「出開帳」と献納宝物
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「法隆寺献納宝物」の記事における「「出開帳」と献納宝物」の解説
「出開帳」とは、江戸や京都などの大都市に会場を設けて、寺院の秘仏霊宝等を公開する行事で、当該寺院への信仰を広めるとともに、勧進(再建・修繕などの資金集め)を目的とすることが多かった。その内容・目的ともに、近現代における「秘宝特別公開」に似た面がある。江戸時代には多くの寺院が出開帳を行い、特に成田不動(成田山新勝寺)や信州の善光寺の出開帳が評判になった。出開帳の会場では、曲芸などの出し物が披露されるなど、当時の人々にとっては信仰とともにレジャーの場でもあった。 法隆寺では、1694年(元禄7年)と1842年(天保13年)に、江戸で、1695年(元禄8年)と1800年(寛政12年)に京都で、それぞれ出開帳を実施した。1695年の江戸における開帳は、本所の回向院を会場とし、同年7月5日から約3か月にわたって行われた。この時は法隆寺東院秘蔵の仏舎利を本尊として、玉虫厨子、橘夫人厨子、夢違観音像(以上、現・国宝)、聖徳太子直筆とされる「法華義疏」などの秘宝が公開された。出開帳に先立つ6月16日、時の将軍徳川綱吉の生母桂昌院は江戸城三の丸御殿にて宝物を拝見し、寺に三百両を寄進している。他にも大名、旗本らの寄進が相次いで、この時の出開帳は成功裏に終わり、法隆寺は念願であった堂塔の修繕を行うことができた。桂昌院は、「糞掃衣(N-33)」「御足印(N-36)」などの宝物の保管用に徳川家の葵の紋入りの箱を寄進するなど、法隆寺に多大な援助を与えている。 法隆寺ではその後、1842年(天保13年)の6月から8月にも伽藍修復の資金集めを主目的として、江戸出開帳を行った。この時の出開帳の様子は、宝物に同道して江戸に向かった寺僧が記した『江戸出開帳日記』に詳しく記されている。出開帳の会場は前回と同じく回向院で、仏舎利のほか、秘仏の聖徳太子像(現・国宝、法隆寺聖霊院安置)が開帳され、その他にも多くの宝物が並べられた。ただし、この時の出開帳は、後に「天保の改革」と呼ばれる倹約奨励の世相を反映して寄付が思うように集まらず、興行的には不成功であった。前述の『江戸出開帳日記』によると、この時公開された宝物は115件、点数にして約200点であった。浮世絵師の歌川国直にこの時の出品宝物をスケッチさせた『御宝物図絵』『御宝物図絵 追篇』という図録を出版しており、版木が法隆寺に残っている。この図絵には全部で88件の宝物が図示されているが、それらの大部分が現存する献納宝物と同定可能である。88件のうち、現在所在不明のものはわずかに2件、献納されず現在も寺に残るものは3件で、残りの83件は、1878年に皇室に献納された宝物に含まれている。つまり、天保の江戸出開帳に出品された宝物の大部分が献納宝物にも選定されたということになる。
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