店・企業
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町成立後、間もない大正6年(1917年10月)『陰陽八郡郡勢一班』によると、所得額千円以上の者はみられず、国税営業税二十円以上納入者として、請負業(武井久造)、料理業(錦魚亭、後に道笑町二丁目に編入)の名がみえ、他に会社として山陰果実株式会社、西伯米券倉庫株式会社(伯耆農業倉庫)が記されている。 大正7年(1918年)には、米子商事合資会社(仲立業、出資金三千円、古沢民次郎)、小泉履物製造工場(職工数十人)、同12年には山陰タクシー自動車商会、サン自動車商会、同14年には日本産業貯蓄銀行米子支店が次々と設立されている。 大正11年(1922年10月)『西伯之資力』によると、地価二百円以上納入者として、小泉清三郎(履物製造、九百九十六円八十八銭)、河原仁十(魚類問屋業、四百七十八円五十四銭)の二人がみえ、所得税納入者は十七人、国税営業税納入者として次の十七人の名が記されている。 田子吉三郎(四百七十四円) 加藤豊吉(百二十五円) 小泉清三郎(百二十一円) 河原仁十(七十円) 大生合名会社(六十七円) 岡房市(五十円) 福島啓太郎(三十円) 山崎久作(二十円) 常田孝治(十九円) 赤井熊太郎(十八円) 藤丸スマ(十五円) 北村正一(十五円) 坂本えい(十一円) 大村勝次郎(十二円) 山本隆一(九円) 出島鉄郎(八円) 原田栄太郎(八円) 一方、大正12年(1923年5月)『地方案内-三町国税商工名鑑』によると、次の21人が挙げられている。 出島鉄郎(薬種) 堀井精(売薬) 大島熊太郎(菓子) 安食市三郎(呉服) 赤井熊太郎(材木器具) 坂本えい(古着履物) 北村正一(金物) 原田栄太郎(自転車鍍金) 岡房市(建築請負) 河原仁十(生魚・魚類問屋業) 加藤豊吉(煉瓦・土管・セメント) 加藤権四郎(席貸業) 大村勝次郎(果物・卵) 田子吉三郎(米穀) 柳谷よし(飲食物) 山崎久作(味噌・酒・醤油) 山本隆一(薪炭) 吹野フユ(酒・飲食物) 藤丸スマ(酒・煙草) 福島啓太郎(鉄地) 後藤秀三郎(米穀) 昭和3年(1928年)、西伯郡資力調査会編『西伯詳覧』には、前年度における営業収益税納入者と税額を記している。 加藤豊吉(百五十八円四十銭) 入瀬善太郎(三十三円六十銭) 永見ヨシ(三十二円二十銭) 原田芳雄(二十八円五十六銭) 吹野正次(二十六円六十銭) 川上久三郎(二十三円八十銭) 北村正一(十九円六十銭) 山崎久作(十九円) 森川やす(十八円二十銭) 奥田浅一(十七円三十六銭) 赤井熊太郎(十六円八十銭) 周藤幸太郎(十五円八十二銭) 木村清太郎(十五円六十八銭) 堀井精(十四円) 米田はる(十四円) 中島悟棲(十一円六十二銭) 大村フス(十一円四十八銭) 大島熊太郎(十一円二十銭) 山本実次(十一円二十銭) 世良田鉄郎(十一円二十銭) 昭和9年(1934年)3月『米子商工案内-よなご―』(米子商工会議所編)によって、戦前の商工業の具体的状況をみる 株式会社米子運送店(運送・倉庫業、資本金三万円、代表・青戸兵次郎) 上田合名会社(果実・青物販売問屋、出資金五千円、上田得茂) 合資会社後藤屋米穀店(米穀販売業、出資金五千円、後藤秀三郎) 合資会社田子吉三郎商店(米穀販売業、出資金六百円、田子吉三郎) 合資会社田中組(土木請負並貸家業、出資金三万五千円)
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店・企業
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明治30年代(1897年~1906年)の当町の営業者状況をみると(『帝國實業名鑑』、『米子みやげ』、『伯耆国実業人名録』)、 坂口合名(清酒醤油醸造、酒銘柄正宗・曙・沢の月、醤油銘柄日の出・青柳・朝顔、支店松江、鳥取、境、国内北海道まで海外台湾まで販路) 坂口平兵衛(金穀貸付) 野坂寛治著『米子界隈』205-206頁によると、「米子の事業といえば、坂口家の事業と直結する程に先代平兵衛翁は事業家であった。銀行・電気・漁業・製氷…一つとしてその主動力でないものはない。特に家業の製糸業は日本で有数であり、醤油醸造も地方王者の一人である。従って先代平兵衛翁の事業熱と精進のキビシさ、われら若輩は後塵を拝するだになかなか遠い。風容は、現平兵衛氏を二三まわり大きくすると、そのまゝ故翁の像が出来上る堂々さであった。」という。 松本五兵衛「安来屋」(薬種・絵具) 野坂寛治著『米子界隈』214頁によると、「薬店松本五兵衛氏は、渡村から出た通人であった。」という。 桶谷庄蔵「野沢屋」(乾物卸・海産干物類) 今井兼文「郁文堂」(書籍印刷) 野坂寛治著『米子界隈』215頁によると、「文明開化は書籍から―。今井書店がいよいよ堅実に営業して、いよいよ隆昌である。店舗の上側は以前活版所があった所、それが店の裏側に退き、更に今の所に後退し、退く度に発展した。三代前の今井兼文翁は岡山県の人、米子に落付いて商売と学問とを併せ進展された。村上斎伯父が始めては止めた書籍・活版を引継いでキッキョ経営されたから、一方は裏へ、一方は表で共に隆昌を伝えて三代である。現兼文翁、又父祖をはずかしめず、松江に鳥取に支店を開いて堅陣を布く。然して、女店員を採用したのは、山陰道において先駆である。」という。 出雲屋商会支店(広瀬絣製造販売) 林金三郎「速成舎」(活版業) 大谷ツネ子(旅館) 金山利太郎「吾妻堂」(米子名物戎おこし、その他菓子製造、盆栽各種) 勝田伝六(足袋製造卸小売) 神庭常吉「角(かど)神庭」(和洋紙・学校用品・化粧品・絵具・染料) 吉岡鉄太郎「吉岡楼」(会席料理) 村上常三(山陰貯蓄銀行代理店・度量衡器) 三由徳次郎(呉服洋反物・小間物・市松人形) 平田カツ(酒類米穀販売・生糸製造) 砂垣徳太郎「興文堂」(松陽新報取次販売・和洋帳簿類製造) 石田政太郎(麹もやし製造・米穀・荒物) 家村麻次郎(書籍・古物販売・貸本) 別所常次郎(履物足袋卸小売) 藘川政吉「藘川堂」(書画骨董) 大谷栄八(養蚕用諸機械・綿卸) 神庭スエ(漆器・陶器・嫁入道具) 古島治郎八(塗物・漆金銀箔細工・嫁入道具)などである。 明治終わり頃に新小路筋が整備されたが、明治の初め頃にかけて、前記営業者のほか 竹内吉造(繭生糸商) 大阪法橋米子支店(倉庫・柳行李・保母車・小麦粉など) 名嶋幸太郎(牛乳販売並に米子駅・後藤駅構内人力車取締) 永瀬久之助(蝋燭・油類) 井沢国華堂(菓子製造・カステラ・巣籠・露の玉) 瀧和斎(指物専門) 大谷印刷所(もとは旅館)が開業した。 大正12年(1923年)刊の『地方案内』によると、 石谷義輝(古物) 波多野嘉助(酒類販売) 原田正吉(米穀類) 富田まん(菓子) 大谷由雄(魚類・荒物) 渡部清太郎(仏具) 勝部若太郎(呉服・古着) 神庭芳太郎(砂糖・紙・化粧品) 吉川由次郎(乾物・海産物) 仲田捨隆(呉服・太物) 中村節三(洋服) 三井豆腐店などが加わる。 昭和期に入ると営業を合名、合資会社組織にする商店が現れたり、営業品目を変えた店、新開業の店もみられる。昭和9年(1934年)刊の米子商工案内によって、それらの事情をみると、今井郁文堂は度量衡・理化学機械も取り扱い、大谷印刷所はオフセット印刷で営業を伸ばし、野沢屋は鑵詰・洋酒類・饂飩「玉すだれ」製造を加えた。 安来屋は薬種・絵具よりも近代的な建設資材店に営業を変えセメント・タイル・煉瓦・煙突・風呂釜・左官材料店となった。 新開業の店では、 中西薫太郎「三喜堂」(印刷) 大森源蔵(醤油) 田中広美(製菓) 箔栄次郎「池上事」(菓子、饅頭) 川西猶蔵(製菓のほか酒醤油販売) 鷲見二郎(茶) 渡辺信子「松田屋」 (呉服) 渡部好一(洋服仕立) 三村音蔵(生糸製糸) 西村甚吉(トランク・柳行李) 青木刺繍店(小間物・化粧品) 小泉増蔵(履物製造) 中島徳正「正確堂」 (時計・眼鏡・貴金属) 藤岡良三郎(和洋家具・建具製造) 曽我部亀次(漆器・和洋家具・婚礼用品) 松田ミツ(荒物・乾物) 衣笠徳太郎(仁済園・造花・葬祭業) 三保熊太郎(電気器具・ラジオ・煙草) 吉岡重恭「十金堂」 (薬・化粧品) 神庭三郎(和洋紙) 宮廻亀六「宮亀事」 (仕立料理) 林原とめ「つるや」 (料理) 福井勇「正的亭」 (料理) 野坂直一「梅月」 (料理)などである。 新小路筋での製造業や料理業などの出店が目立っている。会社組織のものは営業税不明であるが、個人名義のものでは、永瀬商店百七十五円余、別所商店百二十円余、神庭常吉商店八十七円、安来屋五十三円、波多野商店、勝田商店三十七円余、渡部仏具店二十八円余、中島正確堂二十二円などである。 昭和61年(1986年)の国勢調査による事業所は建設業三、製造業二、卸小売飲食六十八、サービス業十八となっている。
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店・企業
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明治35年(1902年)に、山陰鉄道の米子駅が設置され、駅から米子港への道路が明治43年(1910年)に拡張整備されると、列車乗降客、鉄道貨物、鉄道関係土木建築などに関わる業者が、次第に駅前地区に営業所を持つようになった。 大正12年(1923年)刊の『地方案内』よると、駅前には、旅館では柏木、大阪屋、岡田屋など。運送関係では石田運送、米子海陸運送、米子運送、加藤運送、米子運融陸送部などがあり、その他、料理、土産品、人力車、自動車などの営業がみられる。 昭和に入ると、土木請負の狩野組、運送では前記のほか、米子合同運送、長野組、共立組も営業。自動車関係では、井沢自動車、新見タクシー、平和タクシー、米吾自動車部、高田自動車、武田自動車、丸二自動車、松田自動車などが営業し、大正末から市内電車も営業して、人力車業はだんだん圧迫された。 駅前西地区に大正中期進出した山十製糸は、広い敷地をもつ大製糸の工場であったが、製糸不況から昭和中期には撤退し、その跡に戦時中米子製鋼所が移った。 建設関係では、大正時代からの加藤豊吉商店(浅野セメント特約店、煉瓦・土管・セメントなど取扱)、北村鉄工(機械・建具・金物、鉄道工事下請)が営業。その他、長尾製材、児玉家具店、原酒店、吹野製氷店がある。 旅館では、前記のほか川上、永見、真田の各旅館。 食堂関係では、更科本店、花月食堂、カフェータカラ、文化食堂、米吾食堂。その他後中善雄(「尾張屋」鉄道用品洋雑貨)、若島商店(錦海佃煮)などの雑貨、食料品、土産品店も出店した。昭和3年(1928年)伯備線の開通もあって、駅前地区への商工業者の進出も増加した。
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店・企業
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1丁目 会津屋 松島 - 松島家は明治から昭和期にかけて包装用品の問屋「会津屋」を営んだ。 大竹肉店 菊池味噌店 白河信用金庫 東支店 ほっともっと白河旭町店(弁当屋) マイスター 鷲尾燃料店 2丁目 あい調剤薬局旭店 奥州白河 太鼓のぼお(ラーメン) ケイビ 白河支店 ふとんハウス若松屋 矢萩食品(ところてん・こんにゃく製造、卸)
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