第二次大戦後の日ソ関係
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「日露関係史」の記事における「第二次大戦後の日ソ関係」の解説
1946年 - シベリア抑留者の帰国が開始される。同年、ソ連は南樺太・千島列島の旧日本領の領有を宣言。北方領土問題の端緒となる。 1948年 - 両国間の民間貿易協定の締結。同年、ソ連に占領された南樺太・千島列島に居住していた日本人島民が北海道に送還され、同地域はサハリン州の一部として完全にソ連化される。旧島民が集住した根室市などは北方領土返還要求の中心地になる。一方、日本国籍を喪失した朝鮮半島出身者は日本への移動を認められず、後の在樺コリアン問題につながる。 1950年 - ソ連共産党がコミンフォルムを通じて日本共産党の平和革命論を批判。その後の武装闘争路線の採用と党分裂へつながる。10月、中ソ友好同盟相互援助条約により、ソ連は中華人民共和国との間で日本の軍国主義復活の阻止を宣言する(-1980年)。 1951年 - ソ連や中華人民共和国も含めた「全面講和」を求める日本社会党を押し切り、日本の吉田茂首相はアメリカを中心とした西側陣営諸国との「単独講和」を決断し、サンフランシスコ講和会議に参加。ソ連代表はサンフランシスコ講和会議に出席したが、ポーランド・チェコスロバキアと共に日本国との平和条約(対日講和条約)への調印を拒否。 1952年 - 4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復。ソ連が参加した連合国軍最高司令官総司令部の対日理事会は解消されたが、日ソ間の国交断絶が続く。ソ連は「占領継続」を名目として東京の対日代表部を維持。同年、日本の国際連合加盟申請に対し、ソ連が拒否権を発動して阻止。以後もこの状況が続く。 1953年 - 3月5日、スターリン死去。同日、スターリン重体の情報で世界中の証券市場は混乱し、東京証券取引所も同日の終値が前日比37円80銭安の344円41銭、下落率10.0%の株価大暴落となる(スターリン暴落、現在でも1987年のブラックマンデーに次ぐ史上2位の下落率)。 1956年 - 10月19日、日本の鳩山一郎首相とソ連のニコライ・ブルガーニン閣僚会議議長が日ソ共同宣言を発表し、国交が回復する。また、平和条約調印後の歯舞群島・色丹島の返還を約束する。12月18日、ソ連は日本の国際連合加盟に対し、拒否権発動から支持に転換し、加盟が実現する。12月、最後のシベリア抑留者集団帰国が行われる(注:異説あり)。ただし、ごく一部にソ連国籍を取得し残留した旧抑留者も存在する。 1958年 - ソ連からサーカス団が初訪日。以後、日本では訪日したソ連(ロシア)の各サーカス団がボリショイサーカスと総称され、人気を得る。 1960年 - 9月、サッカー日本代表が初のソ連遠征を実施。以後、日ソ交流協定を利用して日本チームのソ連・西欧遠征が数度行われる。12月、ソ連が日米安全保障条約の延長に対抗して、1956年の日ソ共同宣言締結時に表明した歯舞群島と色丹島の日本返還を撤回。日本はこれに抗議。 1961年 - 日本の横浜港と沿海州のナホトカ港との間に旅客船の定期航路が開設。シベリア鉄道を経由した日本人の欧州渡航に広く利用される。アナスタス・ミコヤン第一副首相がソ連商品見本市開催に合わせて訪日。ゴルバチョフ政権以前で訪日した最高位のソ連要人となる。 1963年 - 日本共産党が米ソ英の3国間の主導で締結された部分的核実験停止条約を批判。 1964年 - 5月21日、日本共産党、党の決定に反し、衆議院本会議における部分的核実験停止条約批准採決で賛成した志賀義雄を除名。志賀らは「日本共産党(日本のこえ)」を結成し、ソ連共産党が支持。日ソ両国の共産党関係は冷却化し、相対的に日本社会党がソ連共産党との関係を緊密にする。10月、東京オリンピック開催。バレーボールでは男子でソ連が優勝(日本は3位)、女子では日本が優勝(東洋の魔女、ソ連は2位)。以後、同競技では男女ともに両国が優勝を争う時代が続く。 1965年 - 大相撲がソ連公演を実施し、モスクワとハバロフスクを訪問。 1967年 - 東京(東京国際空港)-モスクワ(シェレメーチエヴォ国際空港)間の航空路が開設され、日本航空とアエロフロートが運航を開始する。 1972年 - 11月13日、女優の岡田嘉子が1938年の樺太国境越境事件以来、34年ぶりに日本に帰国(1986年にソ連に帰国(ソ連国籍取得済み)、1992年にモスクワで死去)。11月28日、日本航空の旅客機がシェレメーチエヴォ国際空港で離陸に失敗し墜落。乗員・乗客76人中62人が死亡(日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故)。 1973年 - 10月、日本の田中角栄首相がソ連を訪問し、レオニード・ブレジネフソ連共産党書記長と会談して日ソ共同声明を発表する。しかし、日本が中国と接近するようになり、両国間の首脳交流は長期間中断する(1998年、小渕恵三がソ連崩壊後のロシア連邦を公式訪問)。アエロフロート、新潟-ハバロフスク線の運航を開始(日本から初のシベリア・極東地域直行便)。 1975年 - 黒澤明監督のソ連・日本の合作映画、『デルス・ウザーラ』が公開され、モスクワ国際映画祭で金賞、アカデミー賞で外国語映画賞を獲得する。 1976年 - ベレンコ中尉亡命事件。MiG-25戦闘機に搭乗したソ連空軍中尉のヴィクトル・ベレンコが日本領空に侵入して函館空港に強行着陸し、後にアメリカへ亡命。 1977年 - ソ連の200海里漁業水域宣言に伴い、日ソ暫定漁業協定が締結。以後、北洋漁業はその更新や安全操業の確保(ソ連による漁船拿捕の防止)等が大きな課題になる。 1978年 - 日中平和友好条約で、中国側が求めた「ソ連覇権主義への批判」が外交問題になる。ソ連への刺激を警戒した日本の要求により、曖昧な表現で決着。 1979年 - 日本共産党の代表団がソ連を訪問し、ソ連共産党との関係を修復。 1980年 - 中ソ友好同盟相互援助条約が失効する(1950年-)。5月、日本は前年に発生したソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、同年7-8月の1980年モスクワオリンピックへの参加ボイコットを決定する。同年、陸上自衛隊の陸将補などがソ連に情報を伝えたスパイ事件が発覚。スパイ防止法制定要求など、日本国内の対ソ脅威論が高まる。 1983年 - 9月1日、大韓航空機撃墜事件が起こる。民間旅客機がソビエト支配下(日本は帰属未定地と主張)の南樺太・海馬島沖で領空を侵犯した後にソ連軍に撃墜され、日本人乗客28人を含め乗員・乗客269人全員が死亡。 1986年 - 5月、8年ぶりの日ソ外相会談がモスクワで行われ、両国関係の改善が始まる。7月、ミハイル・ゴルバチョフソ連共産党書記長、ウラジオストク演説で中距離核ミサイルSS20の削減を含む極東での軍縮・緊張緩和を提唱。 1989年 - ソ連、サハリン州への外国人訪問を解禁。宗谷海峡をチャーター船が運航され、日本人も南樺太や千島列島への訪問が可能になる。日本外務省は国民に対し、ソ連ビザによる北方領土地域への訪問を自粛するように要請。 1990年 - 1月15日、安倍晋太郎前自民党幹事長が率いる自民党代表団がミハイル・ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談。安倍・ゴルバチョフ両氏は「日ソ間の困難な問題(領土問題)を『叡智をもって解決する』」ことで合意。安倍8項目提案を受諾するとともに、1991年春「桜の咲くころ」の訪日を約束。7月25日、ミハイル・ゴルバチョフ大統領、訪ソ中の櫻内義雄・衆議院議長と会談。7月27日、ミハイル・ゴルバチョフ大統領、訪ソ中の池田大作・創価学会名誉会長と会談。1991年春に訪日する意向を伝達した。 1991年4月 - ロシア・ソ連の最高指導者としては初めて、ミハイル・ゴルバチョフ大統領が日本を訪問する。ゴルバチョフ大統領は安倍晋太郎氏と会見し、「約束を果たしましたよ」と述べる。このほか、創価学会の池田大作名誉会長とも会見した。8月、ソ連共産党保守派による反ペレストロイカ・クーデターで日本政府はクーデターを非難し、ボリス・エリツィンらの改革派を支持。12月25日、ソビエト連邦の崩壊。日本は直ちに後継国家のロシア連邦、及び他の旧連邦加盟国を国家承認。旧ソ連の条約・協定などはロシア連邦に継承される。
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