幾何から解析へ —14世紀から20世紀前半
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「円周率の歴史」の記事における「幾何から解析へ —14世紀から20世紀前半」の解説
「円に内接・外接する多角形に基づく近似」から「級数を利用した近似」への移行は、インドでは1400年頃から1500年代に起き、ヨーロッパでは1600年代、日本では1700年代に起きた。 14世紀 1400年頃 インド南西部(現在のケーララ州)では、14世紀以降、天文学・数学が花開き、当時の世界最先端の研究が行われた。ケーララ学派と総称される学者たちは、三角関数・逆三角関数 (sin, cos, arctan) のマクローリン展開を天文計算に利用した。これらの級数はニーラカンタ(英語版)(Nīlakaṇṭha, 1445頃–1545頃)の時代には知られており、ニーラカンタの発見とされることがある。しかし、ニーラカンタの天文学書『アールヤバティーヤ・バーシャ』によると、sin の展開式は彼より前の時代の学者の業績であるという。その学者とは、サンガマグラーマ(現:イリンジャラクダ)のマーダヴァ(Mādhava, 1340頃–1415頃、マラヤーラム語名:マーダバン)である。以下の式も、マーダヴァの発見とされることが多い: θ = tan θ − tan 3 θ 3 + tan 5 θ 5 − tan 7 θ 7 + ⋯ {\displaystyle \theta =\tan \theta -{\frac {\tan ^{3}\theta }{3}}+{\frac {\tan ^{5}\theta }{5}}-{\frac {\tan ^{7}\theta }{7}}+\cdots } これは次と同等である: arctan x = x − x 3 3 + x 5 5 − x 7 7 + ⋯ {\displaystyle \arctan x=x-{\frac {x^{3}}{3}}+{\frac {x^{5}}{5}}-{\frac {x^{7}}{7}}+\cdots } この級数は、ヨーロッパでは1670年代にジェームズ・グレゴリーとゴットフリート・ライプニッツにより再発見され、一般的にはグレゴリー級数、ライプニッツ級数などと呼ばれる。 [値] (10 ?) 一説に、マーダヴァは上式で θ = π/6 として得られる π = 12 ( 1 − 1 3 ⋅ 3 1 + 1 5 ⋅ 3 2 − 1 7 ⋅ 3 3 + ⋯ ) {\displaystyle \pi ={\sqrt {12}}\left(1-{\frac {1}{3\cdot 3^{1}}}+{\frac {1}{5\cdot 3^{2}}}-{\frac {1}{7\cdot 3^{3}}}+\cdots \right)} の21項を計算し、π ≈ 3.14159 26535 9 を得た。これは小数点以下10桁目まで正しい(12桁目を四捨五入した11桁の近似値としては全11桁が正しいが、11桁目「8」は未確定)。別の資料によると、彼の近似値は 2,827,433,388,233/900,000,000,000 で、3.14159 26535 92222… に当たる。マーダヴァが円周率10桁を得たとすると、祖沖之の7桁以来、約1000年ぶりの世界記録更新である。上記の級数を30項目まで使えば円周率の15桁が決定でき、42項目まで使えば20桁が決定できる。この他にもケーララ学派は円周率の評価に利用できるいくつもの結果を得ていて、その気になれば比較的簡単に円周率の桁数を伸ばせる立場にあった。実際、R. Gupta は、マーダヴァが約17桁まで計算したと予想している。しかし、記録は見つかっておらず、現時点では想像の域を出ない。 [法] ケーララ学派による円周率の近似は級数に基づくもので、剰余項も考察している。他地域ではこの200年後(ニーラカンタから数えても100年後)にまだ正多角形の外周に基づく計算をしていることを考えると、極めて先進的だった。円周率の計算法として新しいというだけでなく、無限や極限を扱う新しい数学への大きな一歩だった。 15世紀 1424年 [値] (16) ペルシャの天文学者・数学者ジャムシード・カーシャーニー(アラビア語名: アル=カーシー)は、当時使われていた円周率の近似値の不正確さに不満を抱き、天文計算に必要十分な精度で円周と半径の比を決定したいと考えた。1424年の『円周論』において、彼はアルキメデスの方法を拡張して正805,306,368 (= 3 × 228) 角形を用いる計算を行い、60進数による次の評価を得た:6; 16,59,28,1,34,51,46,14,49,46 < 2π < 6; 16,59,28,1,34,51,46,14,50,15 ここで、6; 16,59,… は 6 + 16/60 + 59/602 + … を表す(彼は後に計算を再検討して、下界の末尾の桁を 46 から 45 に改めたという)。現代的な表記に直せば:3.14159 26535 89793 23084… < π < 3.14159 26535 89793 25482… 彼は近似値 2π = 6; 16,59,28,1,34,51,46,14,50 を採用し、10進表示 π = 3.14159 26535 89793 25 も与えた。これは小数点以下16桁目まで正しく、末尾の17桁目も真の値に近い。記録に残る当時最良の円周率の近似値であり、この世界記録は1596年にルドルフ・ファン・コーレンが小数点以下20桁を示すまで172年間、破られなかった。この業績は、西洋では1920年代まで知られていなかった。 1500年頃 [学] ケーララの天文学者ニーラカンタが、円周率の無理性を指摘した。彼の著書『アールヤバティーヤ・バーシャ』には、こうある:「直径が何らかの長さの単位で計測されて、その単位の比として表されるなら、その同じ単位によって円周を同様に計測することはできない。よってまた同様に、円周が何らかの単位で計測可能であるのなら、直径はその同じ単位によっては計測できない。」 ケーララ学派は円周率の級数表示を知っていたため、この認識は自然に生じたのだろう。 [値] (9) ニーラカンタの『タントラ・サングラハ』には、エレガントな分数表示 π ≈ 104348/33215 が含まれる。これは 22/7, 355/113 と同様の最良近似分数(より小さい分子・分母でこれより誤差の少ない近似値は作れない)で、小数点以下9桁目まで正しい。 16世紀 1503年 アルキメデスの『円の計測について』と『放物線の面積について』のラテン語訳が、ベネチアで出版された。 1543年 ニコロ・フォンタナ・タルタリア (Tartaglia) が、アルキメデスの一部の著作のラテン語訳をベネチアで再出版した。 1544年 アルキメデスの著作の原文が、初めてまとめて出版された。出版地はバーゼルで、ラテン語訳付きだった。これによりヨーロッパでは彼の業績が広く知られるようになり、円周率の研究もこれを出発点として本格的に再開された。この時点での西洋の円周率研究は紀元前のアルキメデスの時代からあまり進歩していなかったが、これ以降は急速に発展する。 1579年 [値] (9) フランソワ・ビエタが、円に内接・外接する正393,216角形の周の長さから 3.14159 26535 < π < 3.14159 26537 という評価をした。ビエタはさらに、無限乗積 x 1 = 1 2 , x n + 1 = 1 + x n 2 {\displaystyle x_{1}={\sqrt {\frac {1}{2}}},\ x_{n+1}={\sqrt {\frac {1+x_{n}}{2}}}} 2 π = ∏ n = 1 ∞ x n {\displaystyle {\frac {2}{\pi }}=\prod _{n=1}^{\infty }x_{n}} を示し π の計算を試みた。 1585年 [値] オランダのアドリアン・アンソニス(英語版)が 333/106 < π < 377/120 と評価し、両端の平均に近い値として 355/113 を得た。これは、約3.14159 292 である。 1593年 [値] (15) フランドルのアドリアーン・ファン・ローメン(英語版)(ラテン語名:ローマヌス)が、『数学的観念序説:多角形法』の中で 3.14159 26535 89793 05 < π < 3.14159 26535 89793 15 に当たる評価を与え、π ≈ 3.14159 26535 89793 1 とした。これは小数点以下15桁目まで正しい。アル=カーシーの世界記録16桁 (1424) にはわずかに及ばなかったが、この時点でヨーロッパ最良の近似値であり、ビエトの結果 (1579) の改良となっている。ただし、円周率の真の値は上記の区間に含まれておらず、厳密な評価ではない。計算は正 15 × 224(= 約2.5億)角形を用いるものだった。彼は21歳年上のファン・コーレンと親交があり、円周率に興味を持ち始めたのは彼の影響らしい。 1596年 [値] (20) ルドルフ・ファン・コーレン(ドイツ語読み:ファン・コイレン)が、『円について』で円周率の小数点以下20桁を決定した。ファン・コーレンはまず、正 5 × 2{25(= 約2億)角形、正 4 × 228(= 約10億)角形、正 3 × 231(= 約60億)角形を用いて、円周率をそれぞれ12桁、16桁、18桁まで求めた。さらに、正 15 × 231 (= 32,212,254,720) 角形に基づき次の評価を与えた:3.14159 26535 89793 23845 < π < 3.14159 26535 89793 23847 上界・下界の平均を取って π ≈ 3.14159 26535 89793 23846 とすれば、結果的に全20桁が正しい。しかし、ファン・コーレンの態度は厳格で、上記の結果は19桁のみ有効であると正しく指摘した。最後に彼は π の20桁を示した:3.14159 26535 89793 23846 < π < 3.14159 26535 89793 23847 この計算は、辺の数をさらに2倍にした正 15 × 232 (= 64,424,509,440) 角形に基づく。ファン・ローメンの15桁の計算 (1593) の改良であり、アル=カーシーの16桁の記録 (1424) を上回る新しい世界記録の達成だった。 ファン・コーレンはヒルデスハイムで生まれ、ホラント(現:オランダ西部)に移住した。フェンシングと数学の教師だった。高等教育は受けていなかったが、円積問題や円周率を巡る数学上の論争に巻き込まれ、1590年(50歳)頃から円周率に興味を持ち始めたらしい。 17世紀 1610年頃 [値] (35) ファン・コーレンは、1610年に亡くなるまでのいずれかの時点で、正 262(= 約461京1686兆)角形を使って π の35桁目までを正しく評価した。この結果は、1621年、弟子のスネリウスの著書『キュクロメトリクス:円の計測について』で公表されたほか、本人の墓(生前の1602年に購入した記録がある)に刻まれた。墓石は後代に滅失したが、碑文とスケッチは残っており、2000年に復元された。かつてドイツでは、彼の名に因んで円周率をルドルフ数 (Ludolphsche Zahl) と呼んだ。 1621年 [法][値] オランダのヴィレブロルト・スネル(ラテン語名: スネリウス)が、円周の長さの評価式を与える。 3 sin θ 2 + cos θ < θ < 2 sin θ + tan θ 3 {\displaystyle {\frac {3\sin \theta }{2+\cos \theta }}<\theta <{\frac {2\sin \theta +\tan \theta }{3}}} この式と円に内接・外接する正 6 角形から 3.14022 < π < 3.14160 と評価した。この式の証明はクリスティアーン・ホイヘンスによって与えられ、さらにホイヘンスによって改良された結果、正六角形を用いただけで 3.14159 26533 < π < 3.14159 26538 と評価できるまでになった。 スネリウスはファン・コーレンの弟子だった。彼の方法なら、ファン・コーレンが正 262 角形を使って得た35桁は、230 角形を考えるだけで得られるという。その気になれば、計算記録を更新できる立場だった。しかし、彼は別の分野で活躍しており、すでに35桁あった円周率の有効数字をさらに伸ばすために時間を割くことはしなかった。 1630年 [値] (38) オーストリア出身の天文学者・数学者クリストフ・グリーンベルガー(英語版)は、スネリウスの手法を用いて円周率の小数点以下39桁目までを計算し、1630年に出版された自著『三角法の基礎』の中で公表した。39桁目は 7 だが、彼はそれを 6 と 9 の間だと正しく評価した。桁数という意味では38桁目まで確定させたことになる。 1655年 [法] イギリスのジョン・ウォリスは無限乗積 π 2 = ∏ n = 1 ∞ ( 2 n ) 2 ( 2 n − 1 ) ( 2 n + 1 ) {\displaystyle {\frac {\pi }{2}}=\prod _{n=1}^{\infty }{\frac {(2n)^{2}}{(2n-1)(2n+1)}}} を示した。ビエタの公式のように根号が無いため計算はしやすいが、収束はとても遅い。 同じくイギリスのブラウンカーが、連分数を用いた公式 4 π = 1 + 1 2 2 + 3 2 2 + ⋯ ⋯ + ( 2 n − 1 ) 2 2 + ⋯ {\displaystyle {\frac {4}{\pi }}=1+{\cfrac {1^{2}}{2+{\cfrac {3^{2}}{2+{\cfrac {\cdots }{\cdots +{\cfrac {\left(2n-1\right)^{2}}{2+\cdots }}}}}}}}} を示した。この公式により π が無理数であることが分かる。 1663年 [値] 村松茂清が『算俎』を著し、円に内接する正 2n 角形 (2 ≤ n ≤ 15) の辺の長さから π ≒ 3.1415 92648 77769 88692 48 とし、小数点以下7桁まで正しい値を求めた。ファン・コーレンなどの計算には遠く及ばないものの、近似値として単に 3.16 という値を示すのみであった『塵劫記』や、中国などを通じて入ってくる算書に頼り切ってきたそれ以前の和算から一歩を踏み出し、日本で初めて数学的な方法で円周率を計算し発表した和算家が村松である。和算において、円周率をはじめとする円に関する研究は「円理」と呼ばれ、一定の発展を見せたが、例えば外接多角形との「はさみうち」によって何桁目まで正しいかを論証する、といったような基本的な数学的発展さえわずかであったのが「和算の限界」であった(円周率#和算における円周率の取り扱い)。 1665年 [学] イギリスの政治哲学者のトマス・ホッブズが円積問題の解を公表し、ウォリスとの間で論争になる。ホッブズは死ぬまで厳密解と近似解の違いを理解できずに論争を続けた。 1671年 [法] スコットランドのジェームス・グレゴリーにより、グレゴリー級数 arctan x = ∑ n = 0 ∞ ( − 1 ) n 2 n + 1 x 2 n + 1 = x − 1 3 x 3 + 1 5 x 5 − 1 7 x 7 + 1 9 x 9 − ⋯ {\displaystyle \arctan x=\sum _{n=0}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}}{2n+1}}x^{2n+1}=x-{\frac {1}{3}}x^{3}+{\frac {1}{5}}x^{5}-{\frac {1}{7}}x^{7}+{\frac {1}{9}}x^{9}-\cdots } が発見される。これとは独立に1674年にゴットフリート・ライプニッツも同じ発見をしており、グレゴリー・ライプニッツ級数とも呼ばれる。ライプニッツは x = 1 を代入し、マーダヴァと同じ級数を得た。 1681年 [値] 暦の作成にあたって円周率の近似値が必要になったため、関孝和が正 131,072 角形を使って小数第 16 位まで算出した。関が最終的に採用した近似値は「3.14159 26535 9微弱」というものだったが、エイトケン補外を用いた途中計算では小数第 16 位まで正確に求めている。西洋でエイトケン補外が再発見されたのは1876年、ハンス・フォン・ネーゲルスバッハ(Hans von Nägelsbach)によってである。 1699年 [値] (72) イギリス人のエイブラハム・シャープがグレゴリー・ライプニッツ級数に x = 1 3 {\displaystyle x={\frac {1}{\sqrt {3}}}} を入れ、π を小数第 72 位まで求めた。 18世紀 1706年 [法][値] (100) イギリスのジョン・マチンがマチンの公式 π 4 = 4 arctan 1 5 − arctan 1 239 {\displaystyle {\frac {\pi }{4}}=4\arctan {\frac {1}{5}}-\arctan {\frac {1}{239}}} を発見する。さらに、この関係式にグレゴリー・ライプニッツ級数を用いて小数第 100 位までの円周率を求めた。 [文] ウィリアム・ジョーンズが初めて π を円周率の意味で用いた。1748年にレオンハルト・オイラーも同じ記法を用いたことで円周率を π と表記することが広まった。 1719年 [値] (127) フランスのトーマス・ラグニーが、シャープの方法で小数第 127 位まで計算を行う。 1722年 [値] 建部賢弘が『綴術算経』(てつじゅつさんけい)を著し、正 1024 角形を用いて小数第 42 位まで求めた。「累遍増約術」(リチャードソン補外)を適用し、関孝和の計算に比べて遥かに少ない計算で精度を大いに改善している。なお、ルイス・フライ・リチャードソンによる同手法の提案は1910年頃である。 1761年 [学] ドイツのヨハン・ハインリッヒ・ランベルトによって π が有理数でないことが証明される。 18世紀中頃 [法] レオンハルト・オイラーによって、多くの π に関する式が発見される。オイラーは π 4 = 5 arctan 1 7 + 2 arctan 3 79 {\displaystyle {\frac {\pi }{4}}=5\arctan {\frac {1}{7}}+2\arctan {\frac {3}{79}}} を用いて、 たった1時間で円周率を小数第 20 位まで計算した。 1775年 [学] フランスの科学アカデミーが、ギリシアの三大作図問題と永久機関についての論文審査を拒否する決議をした。 1789年 [値] (137) スロベニアの数学者ユーリイ・ヴェガ(英語版)は、マチンの公式を用いて小数第 140 位まで値を求め、小数第 137 位までが正しかった。この記録はその後50年破られることがなかった。 1794年 [学] アドリアン=マリ・ルジャンドルによって π は有理数の平方根にならないことが証明される。 19世紀 1850年頃 - 1873年 [値] (527) イギリスのウィリアム・ラザフォードとその弟子のウィリアム・シャンクスがマチンの公式を用いて桁数の記録を塗り替えた。1852年にラザフォードが小数第 441 位、シャンクスが小数第 530 位まで計算し、小数第 441 位までは両者の計算が一致していることでその計算の正しさを確認できた。しかし、arctan 1/5 が小数第 530 位までしか正しくなく、シャンクスの計算で正しかったのは、小数第 527 位までであった。その後、シャンクスは1872年に小数第 707 位まで達したが、この誤りが最後までつきまとった。 1882年 [学] フェルディナント・フォン・リンデマンによって π が代数的数でないことが証明される。これにより π の超越性が証明され、円積問題も否定的に解決された。 1896年 [法] カール・ストーマー(英語版)は公式 π 4 = 6 arctan 1 8 + 2 arctan 1 57 + arctan 1 239 {\displaystyle {\frac {\pi }{4}}=6\arctan {\frac {1}{8}}+2\arctan {\frac {1}{57}}+\arctan {\frac {1}{239}}} を発見する。 1897年 詳細は「インディアナ州円周率法案」を参照 [文][値] アメリカ合衆国のインディアナ州の下院で、医者のエドウィン・グッドウィンによる円積問題解決方法を盛り込んだ議案246号が満場一致で通過した。グッドウィンの方法から得られる値は π = 3.1604, 3.2, 3.232, 4 であり、このうち 4 については、公式に認められた最も不正確な円周率の値としてギネスブックに記載された。この法案は各審議会を通過していき上院に承認を求める段階にまで達した。しかし世論の批判に遭い、2月12日に上院によって議論の無期限延期が決められ、法案成立目前で却下された。 20世紀 1910年 [法] ラマヌジャンによって、級数表示 1 π = 2 2 9801 ∑ k = 0 ∞ ( 4 k ) ! ( 1103 + 26390 k ) k ! 4 396 4 k {\displaystyle {\frac {1}{\pi }}={\frac {2{\sqrt {2}}}{9801}}\sum _{k=0}^{\infty }{\frac {(4k)!(1103+26390k)}{k!^{4}396^{4k}}}} が発見される。この公式は、ジョナサン & ピーター・ボールウェイン兄弟によって1987年に厳密に証明されるが、1985年にウィリアム・ゴスパーがこの公式を用いて円周率を計算し、その正確さを示している。 1945年 [値] (540) ファーガソン (D.F.Ferguson) が小数第 540 位までを計算し、ウィリアム・シャンクスの誤りを指摘する。シャンクスの計算は約70年間も信用されていた。 このファーガソンの計算までが手計算によるものだった。手計算の時代は誤りが起こることも多かったが、この時代の数学の成果は、現代の計算機による円周率の計算においても非常に重要な役割を果たしている。
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