斎藤道三編
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「国主になりたいものだ」などと、さながら狂人のような夢を抱いて洛中に現れた男がいた。男の名は松波庄九郎。かつては僧門に身を置き妙覚寺本山で比類なき学識を謳われたものの、退屈な僧院の生活を厭って寺を飛び出し、還俗して牢人となった。ほどなくして庄九郎は京洛有数の油問屋の身代をまるまる手に入れるものの、自らの望みを捨てることはできなかった。望みとは、国主となりいずれは天下をも手にしたいという件の狂人の夢である。余人が聞けば嘲笑されるような妄望であったが、この男は学は内外を極め、兵書や武術にも通じ、さらには公家も及ばぬ芸道の才も備え、万能ともいえる才覚に恵まれていた。庄九郎は油問屋を捨てることを決意し、野望に満ちたその目は東に向けられた。豊沃の田地に恵まれ、京に近く、東西の交通の要地にある美濃国。この国を征したものは天下も征すると確信した庄九郎は、己の智謀をもって美濃一国を盗み取る「国盗り」に挑むことにする。 遠く鎌倉の世より美濃に封じられた土岐氏は、守護大名という地位の下で偸安の生活に耽り、惰弱柔媚の沼に沈んでいた。美濃の土を踏んだ庄九郎は旧知の伝を辿り、守護である土岐政頼の弟の頼芸に拝謁する。頼芸はあふれんばかりの多芸の才を持つ庄九郎を気に入り、臣下に加えていたく寵愛した。頼芸は数年前に兄との相続争いに敗れて以来、郊外の館で逼塞する身であったが、庄九郎は鮮やかな策謀で政頼を国外へと追い払い、頼芸を守護の座に就かせることに成功する。頼芸の信頼はいよいよ高まり、庄九郎は美濃国の実権を握るべく、謀略に謀略を重ねて政敵を排除し、自らの権力基盤を固めていった。うかつに手を出せば毒牙にかかりかねぬその謀才は美濃の侍達を震えあがらせ、庄九郎は「蝮」という蔑称とともに恐れられた。 かくして美濃の重臣の地位に就いた庄九郎であったが、美濃侍の多くは得体の知れぬ他所者が専横的に振る舞う様を苦々しく見ていた。やがて庄九郎が得意の謀略で旧政頼派の首魁を抹殺するや彼らの憤懣は爆発し、庄九郎は失脚に追い込まれる。庄九郎は再び出家することを宣言して京へ帰ることとなるが、ほどなくして尾張の大名・織田信秀が大軍を率いて美濃へ攻め込み、庄九郎はそれを機会に美濃へ戻り、巧みな采配を振るって織田軍を撃退する。庄九郎は「海内一の勇将」と讃えられ、期を同じくして起こった水害でも見事な復興指揮をとって絶大な支持を得た。もはや庄九郎を悪し様に罵る者はなくなり、庄九郎は頼芸の薦めで世継の絶えていた守護代・斎藤氏の名跡を継ぐ。すでに穏やかな領地経営で領民に慕われていた庄九郎は美濃を去る際に一時名乗った法名から「道三さま」と尊称されており、「斎藤道三」の名が世に響くこととなる。美濃の実権を手にした庄九郎は、美濃を己の思う国に作り変えるべく、政体の刷新にとりかかった。美濃社会に厳然として根を下ろす門閥主義を廃し、能さえあれば出自を問わず下層民をもさかんに取り立てた。さらに巨大寺社に握られていた物品の専売特権を打ち破り、経済の振興を奨励して自由な商業行為を認める「楽市楽座」を実現させようとした。庄九郎の政治思想はそのまま中世的秩序の破壊に繋がるものであり、この男の敵とは亡霊のように残存する中世秩序そのものといえた。庄九郎は自身を革命を望む天が遣わした申し子と豪語し、旧弊成力に大鉈を振るい果断に改革を進めていった。 国内の抵抗をあらかた鎮圧すると、庄九郎は半ば置き捨てられていた稲葉山城に大改築を加え、諸国に類のない巨大城郭に生まれ変わらせた。天嶮に恵まれ四方の国々を睥睨する城を手に入れた庄九郎は、永く待ち続けた気運がいよいよ到来したことを確信する。美濃の侍連は近隣の大名の軍拡ぶりを目の当たりにして強力な指導者を求めていた。領民達はもとより庄九郎の穏当な領地経営を歓迎している。翻って守護たる頼芸は酒色に惑溺するばかりで人望を失っており、もはや誰憚ることなく野望を成し遂げる時が来たと判断した庄九郎は、頼芸を美濃から追放して守護の座を奪いとった。ついに念願の「国盗り」を完成させた庄九郎は、戦国大名・斎藤道三として美濃国に君臨することとなる。 還俗して寺を出て二十年余、美濃の「国盗り」は成就させたものの、しかし天下を取るという野望はもはや幻でしかなかった。庄九郎、いや道三はすでに大きく齢を重ね、天下を窺うなどという時間はもはやその身には残されてはいなかった。かねてより「蝮」と畏怖されてきた男も、いまや老境に達する年を迎えようとしていた。
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斎藤道三編
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斎藤道三(松波庄九郎) 『道三編』の主人公。かつては「法蓮房」の法名で京の日蓮宗妙覚寺本山の僧をしていたが、国主となり末には天下を手に入れるという野望を抱いて還俗。美濃の守護職土岐氏に仕えて頭角を現し、類まれな謀才を存分に振るってのし上がり、ついには土岐氏を追い払って美濃一国を盗みとった。その卓抜した謀才は、うかつに手を出せば喰いついて離れぬという「蝮」の蔑称とともに畏怖され、美濃侍並びに諸国の大名を慄えあがらせた。 妙覚寺の僧時代には「智恵第一の法蓮房」と呼ばれ、「学は顕密の奥旨を極め、弁舌は富僂那にも劣らず」とまで讃えられた秀才。さらに舞もでき鼓も打て、笛を唇にあてれば名人の域と言われ、果ては刀槍弓術までこなしてそれらも神妙無比の域に達している。大名としての力は天下の諸侯の中でも抜きん出ており、政治・軍事を問わず辣腕を振るい、時代を大きく塗り替える革新的な政策を数多く施行した。さらに経済政策においては中世的な寺社勢力による専売制を破り、自由な物品の流通を認める「楽市楽座」の自由経済制を実施しようとした。これら道三の斬新な政策の多くは、後に娘婿である信長に受け継がれて完成されることとなる。 強烈な自信家で己の行動に疑念めいたものを片鱗も持たず、自身のなすことならばたとえどのような悪行であろうとも、その精神の中ですべてを正当化してしまう。元は僧でありながら神仏を小馬鹿にし、どころか在天の諸仏諸菩薩に我が身の悪事の加護を願うふてぶてしさを持っている。僧であった頃からの習慣で悪行をなす折には自我偈を唱え、一種の罪障消滅法として題目を念誦する癖がある。一方で、常人の十倍は欲望の強い男であるもののそのために愛憎も強く、家来には家族のように愛情を注ぎ、女人は惑溺するがごとく愛し、領民達もよく慰撫して善政を行い慕われた。当人は善か悪かなどといった範疇に自分を置いているつもりはなく、善悪を超越した一段上の「自然法爾」の次元に我が精神を住まわせていると考えている。 長年世継の義竜との間に確執を抱えていたが、長良川の戦いでついに戦に及ぶこととなり、寡兵を率いて自ら戦場に臨んで敗死した。出陣に先立って、自身の最後を悟った道三は美濃一国を譲るという遺書を信長に送り、自身の果たせなかった天下取りの夢を託した。 現在の研究では、油売りから美濃国主に成り上がった道三の出世物語は、道三一代のものではなく道三とその実父・松波庄五郎の父子二代に渡るものと考えられている。本作においては、土岐頼芸の守護職就任あたりまでが父である松波庄五郎の事跡に当たる(詳細は松波庄五郎の項目を参照)。 赤兵衛 本作の創作人物。道三の従僕。元は妙覚寺の寺男であり、小悪事ばかり繰り返す寺のもて余し者であったが、道三が還俗する際に従って共に寺を出た。以後道三の部下として手足のごとく忠実に働き、ひと度声をかければ何処からでもその悪相を運んでくる。道三が美濃で地位を築いて後は「西村備後守」の名を与えられ、家老格として仕えた。 長良川の戦いの直前、道三の幼少の二児を伴って美濃を落ち延び、道三と自らのかつての古巣である妙覚寺に送り届けた。その後は道三の遺言に従って二児を出家させ、自身も従者として頭を丸めて僧となった。 お万阿 京の東洞院二条にある畿内有数の油問屋「奈良屋」の女主人。入婿の亭主を早くに亡くして若後家となるが、持ち前の商才を生かして店を上手く維持してきた。奈良屋の身代を狙った道三は、盗賊に殺された荷頭の仇を討ったことを口実として奈良屋に現れ、巧みな自己演出で彼女の心を見事につかむ。その聡明さからほどなく道三の野心に気づくものの、かえってそのあくの強さに惹かれて身も世もなく恋い焦がれるようになり、ついに婿に迎えた。爾来道三は本職顔負けの商才を発揮して油屋の身代を拡大させるものの、天下取りの野望を捨てることができず、天下を手に入れた末に正室に迎えると説得し、お万阿を残して奈良屋を去る。以後の道三は折にふれて帰京する度にお万阿に律儀に接し、敵対勢力に誘拐された時などは危険を顧みずに自ら救出に向かった。寡婦同然の境遇に置き、自分の野望の犠牲にしてしまった彼女に憐憫の情を抱き続け、その生涯数多く置いた妻妾の中でもお万阿を最も愛した。 荏胡麻油から菜種油へと油事業の転換を機に店を畳み、その後は嵯峨の天竜寺近郊に庵を構えて「妙鴦」の法名で尼となる。道三の死を聞いて後はその霊を弔って日々を送り、晩年は見る者の心も洗い流すような清らかな老尼となった。 長井利隆 美濃の実力者。土岐頼芸の側近。美濃きっての大寺鷲林山常在寺の住職を務める弟の日護房がかつて妙覚寺で道三と学友同士であったことから道三を知り、道三の美濃での仕官の世話をした。道三が眼を見張るような策謀で頼芸を守護に就けることに成功するに及んでその才気に感服し、老齢で子もないことから道三を養子に迎え、長井氏の家督を譲り渡した。その心内で道三の野心を薄々感づいていたが、美濃国が戦国乱世の荒波を乗り越えて生き残るためには毒物かも知れぬが高い才覚を持つ道三に舵取りを任せるより他ないと考え、自身は剃髪して隠居した。 史実では利隆には長井長弘という息子がおり、道三の父である松波庄五郎に殺害された。庄五郎はその後に長井氏の家督を乗っ取り、「長井新左衛門尉」と名乗ることとなる。 土岐頼芸 美濃の守護大名・土岐政頼の弟。兄との相続争いに敗れた後、郊外の鷺山に館を与えられて逼塞し、以後毎日遊芸に明け暮れて生活していた。しかし長井利隆が連れてきた道三を知りその多種多芸な才に魅了され、閑暇を持て余してたことから無聊の慰め役として臣下に加える。道三が魔術的な策謀で自身を守護職に就けたことによって改めて道三に傾倒し、無二の能臣として大いに寵愛した。その日常は懶惰を極め、昼夜を問わず酒色に耽るばかりの生活を送っている。唯一の取り柄は画才で、その筆による鷹の絵は「土岐の鷹」と呼ばれて京の好事家の間で珍重されているが、画才がなければ何のためにこの世に存在してるかわからないような人物。怠惰で多情であるという頼芸の人物を見抜いた道三は、酒色に惑溺させて政務から遠ざけ、自身が美濃国の実権を握った。 抵抗勢力の大半を押さえていよいよ権力基盤を固めると、道三はそれまでの忠臣の仮面を俄に剥ぎ取って野心の牙をむき、頼芸を国外に追放して「国盗り」を完成させた。その後は尾張の織田信秀に保護され、美濃と尾張の休戦協定によってほんの一時美濃へ戻るものの、再び両国の関係が悪化するやすぐさま追い立てられて越前に落ち延び、朝倉氏の庇護を受けそこで生涯を終えた。 深芳野 頼芸の寵姫。この世のものとも思えぬ神々しいまでの美貌の持ち主で、その美しさは美濃中で知らぬ者のないほどのもの。初対面で我もなく見とれてしまった道三は頼芸からこの愛妾をも奪い取ることを決意し、ほどなく座興の賭け事の品として深芳野を得る。すでにその時深芳野は頼芸の子を宿しておりほどなく義竜を生むこととなるが、道三は義竜を頼芸の子であると感づきながらも自身の子として育て、頼芸を追い払った後に頼芸の胤である義竜を飾り雛のように守護に据え、自身が後見人として美濃の実権を握った。 頼芸が道三によって追放された後は道三の許可を得ることなく落飾し、川手の正法寺の尼僧となった。頼芸に対してさしたる愛情を持っていたわけではなかったが、自身を正室にせず妾の地位に留めた道三の仕打ちを密かに怨み続け、やがてその怨念は出生の秘密を知った義竜にのり移り、道三の身の破滅を招くこととなる。 織田信秀 尾張の戦国大名。信長の父。尾張の守護代である清州織田氏の傍系出身であったが、実力で領地を切り取って宗家を圧倒する勢威を得、尾張半国の支配者となった。稀有な軍略と謀才に恵まれ、尾張国内のみならず近隣の国にも兵を出して巧緻な戦術で勢力を拡大し、「尾張の虎」の異名をとった。美濃にも幾度も侵攻したが、常に道三の機略の前に敗退させられ敗北を被り続けた。しかしその戦術眼は尋常なものではなく、道三も侮れぬ相手として一目を置いていた。 合戦の果てについに和睦を図ることを決め、息子の信長と道三の娘の濃姫との縁談を申し入れるが、婚姻の成立後にほどなく卒中で斃れて急死する。信長の天才性を早くから見抜き、重臣達から廃嫡の声が上がりながらも後継者の地位に据え続けた。
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