文「ピトフォラ・オエドゴニア」を寄稿。12月、プルタルコス『対比列伝』英訳の読書を再開する。ルソー『告白』をフランス原書で読み始める。 1903年(明治36年)、論文『燕石考』完成。『ネイチャー』4月30日号に論文「日本の発見」を、7月30日号に論文「ホオベニタケの分布」を寄稿。7月18日付の土宜法龍宛の手紙の中にいわゆる「南方マンダラ」の図を描き、「いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙をなす」ことを説明する。8月8日、この日付の土宜法龍宛の手紙の中で、引き続き独自の曼荼羅の思想について説明する。 1904年(明治37年)、田辺に家を借りる。2月、マイアーズの『人格とその死後存続』を読み始める。5月、ヒルシュの『天才と退行』を読み始める。カービーの『エストニアの英雄』を読み始める。 1905年(明治38年)4月より夜寝る前にシェイクスピア全集を読むことを日課とし、興が乗ると翌日朝にも続けて読んだ。日記に掲載されているだけでも23作品をこの時期に読破している。6月、ディキンズとの共訳『方丈記』の掲載された『王立アジア協会雑誌』1冊と抜刷11冊が送られる。 1906年(明治39年)2月、アーサー・リスターからジェップを通じて熊楠の送った47種の日本産変形菌の同定に関する手紙が送られる。7月、 田辺の闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝と結婚(熊楠40歳、松枝28歳)。6月、タブノキ(クスノキ科)の朽ち木から採集した粘菌の一種が新種として記載された。熊楠が発見した10種の新種粘菌のうち最初のもの。 1907年(明治40年)、前年末発布の神社合祀令に対し、神社合祀反対運動を起こす。6月24日に長男熊弥誕生。2月8日より「田辺抜書」を開始する。田辺図書館、田辺中学、法輪寺、闘鶏神社などで借りた本の妙写。9月、バートン版の『アラビアン・ナイト』12冊を購入し、就寝前に読み耽る。 1908年(明治41年)、『ネイチャー』11月26日号に論文「魚類に生える藻類」を寄稿。 1909年(明治42年)9月 、新聞『牟婁新報』に神社合祀反対の論陣を張る。 1910年(明治43年)、紀伊教育会主催の講習会場に酩酊状態で押し入り、翌日、家宅侵入で逮捕。監獄で新種の粘菌を発見したという。『ネイチャー』6月23日号に論文「粘菌の変形体の色1」を寄稿。 1911年(明治44年)、柳田國男との文通が始まり、1913年まで続いた。8月7日、この日付の柳田國男宛書簡で「植物棲態学 ecology」という言葉を用いる。11月12日柳田宛書簡では「エコロジー」、11月19日川村竹治宛書簡でも「エコロギー」という言葉を用いている。9月、柳田が『南方二書』を出版。10月13日、長女文枝誕生。 1912年(明治45年/大正元年)、田辺湾神島(かしま)が保安林に指定される。 1913年(大正2年)、柳田國男が田辺に来て熊楠と面会する(熊楠47歳、柳田39歳)。この時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したという。この時の模様は柳田の著書「故郷70年」に詳しい。柳田は親友:松本烝治を伴って熊楠宅を訪れた。前述のように熊楠は泥酔していた。そして松本に対して「こいつの親爺は知っている、松本荘一郎で、いつか撲ったことがある」というようなことをいい出した。 ただし「故郷70年」によると面会は1911年になっている。 1914年(大正3年)、1月から1923年11月まで『太陽』に「十二支考」を連載。『ネイチャー』1月15日号に論文「古代の開頭手術」を寄稿。なお同年には第一次世界大戦が始まった。 1915年(大正4年)、アメリカ農務省の植物学者スウィングルが田辺を来訪し、神島を共同調査。『N&Q』に「戦争に使われた動物」を掲載。 1916年(大正5年) 、田辺に常楠(弟)の名義で家を買う。7月9日、自宅の柿の木で粘菌新属を発見。 1917年9月頃よりロシア語を独習し始める。雑誌に「ミイラについて」を掲載。11月頃から「馬に関する民俗と伝説」について調べ始める。 1918年5月頃、盛んに松葉蘭の研究と文通を行う。12月、「蛇に関する民俗と伝説」の執筆を始める。 1919年9月24日、『大阪毎日新聞』に7回にわたって「百科学者」と題した熊楠の伝記が掲載される。 1920年(大正9年)2月、『集古』庚申一号に「なぞなぞ」を掲載。8月、土宜法龍の招きで小畔四郎らと高野山の菌類などを調査する。 1921年(大正10年)、粘菌新属を“ミナカテルラ・ロンギフィラ(ドイツ語版)”(Minakatella longifila、「長い糸の南方の粘菌」の意。現在の標準和名はミナカタホコリ)と命名される。命名者はロンドン自然史博物館の粘菌学者グリエルマ・リスターであった。2月、『現代』に「桑名徳蔵と橋抗岩の話」を掲載。また同誌7号から「鳥を食うて王となった話」を連載。 4月26日、南方植物研究所の発起人について、その後の追加を含めて原敬総理大臣以下28名の名前が『牟婁新報』に掲載される。9月、「蠍の生きたのが来着」連載。10月、第2回の高野山訪問。12月、「犬に関する民俗と伝説」の執筆を始める。 1922年(大正11年)、南方植物研究所設立資金募集のため上京。多くの名士、知人と面会する。7月、日光に採集旅行。11月、植物研究所の基金が集まったことを理由に常楠が仕送りを停止する。 1923年4月、『N&Q』への投稿論文「鷲石考」を書く。9月、リスター宛てに日本産粘菌141種の目録を送る。 1924年3月頃、バートン版『アラビアン・ナイト』を連日読み、索引を追補。5月、「十二支考」等の論文の版権料として中村古峡から500円を半金として受け取る。 1925年(大正14年)、長男熊弥が精神異常を発症し、入院のち自宅療養。6月、「人柱の話」を連載。 1926年(大正15年/昭和元年)2月、『南方閑話』が刊行。5月、『南方随筆』刊行。イタリアの菌類学者ブレサドラ大僧正(ジアコーモ・ブレッサドーラ)の『菌図譜』("Iconographia Mycologica")の出版に際し、名誉委員に推される。11月、熊楠が品種選定した粘菌標品37属90点を東宮(のちの昭和天皇)に進献する。 1927年、「現今本邦に産すと知れた粘菌種の目録」と「「田辺名物考」について」掲載。10月、『彗星』に「続『一代男輪講』の掲載を開始。以後、三田村鳶魚らの『西鶴輪講』に対する多数の注釈を同誌に発表。 1928年10月、妹尾官林で植物の採集と図記を行なう。 1929年(昭和4年)6月1日、 紀南行幸の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦「長門」艦上で進講。粘菌標本を天皇に献上した。進講の予定は25分間であったが、天皇の希望で5分延長された。献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、開けやすくするため熊楠はキャラメルの大きな空箱に入れて献上した。 1930年(昭和5年)6月、天皇行幸を記念して自詠自筆の記念碑を神島に建立する。植物採集減る。 1933年、「今井君の「大和本草の菌類」に注記す」を掲載。 1934年、『ドルメン』に「地突き唄の文句」を連載。11月、神島の植物を調査し、「田辺湾神島顕著樹木所在図」を作製する。 1935年(昭和10年)8月、神島に渡って久邇宮多嘉王と妃・息子に講話する。12月24日、 神島が国の天然記念物に指定される。 1936年、『牟婁新聞』に「新庄村合併について」を連載。 1939年、「訳本『源氏物語』の普及について」を『日本』に12回連載する。 1940年(昭和15年)11月10日、学術功労者として東京での紀元二千六百年記念式典への招聘を受けるが、歩行不自由の理由で断る。 1941年(昭和16年)12月29日、自宅にて永眠。死因は萎縮腎であった。満74歳没。田辺市稲成町の真言宗高山寺に葬られた
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