志願兵制とは? わかりやすく解説

志願制度

(志願兵制 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/17 07:36 UTC 版)

第一次世界大戦時のイギリスにおけるキッチナーの募兵ポスター、『英国民たちよ、(国家は)君を必要としている』。当時イギリスでは徴兵制は敷かれていなかった。

志願制度(しがんせいど)または募兵(ぼへい)は、強制徴兵せずに志願者達だけで軍隊を維持する兵役制度である。英語では「オール・ボランティア・ミリタリー・システム(All volunteer military system)」と呼ぶ。国民に軍務に服する義務を課す徴兵制度に対し、それをせず当人の自由意思に任せる制度である。アメリカ合衆国イギリスカナダドイツインドなどがその例である。主に個人自由が最高の権利と考える自由主義者反軍国主義者が支持する兵役制度である。

概要

国民国家の成立とともに徴兵制が誕生し普及したため、それ以外の制度が区別上志願制と呼ばれる。徴兵制の国家にも、自らの意志で入隊する志願兵は存在するが、志願制とは区別される。

20世紀後半から2010年代にかけて、現状にそぐわなくなった徴兵制が廃止・縮小され志願制に復帰する国家が増え続けている。詳しくは徴兵制度#徴兵制度の歴史及び徴兵制度#徴兵制度の問題を参照。

一方で、2016年9月にスウェーデンが、2010年に廃止した徴兵制を復活させると発表するなど、志願制から徴兵制に移行を目指す国家もある。スウェーデンの専門家は、志願制では兵士の質や量を確保することが出来ないとしている[1][2]

大日本帝国の志願兵の服役

  • 大日本帝国陸軍 - 3種ある。
    • 現役志願兵 - 年齢17年以上徴兵適齢未満のもので、現役であることを志願するもの。2年在営させ、その現役は一般の現役兵として徴集されたものと同じ。ただし輜重兵、特務兵および補助看護兵は採用しない。
    • 憲兵上等兵および楽手補 - 兵役は現役、予備役、後備役とし、逐次これに服させる。その服役期間は現役は、憲兵は前服役期間を通算して4年、楽手補はこれを命じられた年の12月1日から起算して5年であるが、いずれも志願によって延長することが出来る。予備役は現役を通算して7年4月、後備役は前服役を通算し17年4月である。ただし年齢40年に満ちる前に後備兵役を終ったものは第一国民兵役にあるものとみなされる。
    • 年齢40年を過ぎ志願により国民軍に編入された兵 - 当該期間第一国民兵にあるものとみなされる。
  • 大日本帝国海軍
    • 本人の志願により海軍志願兵令に基づいて採用され、全国から徴募するが、兵種は水兵、航空兵、機関兵、軍楽兵、看護兵、主計兵の6種で、年齢17年以上21年未満のものについて行なう。ただし掌電信兵を志願する水兵は15年以上19年未満、軍楽兵は16年以上20年未満。服役は現役5年、予備役4年および後備兵役5年とし、後備役を終ったもので、年齢40年未満のものは第一国民兵に服させる。

現役定限年齢は35年とし、40年を服役の終期とする。

朝鮮・台湾における志願兵制度については朝鮮人日本兵台湾人日本兵をそれぞれ参照。

脚注

関連項目


志願兵制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 02:30 UTC 版)

武装親衛隊」の記事における「志願兵制」の解説

武装親衛隊兵員充足については苦労があった。義務兵役年齢達した青年男子居住する軍管区登録され一定の比率で陸、海、空の国三軍配分されるが、武装親衛隊には徴兵による補充はなく、完全志願制であったので、「満17歳になったら、武装親衛隊志願しよう !」のポスター募集活動する必要があった。初期においては血統体力政治的な信条入隊可否決めており、出身階層学歴考慮されていなかった。このため戦前入隊したSS士官候補生のうち、実に4割が小学校レベル学校教育しか受けていない者たちであった武装親衛隊制服体裁良い若者には評判で、また武装親衛隊入隊期間が義務兵役年限算入されるので、兵役負担軽減するためにも武装親衛隊志願する若者多くいた。1999年ノーベル文学賞受賞した作家ギュンター・グラス2006年になって1944年当時17歳志願し第10SS装甲師団戦車兵として本土防衛戦戦った告白して世間耳目集めたこのような志願制度は、結果的に兵役対象者武装親衛隊奪われることになるため、しばしば国防軍陸軍徴兵部門との軋轢起こしたこのため親衛隊血統基準などの条件緩和しドイツ国保持者からの採用減らして外国人からも広く薄く志願者募るようしたまた、身体的形質出自および政治的思想などよりも人格識見教養などといった個人内面的な資質重視するようになった。それによって、問題起こさないと見られる外国籍ドイツ系人をはじめ、ゲルマン系オランダ人デンマーク人ベルギー人ノルウェー人始まり、非ゲルマン系フランス人スラブ人さらにはイスラム教徒までも対象拡大したこのような改革によって、90万人以上と言われる武装親衛隊の総兵力60%は外国人部隊であったそのような状況であったにもかかわらず武装親衛隊神話」が実しやかに語り続けられるのは、旺盛な敢闘精神を示すべき政治的兵士として優先的に新兵器供給受けて戦った精強一握りの「エリート部隊」が超人的といって過言ではない戦いぶり示した故である。また師団長上の将官戦死者36名(ほぼ1師団あたり1名)と、上級幹部であっても下級将校下士官兵とともに最前線に身を晒した者が多かったことが伺える。 例え第12SS装甲師団 ヒトラーユーゲント下級兵士大半未成年少年兵)で、しかもこれが初陣であるにもかかわらずカナダ軍猛攻からカーンの町を2ヵ月以上死守し、一気ノルマンディーから内陸侵攻する予定だった連合軍は、その計画大きく修正する事を余儀なくされている。しかし、その一連の戦いで師団戦死者4000名、戦傷病者約8000名、初代師団長戦死二代目捕虜になるという大損害を被っている。武装親衛隊における1個師団兵員数通常1万4000名から1万6000名であり、その人数には各種後方支援要員含まれるということ考えると、部隊構成する将兵のほとんどが最前線後方とを問わず死傷するという凄まじいものであった。ハンス・ペーター・リヒターがユーゲント且つ従軍者のひとりで3部作自叙伝最終巻「若い兵士のとき」で当時の様子綴っている。 また、ベルリンの戦い最後まで国会議事堂立て篭もって戦った部隊ノルトラント師団フランス人義勇兵達だった。最後まで戦い抜いた理由一部は彼らが勇敢だったからだけではなく、ここで降伏して故国送還され反逆者として処刑されるという絶望感もあったのではないか思われる実際外国人義勇兵多く戦後祖国冷たく扱われ裁判かけられた。自由フランス軍引き渡され義勇兵のように処刑され将兵少なくない

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「志願兵制」を含む「武装親衛隊」の記事については、「武装親衛隊」の概要を参照ください。

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