シベリア・極東
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詳細は「シベリア」、「ロシアのシベリア征服」、「シベリアの河川交通」、および「日露関係史」を参照 イヴァン4世の時代にイェルマーク率いるカザークの遠征隊の攻撃によってシビル・ハン国は大打撃を受けて16世紀末に滅亡したことにより、ロシアのシベリア進出の道が開かれた。毛皮採取を目的としたロシア人が東シベリアに進出して砦を築き、先住民ヤクート人、ツングース人そしてブリヤート人をロシアの統治下に組み入れていった。ロシア人はイルクーツクの砦をシベリア経営の拠点となした。ロシア帝国が成立した18世紀はじめの時点でシベリアに居住するロシア人は先住民の2倍に当たる30万人を越えた。シベリアでは入植したロシア人農民が農耕、漁業に従事し、先住民に対しては毛皮や家畜を納めるヤサクが課された。進出するロシア人と清国との間で紛争(清露国境紛争)が起き、1689年のネルチンスク条約と1727年のキャフタ条約でスタノヴォイ山脈とアルグン川を国境とすることが定められた。 最初のシベリア学術調査はピョートル1世(在位1682年 - 1725年)が派遣したドイツ人博物学者メッサーシュミット(英語版)の探検隊であり、18世紀前半にはベーリングが二次に渡る大規模な調査を行い、カムチャッカ半島を探検し、ユーラシアと北米との間の海峡(ベーリング海峡)の存在を確認した。 18世紀に入ると毛皮交易が衰え、農耕と鉱山開発が主体となった。農耕に適した南部タイガ、森林ステップ地帯に入植・開拓が進められるようになり、流刑囚を使った鉱山開発が行われて、アルタイ山麓には冶金工場が開設された。1822年の行政改革により、西シベリア総督府(オムスク)と東シベリア総督府(イルクーツク)が置かれた。辺境防備のためカザークのシベリア入植がすすめられ、シベリア、アムール、ウスリーそしてイルクーツクといったカザーク軍団が成立している。また、シベリア流刑も増大しており、デカブリストや社会民主主義者、ポーランド独立運動家といった革命家たちがシベリアへ送られ、家族を含めた流刑による移住者は約100万人といわれる。彼らは教育や農耕の発展そしてシベリア研究に貢献したが、一方でこの地でも革命闘争を継続している。 ロシアは太平天国の乱そして英仏との戦争(アロー戦争)で弱体化していた清国に対して武力を背景に国境改定交渉を迫り、1858年のアイグン条約と1860年の北京条約でアムール川左岸およびウスリー川東岸を割譲させ、この地に「東方を征服せよ」を意味するウラジオストクを建設した。1882年に沿アムール総督府が設置された。 日本とは、1855年に日露和親条約を締結してクリル列島(千島列島)はイトゥルップ島(択捉島)とウループ島(得撫島)との間を境界となし、サハリン(樺太)は雑居地とすることが取り決められている。この後、サハリンでは日露住民間の紛争が絶えず、1875年にサンクトペテルブルク条約(樺太・千島交換条約)が結ばれて、ウループ島以北クリル18島は日本領、サハリン全島はロシア領となった。 19世紀後半には西シベリアは穀倉地帯となり、さらに1861年の農奴解放以降にシベリア移民が増大している。またレナ川流域の金採取量が増大しており、諸工業が発展し、産業プロレタリアート階級が形成された。1891年にシベリア鉄道が東西同時に起工され、西シベリア部分は1896年に完成、1899年にはイルクーツクまで開通し、そして1901年にモスクワ - ウラジオストク間(バイカル湖区間はフェリー輸送)が開通しており、正規の全線開通は日露戦争中の1905年である。19世紀末から20世紀はじめにかけて400万人がシベリアに移民し、1905年時点のシベリア人口は約940万人に達した。一方で産業の発展につれて、農民の反封建闘争や労働争議も頻発するようになっている。 1898年に清国から遼東半島南部(旅順・大連地域)の租借と東清鉄道の敷設権を獲得した。1900年に義和団事件が勃発すると、大軍を派兵して満州を軍事占領している。だが、日露戦争(1904年 - 1905年)の結果、締結されたポーツマス条約によって、ロシアは日本へサハリン南部割譲、遼東半島南部の租借権および長春 - 大連間鉄道の譲渡を余儀なくされた。 1905年革命の際にはクラスノヤルスクとチタで武装蜂起が起こり、鉱山労働者のストライキに端を発した1912年のレナ金鉱銃殺事件はロシア社会に大きな衝撃を与え、各地で抗議行動が起こされ、革命的気分が高揚している。 1917年に帝政が崩壊して、ボリシェヴィキが権力を掌握するとロシアは内戦に突入した。オムスクに社会革命党と立憲民主党によるシベリア共和国が樹立されるが、コルチャーク将軍の臨時全ロシア政府に吸収されている。 シベリア・極東地域は赤軍派パルチザンと白衛軍との角逐の場となり、これに日本・アメリカ・イギリスの列強干渉軍が介入した(シベリア出兵)。このためソビエト政権は日本軍との緩衝国として1920年4月に極東共和国を建国させた。外国干渉軍を平和裏に撤退させることを目的とした極東共和国はボリシェヴィキだけでなく、メンシェヴィキ、社会革命党、立憲民主党など諸政党も参加する民主主義国家の体裁であったが、実権はボリシェヴィキが掌握している。 1921年には赤軍の勝利はほぼ確定した。干渉軍として最後まで駐留を続けていた日本軍も1922年10月にウラジオストクから撤兵すると、役割を終えた極東共和国は11月にソビエト連邦に結合され消滅した。サハリン北部を占領していた日本軍が撤退したのは1925年のことである。
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