創立と組織の確立とは? わかりやすく解説

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創立と組織の確立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 22:02 UTC 版)

大日本帝国海軍の歴史」の記事における「創立と組織の確立」の解説

1868年1月3日王政復古の大号令が発せられ明治新政府樹立されたが、新政府自前軍艦保有していなかった。同年4月18日大阪天保山沖で実施され最初観艦式参加したのは、各藩保有する艦艇であった新政府最初艦艇は、5月3日幕府から引き渡された4隻である。新政府江戸攻撃中止する条件として、幕府海軍の全艦艇引渡し要求したが、幕府海軍副総裁榎本武揚はこれに応ぜず4隻のみを引き渡し自身は8隻を率いて脱走し箱館蝦夷共和国樹立していた。新政府海軍力蝦夷共和国より劣るものであったため、翌1869年3月15日新政府米国幕府への引渡し拒否していた装甲艦ストーンウォール甲鉄)を購入した甲鉄旗艦とした新政府艦隊同年5月20日-6月20日箱館湾海戦勝利した函館湾海戦参加した新政府艦艇は6隻であったが、政府保有艦は2隻のみで、残り4隻は藩所有のものを借り上げたものであった新政権樹立同日三職置かれたが、2月10日三職・七科のひとつして海陸軍事務科が設立された。その後何度も官制変更が行われたため、海軍その影響受けている。6月11日に七科は七官となり、海陸軍事務科は軍務官と名称変更、その下に海軍局置かれた。1869年8月15日には二官六省の制が制定され兵部省の下に海軍掛が置かれた。1871年海軍掛は海軍部と改称される1872年4月4日兵部省廃し5日海軍省置かれた。なお、陸軍1878年)よりは遅れたが、1886年参謀本部海軍部が設置され1893年海軍軍令部改称)、軍政軍令分離されている。 海軍軍人養成機関として1869年には海軍操練所設立され1870年海軍兵学寮改称)、1870年10月26日には海軍の兵式をイギリス式とすることが決定された。1872年7月にはイギリスからアーチボルド・ルシアス・ダグラス団長とするダグラス教官団が来日本格的な教育開始されている。1873年1月9日明治天皇兵学寮に赴き艦船整列閲し海軍始め定められる海軍兵学寮1876年海軍兵学校改称された(1888年江田島移転)。1878年海軍兵学校附属機関学校設置され1881年海軍機関学校改称海軍三校一つである海軍経理学校は、後れて日露戦争後1907年創立)、1888年には上級士官教育機関である海軍大学校設立された。 1871年4月6日海軍志願兵制採用したが、1872年12月28日徴兵令制定された。

※この「創立と組織の確立」の解説は、「大日本帝国海軍の歴史」の解説の一部です。
「創立と組織の確立」を含む「大日本帝国海軍の歴史」の記事については、「大日本帝国海軍の歴史」の概要を参照ください。

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