創立と組織の確立
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「大日本帝国海軍の歴史」の記事における「創立と組織の確立」の解説
1868年1月3日に王政復古の大号令が発せられ明治新政府が樹立されたが、新政府は自前の軍艦を保有していなかった。同年4月18日に大阪の天保山沖で実施された最初の観艦式に参加したのは、各藩が保有する艦艇であった。新政府の最初の艦艇は、5月3日に幕府から引き渡された4隻である。新政府は江戸攻撃を中止する条件として、幕府海軍の全艦艇の引渡しを要求したが、幕府海軍副総裁の榎本武揚はこれに応ぜず4隻のみを引き渡し、自身は8隻を率いて脱走し箱館に蝦夷共和国を樹立していた。新政府の海軍力は蝦夷共和国より劣るものであったため、翌1869年3月15日に新政府は米国が幕府への引渡しを拒否していた装甲艦ストーンウォール(甲鉄)を購入した。甲鉄を旗艦とした新政府艦隊は同年5月20日-6月20日の箱館湾海戦に勝利した。函館湾海戦に参加した新政府の艦艇は6隻であったが、政府保有艦は2隻のみで、残り4隻は藩所有のものを借り上げたものであった。 新政権樹立同日に三職が置かれたが、2月10日に三職・七科のひとつして海陸軍事務科が設立された。その後何度も官制の変更が行われたため、海軍もその影響を受けている。6月11日に七科は七官となり、海陸軍事務科は軍務官と名称変更、その下に海軍局が置かれた。1869年8月15日には二官六省の制が制定され、兵部省の下に海軍掛が置かれた。1871年、海軍掛は海軍部と改称される。1872年4月4日に兵部省を廃し、5日海軍省が置かれた。なお、陸軍(1878年)よりは遅れたが、1886年に参謀本部海軍部が設置され(1893年に海軍軍令部に改称)、軍政と軍令が分離されている。 海軍軍人養成機関として1869年には海軍操練所が設立され(1870年に海軍兵学寮と改称)、1870年10月26日には海軍の兵式をイギリス式とすることが決定された。1872年7月にはイギリスからアーチボルド・ルシアス・ダグラスを団長とするダグラス教官団が来日、本格的な教育が開始されている。1873年1月9日、明治天皇が兵学寮に赴き艦船整列を閲し、海軍始めと定められる。海軍兵学寮は1876年に海軍兵学校と改称された(1888年に江田島に移転)。1878年に海軍兵学校附属機関学校が設置され1881年に海軍機関学校と改称(海軍三校の一つである海軍経理学校は、後れて日露戦争後の1907年創立)、1888年には上級士官の教育機関である海軍大学校が設立された。 1871年4月6日、海軍は志願兵制を採用したが、1872年12月28日に徴兵令に制定された。
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