日本統治の時代
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「東洋劇場 (ソウル特別市)」の記事における「日本統治の時代」の解説
1935年(昭和10年)10月、日本が統治する朝鮮の京城府竹添町1丁目62番地(現在[いつ?]の大韓民国ソウル特別市中区忠正路1街62番地)に洪淳彦(1905年 - 1937年)・裵亀子(1905年 - 2003年)夫妻の手により竣工、同年11月1日に開館した。裵亀子は舞踏家であり、洪淳彦は平壌府(現在[いつ?]の朝鮮民主主義人民共和国平壌市)出身の実業家である。支配人には専属作家でもある崔獨鵑(朝鮮語版)(本名・崔象徳、1901年 - 1970年)が就任した。同館開館とともに、「青春座(朝鮮語版)」を設立している。 ただし1936年(昭和11年)に発行された『朝鮮及滿洲に活躍する岡山縣人』によれば、同館は京城劇場(のちのソウル劇場、本町3丁目94番地、現在[いつ?]の忠武路3街94番地)とともに、分島周次郞が経営したと記されている。同年10月25日には、同館支配人の崔獨鵑が脚本を執筆した『迷夢』(監督梁柱南、主演李錦龍(朝鮮語版))を分島周次郞が経営する京城撮影所が製作し、同館および團成社で封切っている。同作の上映用フィルムプリント等は、のちに2006年(平成18年)に中国で発見され、現存する最古のものとして、韓国の文化財庁第342号に登録された。 同館の劇場・劇団経営の画期的とされる点は、所属俳優に対して固定月給制を採用したことであり、この制度により俳優は生活を気にせず演劇に専念することが可能になった。同館を拠点とした劇団に、「青春座」「豪華船」「東劇座」「喜劇座」があり、同館のみならず、地方巡業も行った。「青春座」、および1938年(昭和13年)創立の「豪華船」は二大劇団として知られた。演劇本位の経営を行った洪淳彦は、1937年(昭和12年)1月19日、妻の日本公演に同行し、東京で客死している。洪の没後は、支配人であった崔獨鵑が代表に就任し、同館の経営を行った。 「青春座」の代表作は『愛にだまされ金に泣き(朝鮮語版)』(監督李明雨(朝鮮語版))であり、同館は1939年(昭和14年)、高麗映画協会と提携してこれを映画化し、同年3月17日、京城府民館で公開し、10,000人を動員した記録が残っている。同作に主演したのが、「青春座」のスター女優車紅女(朝鮮語版)(1919年 - 1940年)であった。1940年(昭和15年)12月24日には、女優の車紅女が巡業中の舞台で倒れ、急死するという事件が起きている。所属俳優たちは崔獨鵑の経営に反発、大挙して同館を脱退しており、車紅女もそのひとりであったが、この前後の時期に映画館に業態を変更している。 1941年(昭和16年)3月に発行された『演劇特輯號』誌によれば、同館内に「青春座」「豪華船」の両劇団の事務所を置いており、団員数はいずれも23名、代表者はいずれも金泰潤が務めている。1942年(昭和17年)に発行された『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同館の経営者は金田泰潤(金泰潤)、支配人も金田が兼務、観客定員数については記されていない。第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同資料には同館の興行系統については記述されていない。同年9月20日には、同館の「革新開館3週年紀念公演」と銘打ち、「青春座」が『傳説春香傳』(脚色金健(朝鮮語版)、演出朴珍(朝鮮語版))を上演している。当時は「青春座」のほか「劇団星群」も同館に事務所を置いていた。1943年(昭和18年)に発行された『映画年鑑 昭和十八年版』には、同館が常設映画館として掲載されていない。
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日本統治の時代
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「平和劇場 (ソウル特別市)」の記事における「日本統治の時代」の解説
1930年(昭和5年)8月24日、日本が統治する朝鮮の京城府鍾路4丁目1番地(現在の大韓民国ソウル特別市鍾路4街5番地)に芝居小屋ミナト座として開館する。同地は「観商場」という寄席のような形態の小屋の跡地であった。同館は、同府本町(現在の同市忠武路)に存在したミナト帽子店の経営者が設立、経営した劇場である。館主はミナト座演劇部を設置して、実際の運営は、崔承一(朝鮮語版)および羅雲奎に任せていた。同年10月3日、尹昌淳興行部直営の映画館になり、旧劇(歌舞伎)の劇場となったが、同年11月22日には映画常設館に業態変更している。翌1931年(昭和6年)12月には、中外劇場の直営館になり、演劇専門館に戻る。 1932年(昭和7年)には第一劇場と改称した。同年に出した同館の広告によれば、同館の入場料金は2種類あり、階上15銭・階下10銭(当時)の均一料金であり、「大衆料金」をセールスポイントにしていた。当時の同館の興行系統は松竹キネマ(のちの松竹)およびアメリカ映画等の輸入映画(洋画)であった。1934年(昭和9年)10月13日付の『東亜日報』にも、松竹キネマ作品の同館での上映について記されている。同館の平均入場料金は優美館より1銭安い14銭(1932年当時)であり、既定の最低料金は優美館と同じ10銭(当時)であった。朝鮮劇場および團成社では、平均入場料金はそれぞれ27銭および25銭(当時)であり、同館の料金は同府内の清渓川以北(北村)では最低ランクであり、入場者数も収益も、朝鮮劇場や團成社と比較して半分以下であったという。 1935年(昭和10年)3月23日、映写室から火が出て火災になり、200名あまりの観客は無事であったが、内部は全焼した。これにより一時閉館したが、改築されて同年8月25日には営業再開した。新しい映画館ではあったが、トーキー設備の導入には出遅れ、同年火災を機に完備された。したがって同館は、1930年代後半の同府内の映画館のなかでの位置づけは、優美館、東洋劇場、その他郊外の映画館らとともに「3等級館」であった。 1942年(昭和17年)に発行された『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同館の経営者は平松秀章、支配人も平松が兼務、観客定員数は800名と記されている。第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同資料には同館の興行系統については記述されていない。
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日本統治の時代
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1907年(明治40年)、大韓帝国末期、当時の同国の首府・漢城府の壽町(のちの日本統治時代の朝鮮京城府本町3丁目94番地、現在の大韓民国ソウル特別市中区忠武路3街94番地)に寄席・芝居小屋の壽座として開館した。当時の同国は、すでに日本の保護国であり、1910年(明治43年)8月29日には韓国併合によって日本の統治下に入っている。開館当初からすでに日本人が同地に入植しており、日本人向けの演芸や歌舞伎等の芝居が上演された。 1916年(大正5年)には建物を改修して、京城劇場と改称、分島周次郎が経営した。分島は、のちに同府黄金町1丁目(現在の乙支路1街)に600名を収容する映画館「楽天地」を経営した人物である。木造三階建の日本式の建築であり、1922年(大正11年)当時の写真が残っている(右上写真)。1927年(昭和2年)2月16日に本放送を開始した朝鮮放送協会京城中央放送局(JODK, 現在の韓国放送公社)では、開局の1か月後の同年3月18日から、同館で上演される演劇の中継放送が行われた。1929年(昭和4年)2月13日には、同日の未明に起きた火災により全焼、損害は15万円(当時)であり、消防士2名が死傷したと報道された。その後復興には1年程度の休館時期を要したが、翌1930年(昭和5年)3月1日付の『東亜日報』は、小さな記事で同館の再建予定を報じた。再建のための予算は10万2,000円(当時)であった。同年、木造二階建の煉瓦館が完成した。奇術師の松旭斎天勝や松旭斎天華も同館で公演している。 1940年(昭和15年)前後の時期に映画館に業態を変更している。1942年(昭和17年)に発行された『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同館の経営者は川村正、支配人も川村が兼務、観客定員数は750名であった。第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同資料には同館の興行系統については記述されていない。1943年(昭和18年)に発行された『映画年鑑 昭和十八年版』によれば、同館は前年1月27日に発足した大日本映画製作(大映)の直営館になっている。同館の経営は朝倉房吉が行ったとされる。
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日本統治の時代
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1907年(明治40年)6月4日、当時の大韓帝国の首府・漢城府の廟洞(のちの朝鮮京城府授恩町56番地、現在の大韓民国ソウル特別市鍾路区廟洞56番地)に團成社として開館した。当時の同国は、すでに日本の保護国であり、1910年(明治43年)8月29日には韓国併合によって日本の統治下に入っている。開館当時の同館の所有者は金然永であり、当初からすでに日本人が同地に入植しているものの朝鮮人向けの映画館であった。観客定員数は350名と小規模な木造の映画館であったが、1914年(大正3年)1月28日には改築によって1,000名に拡大している。 1917年(大正6年)には、日本人の実業家、田村義次郎に同館の所有権が移転している。同館オーナーに就任した田村は、当時同館のほかにも京城府内に黄金遊園を所有し、そこには黄金館(のちの國都劇場)および高等演技館(のちの世界館)を経営していた人物である。オーナーの田村は、同館を入手した翌年の1918年(大正7年)12月21日には、約6万円(当時)を投じて同館を4階建てに改築・再開館し、同館支配人に朴承弼を任命、同館の経営を任せた。1920年前後には田村は死去し、没後は妻の田村みねが同館の所有権を継承した。朴は同館を洋画専門館に切り替え、黄金館内に存在した天活鮮満一括代理店が配給する天然色活動写真(天活)が輸入した欧米の映画を上映した。やがて朴は映画製作も手掛けるようになり、天活の撮影技師宮川早之助を起用して『義理的仇討』(監督金陶山(朝鮮語版))を製作、1919年(大正8年)10月27日にこれを公開した。同作は、連鎖劇といって当時の日本で流行した映画と実演で構成されるものであったが、のちに「朝鮮映画第1号」あるいは「韓国映画第1号」とみなされた作品である。同作は、天活が製作・配給した連鎖劇『船長の妻』(1918年)からの影響が指摘されている。朴は同館の製作部門を團成社朴承弼演芸部として組織し、映画館経営の傍ら、映画製作を行った。同館は、優美館とならんで「高級な洋劇」を上映する映画館であり、朝鮮全域においても突出している旨、高く評価されていた。 1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』によれば、同館の敷地は146坪(約482.6平方メートル)、観客定員数は960名、所有者は「田村ノブコ」と記載され、支配人は朴承弼、興行系統は松竹キネマおよびユニヴァーサル映画、従業員数は40名、うち映画説明者(活動写真弁士)が6名、楽士の人員数の記載はないがオーケストラを編成していたという。当時の同館では、外国物(輸入映画、洋画)を中心に興行していたが、團成社朴承弼演芸部が製作した長篇劇映画『薔花紅蓮傳(朝鮮語版)』(監督朴晶鉉)を上映し、好評を博したという記録が残っている。1927年(昭和2年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和二年版』によれば、当時の所有者・経営者は「田村ノブ」と記載されており、支配人は朴承弼、観客定員数も変わらず、興行系統はマキノ・プロダクションおよび東亜キネマであったという。当時の同館では『巴里の女性』(監督主演チャールズ・チャップリン、アメリカ公開1923年9月26日、日本公開1924年10月)や、釜山府(現在の釜山広域市)の朝鮮キネマプロダクションが製作した『籠の鳥』(監督李圭卨、脚本津村秀一、1926年6月19日)を上映して高評を得た。1926年(大正15年)10月1日には、同じく朝鮮キネマが製作、『籠の鳥』の脚本を書いた津村秀一こと羅雲奎が監督・主演した『アリラン』(日本配給ヤマニ洋行、日本公開向け検閲日同年12月22日)を同館で公開している。1935年(昭和10年)10月4日には、トーキー版の『春香伝』(原題춘향전、監督李明雨、主演文藝峰)を同館で公開した。 1939年(昭和14年)3月27日には、大陸劇場と改称している。時期を同じくして経営者が変わっており、1942年(昭和17年)に発行された『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同館の経営者は石橋良介、支配人は須田光一、観客定員数も650名と大幅に減少している。石橋良介は、同府内明治町1丁目54番地(現在の明洞)に明治座を経営する人物である。第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同資料には同館の興行系統については記述されていない。
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日本統治の時代
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「明治座 (京城府)」の記事における「日本統治の時代」の解説
1936年(昭和11年)10月7日、日本が統治する朝鮮の京城府明治町1丁目54番地(現在の大韓民国ソウル特別市中区明洞1街54番地)に明治座として竣工、開館した。同地域は、清渓川の南側、南村と呼ばれる地域に位置する日本人街であり、明治町通(現在の明洞通り、朝鮮語: 명동길、ミョンドンキル)に面しており、同館の斜め前(南西側)には浪花館(のちの明洞劇場、明治町1丁目65番地2号、現在の明洞1街65番地2号)という映画館が先行して存在した。同館の建築主および館主は、実業家の石橋良介である。インターネット上の韓国側資料に頻出する「石橋良佑」等は誤りである。 同館の着工は前年1935年(昭和10年)11月9日であり、設計者は玉田建築事務所を主宰する玉田橘治であった。玉田は、同時期に着工あるいは完成した同府内の映画館、團成社(授恩町56番地、現在の鍾路区廟洞(朝鮮語版)56番地)および黄金館(のちの國都劇場、黄金町4丁目310番地、現在の乙支路4街310番地)の設計も行っている。建築費用は53万円(当時)、観客定員数1,000名を超え、トーキー設備もあり、同府内でも「1等級館」に分類された劇場であった。当時の府内「1等級館」は、同館のほか、京城宝塚劇場(かつての黄金館、のちの國都劇場、黄金町4丁目310番地、現在の乙支路4街310番地、1913年開館)、若草劇場(のちのスカラ劇場、若草町41番地、現在の草洞41番地、1935年開館)があった。牧園大学校(朝鮮語版)教授の金晶東、および名古屋大学大学院准教授の西澤泰彦の指摘によれば、同館の設計は、1930年(昭和5年)12月に改築・竣工した東京・浅草公園六区の大勝館に酷似したバロック建築であり、平面図までそっくりコピーしたものであろうという。大勝館の設計は僊石政太郎が主宰する僊石建築事務所の設計、戸田組(現在の戸田建設)の施工によるものである。 1937年(昭和12年)4月24日には、聖峰映画閣と新興キネマが合作し、李圭煥(朝鮮語版)と鈴木重吉とが共同監督した朝鮮語による初のトーキー『ナグネ(朝鮮語版)』(日本公開題『旅路』、東京公開1937年5月6日)が、同館で公開されている。同館では日本語版の上映であったが、同日、府内の優美館では朝鮮語版が公開されている。 「京城名物」として同館を写した当時の絵はがきには、七代目松本幸四郎の名を記した幟や、アメリカ映画『目撃者(英語版)』(監督アルフレッド・サンテル(英語版)、主演バージェス・メレディス、アメリカ公開1936年12月3日、日本公開1937年3月)の幟が確認できる(右上写真)。1939年(昭和14年)には、松竹の作品や輸入映画(洋画)の興行系統にあったとされており、同年10月2日には、アメリカ映画『踊るホノルル(英語版)』(監督エドワード・バゼル(英語版)、アメリカ公開1939年2月3日、東京公開同年6月15日)、松竹映画『新しき家族』(監督渋谷実、東京公開同年9月7日)および『虹晴れ街道』(監督二川文太郎、東京公開同年9月28日)が同館で公開されている。 ほかにも朝鮮の映画会社が製作した映画の封切館としても機能しており、1940年(昭和15年)8月6日には、高麗映画協会が製作した映画『授業料(朝鮮語版)』(監督崔寅奎(朝鮮語版))が同館をトップに封切り、1941年(昭和16年)2月19日には、東亜映画社が製作した映画『志願兵』(監督安夕影(朝鮮語版)、東京公開1940年8月1日)が同館で公開されている。松竹映画も引き続き公開されており、同年撮影とされる同館の写真には、「近日封切」として『西住戦車長伝』(監督吉村公三郎、東京公開1940年11月29日)、『みかへりの塔』(監督清水宏、東京公開1941年1月30日)、「戸田家の兄弟」(『戸田家の兄妹』の誤り、監督小津安二郎、東京公開同年3月1日)の幟が写っており、当時の人気ダンサー岡本八重子の「アクロバティックダンス」実演も行われた。 同年4月、同館の経営者である石橋良介がメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの朝鮮での代理店となる。第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、1942年(昭和17年)、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない。 同資料によれば、当時の同館の経営は石橋良介の個人経営であり、支配人は田中博が務めた。観客定員数は同資料では1,165名、翌1943年(昭和18年)に発行された『映画年鑑 昭和十八年版』では1,120名に改められている。同年4月5日には、前年9月に設立された朝鮮映画製作が製作した朝鮮初の航空映画『仰げ大空』(朝鮮語: 우르러라 창공、監督金永華(朝鮮語版))が同館を封切館として公開された。同館では、大戦末期の1945年(昭和20年)5月24日には『愛と誓い』、同年6月10日には『神風の子供達』といった、いずれも崔寅奎が監督した日本の国策映画を封切館として公開している。
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