第二次大戦後の活動
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「マーガレット・バーク=ホワイト」の記事における「第二次大戦後の活動」の解説
終戦後もバーク=ホワイトは特派員としての活動をつづけ、パキスタンの独立と激しい武力対立、南アフリカの炭鉱労働者の過酷な現状などを取材した。この時期の作品ではインドでガンジーの非暴力活動に密着した写真(1946年)などがよく知られている。 1952年、朝鮮戦争の取材から帰国したバーク=ホワイトは体調不良を訴え、のちにパーキンソン病を発症する。実験的な手術を試みるが快癒せず、戦場カメラマンとしての活動継続を断念した。 晩年は主に自伝の執筆と講演で過ごしながら断続的に撮影活動をつづけ、米国雑誌協会 から特別栄誉賞を受けるなど、数多くの栄誉に包まれた。1971年8月27日、パーキンソン病の悪化によりコネチカット州スタンフォードにて67歳で死去。 自伝の中でバーク=ホワイトは、「写真家としての私の生涯は大きく変転する時代そのものに作り出されていて、二度と同じ形で再現することはできない」と自らの生涯を振り返っている。
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第二次大戦後の活動
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日本が敗北した後、李守信はデムチュクドンロブに付き従って北平に避難する。蔣介石と交渉して第10路軍総司令に任命され、旧部隊を率いて中国共産党に備える。1949年(民国38年)、国民政府の敗色が濃厚になると、李は一時台湾へ逃亡したが、その後、デムチュクドンロブの勧誘に応じて内モンゴルに引き返す。同年8月に蒙古自治政府が成立すると、政務委員兼保安委員会副委員長となった。同年12月中旬には外モンゴルをゴンチギン・ブムチェンド(英語版)、内モンゴルをデムチュクドンロブに任せて自らは全モンゴルの統治者となることを考えていたモンゴルの独裁者チョイバルサンに招かれ、これに応じてデムチュクドンロブとともにモンゴル人民共和国に亡命した。中国共産党への武装解除に積極的だった副主席のダリジャヤ(達王)、李守信と同じ保安委員会副委員長の白海風らは蒙古自治政府を西蒙自治政府に改組して人民解放軍に帰順した。 1950年9月、モンゴル当局により逮捕されたデムチュクドンロブと李守信は、当時成立したばかりの中華人民共和国に引き渡され、収監に伴い思想改造を受けた。1964年12月28日、第5回戦犯特赦において李守信は釈放され、以後は回顧録を書きながら内モンゴル自治区文史館館員を務めた。 1970年5月、フフホト市で病没。享年79(満77歳)。
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