志願制度

志願制度(しがんせいど)または募兵(ぼへい)は、強制徴兵せずに志願者達だけで軍隊を維持する兵役制度である。英語では「オール・ボランティア・ミリタリー・システム(All volunteer military system)」と呼ぶ。国民に軍務に服する義務を課す徴兵制度に対し、それをせず当人の自由意思に任せる制度である。アメリカ合衆国、イギリス、カナダ、ドイツ、インドなどがその例である。主に個人の自由が最高の権利と考える自由主義者や反軍国主義者が支持する兵役制度である。
概要
国民国家の成立とともに徴兵制が誕生し普及したため、それ以外の制度が区別上志願制と呼ばれる。徴兵制の国家にも、自らの意志で入隊する志願兵は存在するが、志願制とは区別される。
20世紀後半から2010年代にかけて、現状にそぐわなくなった徴兵制が廃止・縮小され志願制に復帰する国家が増え続けている。詳しくは徴兵制度#徴兵制度の歴史及び徴兵制度#徴兵制度の問題を参照。
一方で、2016年9月にスウェーデンが、2010年に廃止した徴兵制を復活させると発表するなど、志願制から徴兵制に移行を目指す国家もある。スウェーデンの専門家は、志願制では兵士の質や量を確保することが出来ないとしている[1][2]。
大日本帝国の志願兵の服役
- 大日本帝国陸軍 - 3種ある。
- 現役志願兵 - 年齢17年以上徴兵適齢未満のもので、現役であることを志願するもの。2年在営させ、その現役は一般の現役兵として徴集されたものと同じ。ただし輜重兵、特務兵および補助看護兵は採用しない。
- 憲兵上等兵および楽手補 - 兵役は現役、予備役、後備役とし、逐次これに服させる。その服役期間は現役は、憲兵は前服役期間を通算して4年、楽手補はこれを命じられた年の12月1日から起算して5年であるが、いずれも志願によって延長することが出来る。予備役は現役を通算して7年4月、後備役は前服役を通算し17年4月である。ただし年齢40年に満ちる前に後備兵役を終ったものは第一国民兵役にあるものとみなされる。
- 年齢40年を過ぎ志願により国民軍に編入された兵 - 当該期間第一国民兵にあるものとみなされる。
- 大日本帝国海軍
- 本人の志願により海軍志願兵令に基づいて採用され、全国から徴募するが、兵種は水兵、航空兵、機関兵、軍楽兵、看護兵、主計兵の6種で、年齢17年以上21年未満のものについて行なう。ただし掌電信兵を志願する水兵は15年以上19年未満、軍楽兵は16年以上20年未満。服役は現役5年、予備役4年および後備兵役5年とし、後備役を終ったもので、年齢40年未満のものは第一国民兵に服させる。
現役定限年齢は35年とし、40年を服役の終期とする。
朝鮮・台湾における志願兵制度については朝鮮人日本兵・台湾人日本兵をそれぞれ参照。
脚注
- ^ “スウェーデン、8年前廃止の徴兵制復活へ 2018年から”. AFPBB News. (2016年9月30日) 2016年12月23日閲覧。
- ^ “徴兵制、復活へ=スウェーデン”. 時事通信社. (2016年10月2日) 2016年12月23日閲覧。
関連項目
志願兵制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 02:30 UTC 版)
武装親衛隊は兵員の充足については苦労があった。義務兵役年齢に達した青年男子は居住する軍管区に登録され、一定の比率で陸、海、空の国防三軍に配分されるが、武装親衛隊には徴兵による補充はなく、完全志願制であったので、「満17歳になったら、武装親衛隊へ志願しよう !」のポスターで募集活動する必要があった。初期においては血統、体力や政治的な信条で入隊の可否を決めており、出身階層や学歴は考慮されていなかった。このため戦前に入隊したSS士官候補生のうち、実に4割が小学校レベルの学校教育しか受けていない者たちであった。 武装親衛隊の制服は体裁が良いと若者には評判で、また武装親衛隊の入隊期間が義務兵役年限に算入されるので、兵役負担を軽減するためにも武装親衛隊に志願する若者が多くいた。1999年にノーベル文学賞を受賞した作家ギュンター・グラスは2006年になって、1944年当時17歳で志願し第10SS装甲師団の戦車兵として本土防衛戦を戦ったと告白して、世間の耳目を集めた。 このような志願制度は、結果的には兵役対象者を武装親衛隊に奪われることになるため、しばしば国防軍陸軍の徴兵部門との軋轢を起こした。このため、親衛隊は血統基準などの条件を緩和し、ドイツ国籍保持者からの採用を減らして外国人からも広く薄く志願者を募るようした。また、身体的形質や出自および政治的思想などよりも人格・識見・教養などといった個人の内面的な資質を重視するようになった。それによって、問題を起こさないと見られる外国籍のドイツ系人をはじめ、ゲルマン系のオランダ人、デンマーク人、ベルギー人、ノルウェー人に始まり、非ゲルマン系のフランス人、スラブ人、さらにはイスラム教徒までも対象を拡大した。このような改革によって、90万人以上と言われる武装親衛隊の総兵力の60%は外国人部隊であった。 そのような状況であったにもかかわらず「武装親衛隊神話」が実しやかに語り続けられるのは、旺盛な敢闘精神を示すべき政治的兵士として優先的に新兵器の供給を受けて戦った、精強な一握りの「エリート部隊」が超人的といっても過言ではない戦いぶりを示した故である。また師団長以上の将官の戦死者が36名(ほぼ1師団あたり1名)と、上級幹部であっても下級将校や下士官兵らとともに最前線に身を晒した者が多かったことが伺える。 例えば第12SS装甲師団 ヒトラーユーゲントは下級兵士の大半が未成年(少年兵)で、しかもこれが初陣であるにもかかわらず、カナダ軍の猛攻からカーンの町を2ヵ月以上死守し、一気にノルマンディーから内陸に侵攻する予定だった連合軍は、その計画を大きく修正する事を余儀なくされている。しかし、その一連の戦いで同師団は戦死者約4000名、戦傷病者約8000名、初代師団長が戦死、二代目も捕虜になるという大損害を被っている。武装親衛隊における1個師団の兵員数が通常1万4000名から1万6000名であり、その人数には各種の後方支援要員も含まれるということを考えると、部隊を構成する将兵のほとんどが最前線と後方とを問わず死傷するという凄まじいものであった。ハンス・ペーター・リヒターがユーゲント且つ従軍者のひとりで、3部作自叙伝の最終巻「若い兵士のとき」で当時の様子を綴っている。 また、ベルリンの戦いで最後まで国会議事堂に立て篭もって戦った部隊はノルトラント師団やフランス人の義勇兵達だった。最後まで戦い抜いた理由の一部は彼らが勇敢だったからだけではなく、ここで降伏しても故国に送還されて反逆者として処刑されるという絶望感もあったのではないかと思われる。実際外国人義勇兵の多くは戦後祖国で冷たく扱われ、裁判にかけられた。自由フランス軍に引き渡された義勇兵のように処刑された将兵も少なくない。
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