斎藤道三の下克上
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天文8年(1539年)頃、長井長弘の家臣・長井規秀が頭角を現し、斎藤氏を名乗った(後の斎藤道三)。道三の父・松波庄五郎は畿内の出身であり、妙覚寺にて日運の兄弟子であったという。 道三は稲葉山城主となり、さらに守護土岐頼芸を追い、下克上によって美濃を押領したが、弘治2年(1556年)、嫡子義龍に殺された。義龍の早世後、子の龍興は永禄10年(1567年)、本拠地稲葉山城を織田信長に攻略され、美濃を追放されて越前の朝倉義景を頼った。龍興は天正10年(1573年)に義景が信長に滅ぼされた時に運命を共にして討死、戦国大名斎藤家は滅亡した。
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