第二次大戦後の日ソ関係とは? わかりやすく解説

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第二次大戦後の日ソ関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:42 UTC 版)

日露関係史」の記事における「第二次大戦後の日ソ関係」の解説

1946年 - シベリア抑留者の帰国開始される同年ソ連南樺太千島列島旧日本領領有宣言北方領土問題端緒となる。 1948年 - 両国間の民間貿易協定締結同年ソ連占領され南樺太千島列島居住していた日本人島民北海道送還され同地域はサハリン州一部として完全にソ連化される。旧島民集住した根室市などは北方領土返還要求中心地になる。一方日本国籍喪失した朝鮮半島出身者日本への移動認められず、後の在樺コリアン問題につながる。 1950年 - ソ連共産党コミンフォルム通じて日本共産党平和革命論を批判その後武装闘争路線採用党分裂へつながる。10月中ソ友好同盟相互援助条約により、ソ連中華人民共和国との間で日本軍国主義復活阻止宣言する(-1980年)。 1951年 - ソ連中華人民共和国含めた全面講和」を求め日本社会党押し切り日本吉田茂首相アメリカ中心とした西側陣営諸国との「単独講和」を決断しサンフランシスコ講和会議参加ソ連代表はサンフランシスコ講和会議出席したが、ポーランド・チェコスロバキアと共に日本国との平和条約対日講和条約)への調印拒否1952年 - 4月28日サンフランシスコ講和条約発効により、日本独立回復ソ連参加した連合国軍最高司令官総司令部対日理事会解消されたが、日ソ間の国交断絶が続く。ソ連は「占領継続」を名目として東京対日代表部維持同年日本国際連合加盟申請対しソ連拒否権発動して阻止以後もこの状況が続く。 1953年 - 3月5日スターリン死去同日スターリン重体情報世界中証券市場混乱し東京証券取引所同日終値前日比3780銭安の34441銭、下落率10.0%の株価大暴落となる(スターリン暴落、現在でも1987年ブラックマンデーに次ぐ史上2位下落率)。 1956年 - 10月19日日本鳩山一郎首相ソ連ニコライ・ブルガーニン閣僚会議議長日ソ共同宣言発表し国交回復するまた、平和条約調印後歯舞群島色丹島返還約束する12月18日ソ連日本国際連合加盟対し拒否権発動から支持転換し加盟実現する12月最後シベリア抑留集団帰国が行われる(注:異説あり)。ただし、ごく一部ソ連国籍取得し残留した抑留者も存在する1958年 - ソ連からサーカス団が初訪日以後日本では訪日したソ連ロシア)の各サーカス団ボリショイサーカス総称され人気を得る。 1960年 - 9月サッカー日本代表が初のソ連遠征実施以後日ソ交流協定利用して日本チームソ連西欧遠征数度行われる12月ソ連日米安全保障条約延長対抗して1956年日ソ共同宣言締結時に表明した歯舞群島色丹島日本返還撤回日本はこれに抗議1961年 - 日本横浜港沿海州ナホトカ港との間に旅客船定期航路開設シベリア鉄道経由した日本人欧州渡航広く利用されるアナスタス・ミコヤン第一副首相ソ連商品見本市開催合わせて訪日ゴルバチョフ政権以前訪日した最高位ソ連要人となる。 1963年 - 日本共産党米ソ英の3国間の主導締結され部分的核実験停止条約批判1964年 - 5月21日日本共産党、党の決定反し衆議院本会議における部分的核実験停止条約批准採決賛成した志賀義雄除名志賀らは「日本共産党(日本のこえ)」を結成しソ連共産党支持日ソ両国共産党関係は冷却化し、相対的に日本社会党ソ連共産党との関係を緊密にする。10月東京オリンピック開催バレーボールでは男子ソ連優勝日本3位)、女子では日本優勝東洋の魔女ソ連2位)。以後、同競技では男女ともに両国優勝を争う時代が続く。 1965年 - 大相撲ソ連公演実施しモスクワハバロフスク訪問1967年 - 東京東京国際空港)-モスクワシェレメーチエヴォ国際空港)間の航空路開設され日本航空アエロフロート運航開始する1972年 - 11月13日女優岡田嘉子1938年樺太国越境事件以来34年ぶりに日本に帰国1986年ソ連帰国ソ連国籍取得済み)、1992年モスクワ死去)。11月28日日本航空旅客機シェレメーチエヴォ国際空港離陸失敗し墜落乗員乗客76人中62人が死亡日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故)。 1973年 - 10月日本田中角栄首相ソ連訪問し、レオニード・ブレジネフソ連共産党書記長会談し日ソ共同声明発表する。しかし、日本中国接近するようになり、両国間の首脳交流長期間中断する1998年小渕恵三ソ連崩壊後ロシア連邦公式訪問)。アエロフロート新潟ハバロフスク線の運航開始日本から初のシベリア・極東地域直行便)。 1975年 - 黒澤明監督ソ連日本合作映画、『デルス・ウザーラ』が公開されモスクワ国際映画祭金賞アカデミー賞外国語映画賞獲得する1976年 - ベレンコ中尉亡命事件MiG-25戦闘機搭乗したソ連空軍中尉ヴィクトル・ベレンコ日本領空侵入して函館空港強行着陸し、後にアメリカ亡命1977年 - ソ連200海里漁業水域宣言に伴い日ソ暫定漁業協定締結以後北洋漁業はその更新や安全操業確保ソ連による漁船拿捕防止)等が大きな課題になる。 1978年 - 日中平和友好条約で、中国側求めたソ連覇権主義への批判」が外交問題になる。ソ連への刺激警戒した日本要求により、曖昧な表現決着1979年 - 日本共産党代表団ソ連訪問しソ連共産党との関係を修復1980年 - 中ソ友好同盟相互援助条約失効する1950年-)。5月日本前年発生したソ連のアフガニスタン侵攻抗議して同年7-8月の1980年モスクワオリンピックへの参加ボイコット決定する同年陸上自衛隊陸将補などがソ連情報伝えたスパイ事件発覚スパイ防止法制定要求など、日本国内の対ソ脅威論が高まる。 1983年 - 9月1日大韓航空機撃墜事件が起こる。民間旅客機ソビエト支配下日本帰属未定地と主張)の南樺太海馬島沖で領空侵犯した後にソ連軍撃墜され日本人乗客28人を含め乗員乗客269全員死亡1986年 - 5月8年ぶりの日ソ外相会談モスクワ行われ両国関係改善が始まる。7月、ミハイル・ゴルバチョフソ連共産党書記長ウラジオストク演説中距離核ミサイルSS20の削減を含む極東での軍縮緊張緩和提唱1989年 - ソ連サハリン州への外国人訪問解禁宗谷海峡チャーター船運航され日本人南樺太千島列島への訪問可能になる日本外務省国民対しソ連ビザによる北方領土地域への訪問自粛するように要請1990年 - 1月15日安倍晋太郎自民党幹事長率い自民党代表団がミハイル・ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長会談安倍ゴルバチョフ両氏は「日ソ間の困難な問題領土問題)を『叡智をもって解決する』」ことで合意安倍8項目提案受諾するとともに1991年春「の咲くころ」の訪日約束7月25日ミハイル・ゴルバチョフ大統領、訪ソ中の櫻内義雄衆議院議長会談7月27日ミハイル・ゴルバチョフ大統領、訪ソ中の池田大作創価学会名誉会長会談1991年春に訪日する意向伝達した1991年4月 - ロシア・ソ連最高指導者として初めて、ミハイル・ゴルバチョフ大統領日本訪問するゴルバチョフ大統領安倍晋太郎氏と会見し、「約束果たしましたよ」と述べる。このほか、創価学会池田大作名誉会長とも会見した8月ソ連共産党保守派による反ペレストロイカ・クーデターで日本政府クーデター非難しボリス・エリツィンらの改革派支持12月25日ソビエト連邦の崩壊日本直ち後継国家ロシア連邦、及び他の旧連邦加盟国国家承認旧ソ連条約協定などはロシア連邦継承される

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