糞掃衣
主名称: | 糞掃衣 |
指定番号: | 790 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1957.06.18(昭和32.06.18) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 工芸品 |
ト書: | |
員数: | 1領 |
時代区分: | 奈良 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 奈良の作品。 |
袈裟
(糞掃衣 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 09:44 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動袈裟(けさ)とは仏教の僧侶が身につける布状の衣装のことである。梵語で「壊色・混濁色」を意味するカーシャーヤ (kāṣāya) を音訳したもの。
歴史
起源は、インドの仏教僧侶が身にまとっていた布。仏教では本来、出家僧侶は財産になるような私有物を持つことを禁じられており衣服も例外ではなかった。そのため価値や使い道が無くなり捨てられたぼろ布、死体置き場におかれた死者の衣服、汚物を拭う(=糞掃)くらいしか用の無くなった端布を拾い集め綴り合せて身を覆う布を作った。布は在家者(白い布をまとっていた)と区別するために草木や金属の錆を使って染め直され(染壊)、黄土色や青黒色をしていた。梵語の名前はこの色(
仏教がより寒冷な地方に伝播するにつれて下衣が着られるようになり、中国に伝わる頃には本来の用途を失って僧侶であることを表す装飾的な衣装となった。日本に伝わってからはさらに様々な色や金襴の布地が用いられるようになり、その組み合わせによって僧侶の位階や特権を表すものになった。特に江戸時代までは「
形態

古くは両肩を含め全身を覆うように着用したが、現在では特別な場合を除き右肩を出すようにして掛ける(=偏袒右肩(へんだんうけん))。これは如来が両肩を覆って着用している(=通肩(つうけん))のに対して、仏への崇拝と畏敬の念を表すためである。インドでは尊敬する人物の前では敵意が無い事を示すために右肩を出す事が通例であった。
宗派や用途によって形状に多くのバリエーションがあるが、小さく裁断した布を縫い合わせて作られる基本的な縫製法は共通している。小さな布を縦に繋いだものを条(じょう)と呼び、これを横に何条か縫い合わせて作られる。条の数は一般には五条、七条(しちじょう)、九条(くじょう)の3種類であり、条数の多い方が尊重される。古い時代の袈裟には十五条、二十三条なども見られる。
縫い合わされた布が水田のように見えることから、袈裟を福田衣と呼ぶことがある。一説には釈迦に帰依した舎衛国の波斯匿王が仏弟子とバラモン僧を見まちがえて礼拝したため区別できるよう衣装の定めを設けるよう願った際、釈迦が傍らの阿難尊者に水田を指差して「あのようにすればよいだろう」と言われたことに由来するという。また、善行の種をまいて功徳を得るとする福田思想に由来するともいう。
禅宗では袈裟は嗣法(釈迦以来の仏法が師匠から弟子に正しく伝えられること)の重要な証である。師匠は弟子の修行が十分に達成されたと判断した時、仏法の核心を伝授しその証として祖師伝来の袈裟と持鉢を与える。「衣鉢を継ぐ」という言葉はこれに由来している。その強い象徴性故に威信財としても機能し、頂相では像主の正当性を示すため、先師から相伝した袈裟を描き込むことがしばしば見られ、時には金銭を超えた贈答品としても用いられた[1]。
一部の宗派では輪袈裟という簡易型の袈裟を僧侶の他、在家信徒も法会参列時に使用する。
その他
袈裟雄、袈裟男、今朝男という名前の人をたまに見かけるがそれは本人の誕生時、胎内で臍の緒が首に絡まって生まれてきた状態が袈裟を着ているように見えることに由来する。胎内でこの状態になると非常に危険で死亡率が高く、無事生まれてきた子の成長のための
一般的には袈裟を着る(きる)と思われがちだが、僧侶の世界では衣(ころも)は着る、袈裟は着ける(つける)と 言い分けている。
脚注
- ^ 山下曉 「威信財としての袈裟」 (百橋明穂先生退職記念献呈論文集刊行委員会編 『美術史歴参 百橋秋穂先生退職記念献呈論文集』 中央公論美術出版、2013年3月、pp.201-220、ISBN 978-4-8055-0701-8)
参考文献
- 久馬慧忠 『袈裟のはなし』、法蔵館、2000年、 ISBN 4-8318-6410-2、ISBN 978-4-8318-6410-9。
- 澤木興道監、久馬慧忠編、『〈新装版〉袈裟の研究』、大法輪閣、2001年、 ISBN 4-8046-1175-4、ISBN 978-4-8046-1175-4。
関連項目
糞掃衣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 13:23 UTC 版)
糞掃衣(ふんぞうえ)は、聖徳太子の着用とされた袈裟である。衲袈裟(のうげさ)、もしくは釋尊糞掃衣袈裟とも言う。現在は東京国立博物館に収蔵。奈良時代(8世紀)のものとされ、1958年(昭和33年)2月8日に重要文化財指定。天保期に製作された『御伽藍御宝物略御縁由』(以下、御縁由)には「釈尊より勝鬘夫人へ授けたまう女人成仏の御袈裟」との由緒が記されている。 奈良時代の『法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳』には「合袈裟」とのみ記されていたが、12世紀中頃の『七大寺巡礼私記』には「健駄羅国から伝来」と記され、鎌倉時代初期に著された『古今目録抄』(以下、目録抄)では「聖徳太子が『勝鬘経』を講説したときに着用した」という由来が加えられ、さらに天保年間の『斑鳩古事便覧』には「釈迦が勝鬘夫人に授けたもので、小野妹子が日本に将来した」という由来が加えられている。こうした由来の変化は、中世から近世にかけての太子信仰の発展を示すと捉えられている。天保期には法隆寺の宝物の中でも特に重要視されたと考えられ、梶野良材は「法隆寺第一の宝物」と称している。なお、1315年(正和4年)には、法隆寺から京都へ送られ後伏見上皇が天覧した記録が残っている。 1756年(宝暦6年)に飲光が南都の古袈裟を調査した時の記録『古袈裟図様写』に、この糞掃衣は記載されておらず、このころには披見させることが出来ないほど損傷が激しくなっていたと考えられるが、1977年に修復が試みられて現在の形に復元された。復元によれば、長さ125.0㎝幅249.0㎝の七条袈裟であったと考えられ、薄茶の絹布を地として様々な色の小さな平絹を重ねて指し縫いで製作されていた。 糞掃衣には桂昌院が寄進した蒔絵箱が付属しているほか、糞掃衣を納めた内箱という伝承をもつ蓬莱山蒔絵袈裟箱も別途伝来している。袈裟箱は箱の身と蓋の形状に不自然な点があり、元来は別の箱であったと考えられている。こちらも東京国立博物館に収蔵。平安時代(12世紀)のものとされ、重要文化財。
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