「出開帳」と献納宝物とは? わかりやすく解説

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「出開帳」と献納宝物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:48 UTC 版)

法隆寺献納宝物」の記事における「「出開帳」と献納宝物」の解説

出開帳」とは、江戸京都などの大都市会場設けて寺院秘仏霊宝等を公開する行事で、当該寺院への信仰広めとともに勧進再建修繕などの資金集め)を目的とすることが多かったその内容目的ともに、近現代における「秘宝特別公開」に似た面がある江戸時代には多く寺院出開帳行い、特に成田不動成田山新勝寺)や信州善光寺出開帳評判になった出開帳会場では、曲芸などの出し物披露されるなど、当時の人々にとっては信仰とともにレジャーの場でもあった。 法隆寺では、1694年元禄7年)と1842年天保13年)に、江戸で1695年元禄8年)と1800年寛政12年)に京都で、それぞれ出開帳実施した1695年江戸における開帳は、本所回向院会場とし、同年7月5日から約3か月わたって行われた。この時は法隆寺東秘蔵仏舎利本尊として、玉虫厨子橘夫人厨子夢違観音像(以上、現・国宝)、聖徳太子直筆とされる法華義疏」などの秘宝公開された。出開帳先立つ6月16日時の将軍徳川綱吉生母桂昌院江戸城三の丸御殿にて宝物拝見し、寺に三百両を寄進している。他にも大名旗本らの寄進相次いで、この時の出開帳成功裏終わり法隆寺念願であった堂塔修繕を行うことができた。桂昌院は、「糞掃衣(N-33)」「御足印(N-36)」などの宝物保管用に徳川家の紋入りの箱を寄進するなど、法隆寺多大な援助与えている。 法隆寺ではその後1842年天保13年)の6月から8月にも伽藍修復資金集め主目的として、江戸出開帳行った。この時の出開帳様子は、宝物同道して江戸向かった寺僧記した江戸出開帳日記』に詳しく記されている。出開帳会場前回同じく回向院で、仏舎利のほか、秘仏聖徳太子像現・国宝、法隆寺聖霊院安置)が開帳されその他に多く宝物並べられた。ただし、この時の出開帳は、後に「天保の改革」と呼ばれる倹約奨励世相反映して寄付思うように集まらず、興行的に不成功であった前述の『江戸出開帳日記』によると、この時公開され宝物115件、点数にして約200であった浮世絵師歌川国直にこの時の出品宝物スケッチさせた『御宝図絵』『御宝図絵 追篇』という図録出版しており、版木法隆寺残っている。この図絵には全部88件の宝物図示されているが、それらの大部分現存する献納宝物同定可能である。88件のうち、現在所不明のものはわずかに2件、献納されず現在も寺に残るものは3件で、残り83件は、1878年皇室献納された宝物含まれている。つまり、天保江戸出開帳出品され宝物大部分献納宝物にも選定されということになる。

※この「「出開帳」と献納宝物」の解説は、「法隆寺献納宝物」の解説の一部です。
「「出開帳」と献納宝物」を含む「法隆寺献納宝物」の記事については、「法隆寺献納宝物」の概要を参照ください。

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