第二次大戦後のウィーンとは? わかりやすく解説

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第二次大戦後のウィーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:39 UTC 版)

ウィーンの歴史」の記事における「第二次大戦後のウィーン」の解説

第二次世界大戦ドイツ敗北終わりウィーン米英仏ソ4ヶ国の共同占領下置かれた。オーソン・ウェルズ主演映画「第三の男」このころウィーン様子をよく伝えている。1955年オーストリア主権国家として独立回復した。旧ハプスブルク帝国継承国家のほとんどが共産圏組み込まれる中で、オーストリアで共産党国民の支持得られず、経済的に西側自由主義体制との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになったオーストリア出身クルト・ワルトハイム4代国際連合事務総長などのもとで、ウィーンにはウィーン国際センター(UNO City)が建設されニューヨークジュネーヴにつぐ第三国連都市として発展したウィーン数々国際機関所在地となったが、鉄のカーテンによって、かつての後背地であった中東欧失いその人口はゆるやかに減少し続けた人口100万越え大都市のうち20世紀通じて減少したのはウィーンだけであった1989年ベルリンの壁崩壊ビロード革命ルーマニア革命は、中部ヨーロッパにおけるウィーンのもっていた地政上の重要性をよみがえらせた。それに先だって多く東欧からの難民ウィーン経由して西側諸国亡命した。これらの一連の激動以降150万人切っていた人口諸外国からの流入により再び増加傾向にあり、2050年ごろには再び200万人大台回復する予想されているほどである。これは2004年中東欧8ヶ国がEU新規加盟したのに加え2007年にはルーマニアブルガリア加盟、さらに、その後クロアチアはじめバルカン半島国々加盟見込まれているためであり、また、かつての多民族都市として経験がいま再び期待されているためでもある。 こうしてウィーンには中東欧経済中枢拠点として多く多国籍企業進出するようになったが、旧共産圏諸国インフラ整備されるにしたがってプラハブダペストなどの他の東欧の各都市との競合厳しさ度合い増している。そのため2005年には税制改革により法人税などが引き下げられた。2006年には、国際会議開催件数パリ追い越し世界1位となっている。

※この「第二次大戦後のウィーン」の解説は、「ウィーンの歴史」の解説の一部です。
「第二次大戦後のウィーン」を含む「ウィーンの歴史」の記事については、「ウィーンの歴史」の概要を参照ください。

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