第2次百年戦争
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第2次百年戦争(だいにじひゃくねんせんそう、英語: Second Hundred Years' War、フランス語: Seconde guerre de Cent Ans, 1689年 - 1815年)は、ヨーロッパ内の国境紛争と王位継承、主に北アメリカ大陸を舞台として南アジア・アフリカをふくむ海外植民地の争奪、そして、それらに起因するアメリカの独立・フランス革命・ナポレオン帝国を背景にイギリス(イングランド)とフランスの間で繰り広げられた一連の戦争の総称である。イギリスの歴史家J.R.シーリーの命名による[1]。
注釈
- ^ 中西輝政は「パックス・ブリタニカの時代」とは、1815年のナポレオン戦争の終結から1899年のボーア戦争のはじまりまでの約80年間としている。中西(1993)pp.24-25
- ^ そのとき経験論哲学の祖として有名な大法官フランシス・ベーコンも議会によって告発されている。
- ^ 香辛料は消費・需要が限られていた。綿製品は潜在的需要がはるかに高かったのみならず、粗布を輸入して加工・再輸出するという産業を興す基盤にもなった。もっとも、イギリス東インド会社は初めから長期的展望をあてこんでキャラコを選んだわけではなく、香辛料の買い付けから締め出され、船倉を満たすためにやむを得ず持ち帰ったキャラコが当たったのである。浅田(1984)「第5章 香料よりキャラコへ」
- ^ ナポレオンがフランス銀行を創設したのは、これより106年後の1800年のことであった。大野(1975)p.452
- ^ 『ガリバー旅行記』の著者ジョナサン・スウィフトはトーリー党の政論家としてホイッグ党の外交姿勢を批判した。大野(1975)pp.455-456
- ^ スペイン継承戦争の戦費のため国債を大量に発行し、その利払いに苦しんでいたイギリス政府は、ユトレヒト条約で得た奴隷貿易の特権を国策会社の南海会社に譲渡した。戦後の投機ブームは1720年に南海泡沫事件をまねいた。大野(1975)pp.464-466
- ^ デュケーヌ要塞はピットにちなみ、「ピッツバーグ」と改称された。大野(1975)p.474
- ^ 小ピットのみならずジョージ・カニングもパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルも、外交・交渉についてジェームズ・ハリスに学んでいる。中西(1993)p.94
- ^ 対仏大同盟は、より詳細な数え方では7回となる。詳しくは「対仏大同盟」の項目を参照されたい。
出典
- ^ a b Morieux, Renaud: "Diplomacy from Below and Belonging: Fishermen and Cross-Channel Relations in the Eighteenth Century" article in "Past & Present", 202, (2009), p. 83.
- ^ a b c d e f g h 佐々木・木畑(2005)pp.24-25
- ^ 木谷(1975)pp.26-27
- ^ 中西(1993)pp.64-67
- ^ a b c 保坂(1975)pp.70-72
- ^ a b 保坂(1975)pp.75-77
- ^ a b c d 依田(1993)pp.18-20
- ^ a b c 依田(1993)pp.103-105
- ^ a b c 中西(1993)pp.77-81
- ^ a b c d e f 川北(1996)pp.100-103
- ^ a b c d e f 大野(1975)pp.452-456
- ^ a b c d e f g h 大野(1975)pp.446-449
- ^ 大野(1975)pp.450-452
- ^ a b c 依田(1990)pp.97-99
- ^ 大野(1975)pp.466-468
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 大野(1975)pp.468-471
- ^ a b c d e f g 大野(1975)pp.471-476
- ^ a b c d e f 佐々木・木畑(2005)pp.25-28
- ^ a b c d e f 中西(1993)pp.90-97
- ^ a b 佐々木・木畑(2005)pp.28-31
- ^ a b c 佐々木・木畑(2005)pp.31-34
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