シベリア・極東とは? わかりやすく解説

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シベリア・極東

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

ロシア帝国の歴史」の記事における「シベリア・極東」の解説

詳細は「シベリア」、「ロシアのシベリア征服」、「シベリアの河川交通」、および「日露関係史」を参照 イヴァン4世時代イェルマーク率いカザーク遠征隊の攻撃によってシビル・ハン国大打撃受けて16世紀末に滅亡したことにより、ロシアシベリア進出の道が開かれた毛皮採取目的としたロシア人東シベリア進出して砦を築き先住民ヤクート人ツングース人そしてブリヤート人ロシア統治下に組み入れていったロシア人イルクーツクの砦をシベリア経営拠点となした。ロシア帝国成立した18世紀はじめの時点シベリア居住するロシア人先住民の2倍に当たる30万人越えたシベリアでは入植したロシア人農民農耕漁業従事し先住民に対して毛皮家畜納めるヤサクが課された。進出するロシア人清国との間で紛争清露国境紛争)が起き1689年ネルチンスク条約1727年キャフタ条約スタノヴォイ山脈アルグン川国境とすることが定められた。 最初シベリア学術調査ピョートル1世在位1682年 - 1725年)が派遣したドイツ人博物学者メッサーシュミット英語版)の探検隊であり、18世紀前半にはベーリング二次に渡る大規模な調査行いカムチャッカ半島探検しユーラシア北米との間の海峡ベーリング海峡)の存在確認した18世紀に入ると毛皮交易衰え農耕鉱山開発主体となった農耕適した南部タイガ森林ステップ地帯入植開拓進められるようになり、流刑囚を使った鉱山開発が行われて、アルタイ山麓には冶金工場開設された。1822年行政改革により、西シベリア総督府オムスク)と東シベリア総督府イルクーツク)が置かれた。辺境防備のためカザークシベリア入植すすめられシベリアアムールウスリーそしてイルクーツクといったカザーク軍団成立している。また、シベリア流刑増大しており、デカブリスト社会民主主義者ポーランド独立運動家といった革命家たちがシベリア送られ家族含めた流刑による移住者は約100万といわれる。彼らは教育農耕発展そしてシベリア研究貢献したが、一方でこの地でも革命闘争継続している。 ロシア太平天国の乱そして英仏との戦争アロー戦争)で弱体化していた清国に対して武力背景国境改定交渉迫り1858年アイグン条約1860年北京条約アムール川左岸およびウスリー川東岸割譲させ、この地に「東方征服せよ」を意味するウラジオストク建設した1882年に沿アムール総督府設置された。 日本とは、1855年日露和親条約締結してクリル列島千島列島)はイトゥルップ島択捉島)とウループ島得撫島)との間を境界となし、サハリン樺太)は雑居地とすることが取り決められている。この後サハリンでは日露住民間の紛争絶えず、1875年サンクトペテルブルク条約樺太・千島交換条約)が結ばれてウループ島以北クリル18島は日本領、サハリン全島ロシアとなった19世紀後半には西シベリア穀倉地帯となり、さらに1861年農奴解放以降シベリア移民増大している。またレナ川流域の金採取量が増大しており、諸工業発展し産業プロレタリアート階級形成された。1891年シベリア鉄道東西同時に起工され、西シベリア部分1896年完成1899年にはイルクーツクまで開通し、そして1901年モスクワ - ウラジオストク間(バイカル湖区間フェリー輸送)が開通しており、正規全線開通日露戦争中の1905年である。19世紀末から20世紀はじめにかけて400万人シベリア移民し1905年時点シベリア人口は約940万人達した一方で産業の発展につれて農民の反封建闘争労働争議頻発するようになっている1898年清国から遼東半島南部旅順大連地域)の租借東清鉄道敷設獲得した1900年義和団事件勃発すると、大軍派兵し満州軍事占領している。だが、日露戦争1904年 - 1905年)の結果締結されポーツマス条約によって、ロシア日本サハリン南部割譲遼東半島南部租借権および長春 - 大連鉄道譲渡余儀なくされた。 1905年革命の際にはクラスノヤルスクチタ武装蜂起起こり鉱山労働者ストライキ端を発した1912年レナ金鉱銃殺事件ロシア社会大きな衝撃与え各地抗議行動起こされ革命的気分高揚している。 1917年帝政崩壊してボリシェヴィキ権力を掌握するとロシア内戦突入したオムスク社会革命党立憲民主党によるシベリア共和国樹立されるが、コルチャーク将軍臨時全ロシア政府吸収されている。 シベリア・極東地域赤軍派パルチザン白衛軍との角逐の場となり、これに日本アメリカ・イギリス列強干渉軍が介入したシベリア出兵)。このためソビエト政権日本軍との緩衝国として1920年4月極東共和国建国させた。外国干渉軍を平和裏撤退させることを目的とした極東共和国ボリシェヴィキだけでなく、メンシェヴィキ社会革命党立憲民主党など諸政党も参加する民主主義国家体裁であったが、実権ボリシェヴィキ掌握している。 1921年には赤軍勝利はほぼ確定した干渉軍として最後まで駐留続けていた日本軍1922年10月ウラジオストクから撤兵すると、役割終えた極東共和国11月ソビエト連邦結合され消滅したサハリン北部占領していた日本軍撤退したのは1925年のことである。

※この「シベリア・極東」の解説は、「ロシア帝国の歴史」の解説の一部です。
「シベリア・極東」を含む「ロシア帝国の歴史」の記事については、「ロシア帝国の歴史」の概要を参照ください。

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