イタリア統一運動 1848-49年革命と第1次イタリア独立戦争

イタリア統一運動

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1848-49年革命と第1次イタリア独立戦争

1848年にはフランスで2月革命が起き、国王ルイ・フィリップがパリから逃亡して共和国が成立した。革命の動きはドイツ、オーストリアそしてイタリアにも波及し、ウィーン体制を終焉させることになる(1848年革命)。

ウィーン体制以降、ロンバルディア地方とヴェネト地方はオーストリアが支配するロンバルド=ヴェネト王国となった。オーストリアはナポレオン統治時代の諸改革を継承し、イタリアの他の地域と比べてはるかに近代的な諸制度が整えられていたが、それでも外国支配に対する反感は根強かった[95]。また、ルネサンス期には栄華を誇ったヴェネツィアはこの時代には衰退しており、人口は減少して貧困者が3分の1を占め、その上にオーストリアが貿易港としてトリエステを重視したためにかつて活発だった造船業も寂れ果てていた[96]。1840年代にはヴェネツィアはやや立て直し、観光客が訪れ、鉄道も通るようになった[97]

1848年1月1日にロンバルディアの市民がオーストリア政府の税収源となっていた煙草の購入を止める不服従運動の形態での騒乱が起きた(煙草一揆)[98]。これから暫くしてシチリア島とナポリでも反乱が発生し、フェルナンド2世は1821年の時と同様の妥協をして両シチリア王国に憲法を発布し、政治犯を釈放した[99]。シチリアは分離独立を要求し、独自の憲法を制定して議会を設置した[100]

バリケードを組み戦いに備えるミラノ市民。
Felice Donghi画。1848年。

両シチリアの動きはイタリア諸国に波及し、2月にはトスカーナ大公国でも暴動が起き、これは比較的非暴力なものであったがトスカーナ大公レオポルド2世は憲法を発布させられた。これまで、反動的な政策を固持して来たサルデーニャ王国も3月4日に憲法を制定し[101]、3月15日には教皇ピウス9世が教皇国家の憲法を発布した[102]。これらはいずれも君主によって発布された欽定憲法であり、「憲章」と呼ばれ、主なモデルとなったのはフランスの1830年憲法であり、1814年憲法やベルギーの1831年憲法も参考にされている[103]

一方、オーストリア統治下のロンバルディアでの緊張も高まり、3月13日にオーストリア三月革命ドイツ語版英語版が起こり[104]、宰相メッテルニヒが罷免されたとの報が伝わると3月18日にミラノとヴェネツィアでも民衆蜂起が起こった[105]。ミラノでは3月18日から22日まで激しい市街戦が行われ、反乱勢力はヨーゼフ・ラデツキー将軍率いるオーストリア軍を退却させ、臨時政府を組織した(ミラノの5日間:Cinque giornate di Milano[106]。ヴェネツィアではダニエーレ・マニンの元でヴェネツィア共和国の再興が宣言される(ヴェネト共和国:Repubblica Veneta[107]

ミラノにはサルデーニャ軍の先遣隊が入城し、臨時政府と協定を結んだ。一方、マッツィーニをはじめとする民主派もミラノに集結する。穏健派はサルデーニャ王国の介入を要請し、これに対してカルロ・カッターネオジュゼッペ・フェッラーリ英語版ら共和国の樹立を望む民主派はフランスの介入を画策してマッツィーニの協力を求めるが、彼はこれを拒絶し民主派は早々に分裂してしまう[108]

サルデーニャ王カルロ・アルベルトは国内世論の高まりと、ロンバルディア獲得の思惑から、オーストリアに対して宣戦布告した[109]。サルデーニャ王国の参戦は大きな反響を呼び、教皇国家から義勇軍が派遣され[nb 4]、ナポリ政府とトスカーナ大公国も参戦を決めた[110]。だが、オーストリアとの全面衝突を懸念した教皇ピウス9世は4月29日にカトリックと民族主義は相容れないと表明して戦争から離脱する[110]。教皇の宣言は大きな失望を呼び、教皇の革命参加を期待するネオグェルフ主義を終わらせることになった[90]。ナポリ政府もシチリアの反乱鎮圧のために撤兵し、フェルナンド2世は再び反動政策に転じる[111]

サルデーニャ軍はゴーイトペスキエーラでの戦いに勝利したものの、7月24日のクストーツァの戦い英語版でラデツキー将軍に大敗を喫する。ラデツキー将軍はミラノを奪回し、8月9日に停戦協定が結ばれた[112]

ラデツキー将軍がロンバルディアの支配を固め、カルロ・アルベルトが敗戦の傷を癒していた頃、イタリアの他の地域では事態がより一層深刻化していた。10月、トスカーナ大公国では民主主義者が政権を掌握した[113]。10月末には反動勢力のヴィンディシュ=グレーツ軍によるウィーン蜂起ドイツ語版英語版が起こる。11月には教皇国家首相ペレグリーノ・ロッシ英語版が暗殺され、教皇ピウス9世がガエータに逃亡する事態になった[113]

ローマ共和国建国宣言。
ロセッティ印刷。1861年。

1849年初めに教皇国家内で制憲議会のための選挙が行われ、2月9日にローマ共和国Repubblica Romana)の成立が宣言された[114]。2月2日にアポロ劇場で開かれた政治集会で、若い聖職者のアルドゥイーニ神父は俗界における教皇の権力は「歴史的欺瞞であり、政治的詐欺であり、そして宗教的不道徳である」と宣言した[115]。3月初旬にマッツィーニがローマに到着し政府に参加した(後に三頭執政の一人に選ばれる)[116]。ローマ共和国憲法では第7条で信仰の自由が定められ、第8条(Principi fondamentali)ではカトリック教会の首長としての教皇の独立が保証され、第5条で死刑廃止、そして第8条(Titolo I)で無料の公教育が定められている[117]

共和派の高揚に行動の必要を迫られたサルデーニャ王カルロ・アルベルトは[118]、亡命ポーランド人の将軍アルベルト・シュルザノスキー英語版を司令官に任じてオーストリアとの戦争を再開させた[119]。だが、サルデーニャ軍は1849年3月23日のノヴァーラの戦い英語版でラデツキー将軍に敗れ、敗戦の責任を取ってカルロ・アルベルトは退位し、息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位した。サルデーニャのイタリア統一またはロンバルディア征服の野望は(一時的ではあるが)頓挫することになった。8月9日に講和条約が締結され、戦争は終わった。ノヴァーラの戦いから数日後にブレシア英語版で民衆蜂起が発生していたが、オーストリア軍に10日間で鎮圧されている。4月下旬にトスカーナもオーストリア軍に制圧された[120]

革命勢力はローマ共和国とヴェネト共和国のみが残された。4月にシャルル・ウディノ英語版率いるフランス軍がローマに派遣された。当初、フランス軍は教皇と共和政府との仲介を望んでいたが、共和政府は徹底抗戦を主張した[121]。フランス軍はローマを包囲し、ガリバルディ率いる共和国軍は果敢な抵抗をしたが[122]、2か月間の包囲戦の後、6月29日にローマは降伏し、教皇が復帰した。ガリバルディとマッツィーニは再度の亡命を余儀なくされ、1850年にガリバルディはニューヨークに到着している[123]。一方、オーストリア軍はヴェネツィアを包囲し、1年以上の包囲戦の末、8月24日に占領した[124]。独立派闘士たちはベルフィオーレで公開絞首刑となり(「ベルフィオー レの殉教」事件)[125]、オーストリア軍が中部イタリアの秩序を回復し、革命は完全に粉砕された。




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注釈

  1. ^ ヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国、ルッカ共和国は再興されなかった。森田(1976),p.40.
  2. ^ 教皇国家の北部5県を管轄する地方行政区。各県の首長には教皇特使英語版(レガート:Legato)が任命された。北原他(2008),p.365;ロメーオ(1992),p.512.
  3. ^ 1848年の「ミラノの5日間」では穏健派の主張するミラノのサルデーニャへの併合に反対し、共和国の樹立を目指して民主派の指導者となった。カルロ・カッターネオの思想については右を参照。黒須(1997),pp.175-241.
  4. ^ 教皇ピウス9世は義勇軍が国境を越えることを禁じていたが、総司令官ドゥランドの独断により参戦した。北原他(1999),p.232.
  5. ^ ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は憲法を破棄したがったが、オーストリアの勧めにより維持した。ダガン(2005),p.171.
  6. ^ カヴールはナポレオン3世の元に愛人としてカスティリオーネ伯爵夫人を送り込み、イタリア政策に影響を与えようとしている。鹿島(2010),pp.428-430.
  7. ^ カヴールはイタリア統一は非現実的であると考えていた。ダガン(2005),p.174.
  8. ^ フェルディナンド2世が反乱鎮圧のために自国の都市を砲撃させたためにつけられたあだ名。ロメーオ(1992),p.516;森田(1976),p.191;ガロ(2001),p.295.
  9. ^ 統一後の議会でガリバルディはカヴールを激しく非難する演説を行っている。ガロ(2001),pp.347-356.
  10. ^ ガリバルディは旧両シチリア王国の1年間の統治を自分に任せるよう提案したが、拒絶されている。北原他(2008),p.406
  11. ^ フランスの作家マルセル・プルーストはマリーア・ソフィアを「ガエータの城壁の戦士王妃」と呼んだ。
    Maria Sophia, last queen of Naples”. University of Maryland University College ITALIAN STUDIES (NAPLES). 2011年12月9日閲覧。
  12. ^ サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はイタリア王を称したが、彼の意向により名を変えず「2世」のままとした。北原他(2008),p409.
  13. ^ 原文:«L'Italia è fatta, tutto è a posto.»Holt(1971),p.258.
  14. ^ フランスではフランス革命以来の自由と民主主義が教皇不可謬説によって否定されることに反発が起こっており、ナポレオン3世は公会議で不可謬説が可決されればローマから撤兵すると宣言していた。ルイス(2010),pp.251-252.
  15. ^ 原文:«Il mio compito è più complesso e faticoso che in passato. Fare l'Italia, fondere assieme gli elementi che la compongono, accordare Nord e Sud, tutto questo presenta le stesse difficoltà di una guerra con l'Austria e la lotta con Roma»,Vottari(2004),p.31.
  16. ^ 1871年時点で男性の61.9%、女性の95.7%が非識字層だった。ガロ(2001),p.537.
  17. ^ イタリアの参戦運動は右派のみならず、穏健派から極左にまで及んで存在しており、左派参戦主義者にはベニート・ムッソリーニもいた。森田&重岡(1977),pp.183-184,198-202.
  18. ^ 地図には未表示。

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