日本統治下での独立運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 21:35 UTC 版)
大学卒業後の1913年に帰国した後は、定州の五山学校で教職に就き、1915年には学校長に昇進した。 1919年には、学校長の職を辞して三・一独立運動に参加して逮捕され、平壌監獄に1年間服役し、釈放後は民族実力養成運動の先頭に立つ様になった。 1921年には、平壌YMCA総務と山亭峴教会の長老となり、以降平壌における長老派教会の重鎮とされる存在となった。 1922年には、国産品愛用を奨励する為に朝鮮物産奨励会を結成し、自ら会長に就任した。 1923年には、金性洙や宋鎮禹と共に、民族教育の為の大学を設立する事を目的とした朝鮮民立大学期成会を結成した。 1927年には、新幹会の結成に参加し、平壌支部の会長に就任した。 1930年には関西体育会長、1932年には朝鮮日報社長に就任し、教育言論文化事業運動を展開する様になった。 太平洋戦争中は、キリスト教民族主義の立場から、神社参拝と志願兵制度への協調を拒否した。 1943年には、曺晩植を懐柔しようとしていた当時の朝鮮軍司令官である板垣征四郎との面談を拒否し、志願兵制度に対する反対運動を行い逮捕されたが、すぐに釈放された。
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