糞掃衣
主名称: | 糞掃衣 |
指定番号: | 790 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1957.06.18(昭和32.06.18) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 工芸品 |
ト書: | |
員数: | 1領 |
時代区分: | 奈良 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 奈良の作品。 |
袈裟
糞掃衣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 13:23 UTC 版)
糞掃衣(ふんぞうえ)は、聖徳太子の着用とされた袈裟である。衲袈裟(のうげさ)、もしくは釋尊糞掃衣袈裟とも言う。現在は東京国立博物館に収蔵。奈良時代(8世紀)のものとされ、1958年(昭和33年)2月8日に重要文化財指定。天保期に製作された『御伽藍御宝物略御縁由』(以下、御縁由)には「釈尊より勝鬘夫人へ授けたまう女人成仏の御袈裟」との由緒が記されている。 奈良時代の『法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳』には「合袈裟」とのみ記されていたが、12世紀中頃の『七大寺巡礼私記』には「健駄羅国から伝来」と記され、鎌倉時代初期に著された『古今目録抄』(以下、目録抄)では「聖徳太子が『勝鬘経』を講説したときに着用した」という由来が加えられ、さらに天保年間の『斑鳩古事便覧』には「釈迦が勝鬘夫人に授けたもので、小野妹子が日本に将来した」という由来が加えられている。こうした由来の変化は、中世から近世にかけての太子信仰の発展を示すと捉えられている。天保期には法隆寺の宝物の中でも特に重要視されたと考えられ、梶野良材は「法隆寺第一の宝物」と称している。なお、1315年(正和4年)には、法隆寺から京都へ送られ後伏見上皇が天覧した記録が残っている。 1756年(宝暦6年)に飲光が南都の古袈裟を調査した時の記録『古袈裟図様写』に、この糞掃衣は記載されておらず、このころには披見させることが出来ないほど損傷が激しくなっていたと考えられるが、1977年に修復が試みられて現在の形に復元された。復元によれば、長さ125.0㎝幅249.0㎝の七条袈裟であったと考えられ、薄茶の絹布を地として様々な色の小さな平絹を重ねて指し縫いで製作されていた。 糞掃衣には桂昌院が寄進した蒔絵箱が付属しているほか、糞掃衣を納めた内箱という伝承をもつ蓬莱山蒔絵袈裟箱も別途伝来している。袈裟箱は箱の身と蓋の形状に不自然な点があり、元来は別の箱であったと考えられている。こちらも東京国立博物館に収蔵。平安時代(12世紀)のものとされ、重要文化財。
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