イタリア紀行とは? わかりやすく解説

イタリア紀行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/30 08:44 UTC 版)

ローマ近郊におけるゲーテの肖像(1786年/1787年、ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン画)

イタリア紀行: Italienische Reise)は、18・19世紀のワイマールドイツの詩人・ゲーテによる旅行記で、1816~29年刊。1786年から88年にかけてのイタリア旅行後に、約28年を経て書き始めたものである。イタリアで触れた美術や自然、宗教、人々などの様々な事柄について、滞在中の書簡や日記などをもとにまとめた自伝的作品[1][2]

概要

1786年9月から1788年5月までのゲーテのイタリアの旅

1786年、ゲーテはアウグスト公に無期限の休暇を願い出、9月にイタリアへ旅立った。もともとゲーテの父がイタリア贔屓であったこともあり、ゲーテにとってイタリアはかねてからの憧れの地であった。出発時ゲーテは、アウグスト公にもシュタイン夫人にも行き先を告げておらず、イタリアに入ってからも名前や身分を偽って行動していた。出発時にイタリア行きを知っていたのは召使のフィリップ・ザイテルただ一人で、これらのことは帰国後シュタイン夫人との仲が断絶する遠因となった。

ローマにて長期の滞在宿を取り、南下しナポリシチリア島を訪れるなどし、結局2年もの間イタリアに滞在していた。ゲーテはイタリア人の着物を着、イタリア語を流暢に操りこの地の芸術家と交流した。その間に友人の画家ティシュバインの案内で美術品を見に各地を訪れ、特に古代の美術品を熱心に鑑賞した。午前中はしばらく滞っていた文学活動に精を出し、1787年1月には『イフィゲーニエ』をこの地で完成させ、さらに『タッソー』『ファウスト断片』を書き進めている。また旅行中に読んだベンヴェヌート・チェッリーニの自伝を帰国後にドイツ語に訳し、さらに30年後にはイタリア滞在中の日記や書簡をもとにこの『イタリア紀行』を書いた。有名な「ナポリを見てから死ね」(=ナポリを見ずに死んだなら生きていなかったも同然)は、ナポリ滞在中にその風光明媚ぶりを評して記した言葉である。

1788年にイタリア旅行から帰ったゲーテは芸術に対する思いを新たにしており、宮廷の人々との間に距離を感じるようになった。ゲーテはしばらく公務から外れたが、イタリア旅行中より刊行が始まった著作集は売れ行きが伸びず、ゲーテを失望させることになる。なお帰国してから2年後の1790年に2度目のイタリア旅行を行なっているが、1回目とは逆に幻滅を感じ数ヶ月で帰国している。

最初のイタリア旅行から戻った直後の1788年7月、ゲーテのもとにクリスティアーネ・ヴルピウスという23歳になる女性が訪れ、イェーナ大学を出ていた兄の就職の世話を頼んだ。彼女を見初めたゲーテは彼女を恋人にし、後に自身の住居に引き取って内縁の妻とした。帰国後まもなく書かれた連詩『ローマ哀歌』も彼女への恋心をもとに書かれたものである。しかし身分違いの恋愛は社交界の憤激の的となり、シュタイン夫人との決裂を決定的にすることになる。1789年には彼女との間に長男アウグストも生まれているが、ゲーテは1806年まで彼女と籍を入れなかった。なおゲーテとクリスティアーネの間にはその後4人の子供が生まれたがいずれも早くに亡くなり、長じたのはアウグスト[3]一人であるが、1830年10月にエッカーマンが同行したイタリア旅行のローマ滞在時に病没した。

日本語文献

高木訳は、グーテンベルク21電子書籍・上下)で新版(2016年より、Kindle版ほか)

解説文献

  • 『ゲーテと歩くイタリア美術紀行』高木昌史編訳、青土社、2003年
  • ロベルト・ザッペリ『知られざるゲーテ ローマでの謎の生活』津山拓也訳、法政大学出版局、2001年
    • 別訳『ローマの痕跡 ゲーテとそのイタリア』星野純子訳、鳥影社、2010年
  • 高橋明彦『ゲーテ『イタリア紀行』の光と翳』青土社、2011年
  • 渡辺真弓『イタリア建築紀行 ゲーテと旅する7つの都市』平凡社、2015年

脚注

  1. ^ Goethe's epigraph for the book (Engl. ed.), although originally in German: Auch ich in Arkadien.
  2. ^ For text references and relevant commentary, cf. the specialist Folio Society edition of Goethe's Italian Journey (hereafter I.J.), London: Folio Society (2010) — translated and introduced by W. H. Auden and Elizabeth Mayer, published by arrangement with their estates, and HarperCollins Publishers (1962 ed.). Excerpts from I.J. are translated from the original German text, available at Project Gutenberg, Italienische Reise.
  3. ^ 訳書に『もう一人のゲーテ アウグストの旅日記』(藤代幸一・石川康子訳、法政大学出版局、2001年)がある。

イタリア紀行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 02:33 UTC 版)

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」の記事における「イタリア紀行」の解説

1786年ゲーテアウグスト公に無期限休暇願い出9月イタリアへ旅立った。もともとゲーテの父がイタリア贔屓であったこともあり、ゲーテにとってイタリアかねてから憧れの地であった出発ゲーテアウグスト公にシュタイン夫人にも行き先告げておらず、イタリア入ってからも名前や身分偽って行動していた。出発時にイタリア行き知っていたのは召使のフィリップ・ザイテルただ一人で、このことは帰国シュタイン夫人との仲が断絶する原因となったゲーテはまずローマに宿を取りその後ナポリシチリア島訪れるなどし、結局2年もの間イタリア滞在していた。ゲーテイタリア人着物を着、イタリア語流暢に操りこの地の芸術家交流したその間友人画家ティシュバインの案内美術品を見に各地訪れ、特に古代美術品熱心に鑑賞した午前中はしばらく滞っていた文学活動精を出し1787年1月には『イフィゲーニエ』をこの地で完成させ、さらに『タッソー』『ファウスト断片』を書き進めている。また旅行中読んだベンヴェヌート・チェッリーニ自伝帰国後にドイツ語訳し、約30年後にはイタリア滞在中の日記書簡をもとに『イタリア紀行』を著した1788年イタリア旅行から帰ったゲーテ芸術対す思い新たにしており、宮廷人々との間に距離を感じようになったゲーテはしばらく公務から外れたが、イタリア旅行中より刊行始まった著作集売れ行き伸びず、ゲーテ失望させることになる。なお帰国してから2年後1790年2度目イタリア旅行行なっているが、1回目とは逆に幻滅感じ数ヶ月帰国している。 最初イタリア旅行から戻った直後1788年7月ゲーテのもとにクリスティアーネ・ヴルピウスという23歳になる女性訪れイェーナ大学出ていた兄の就職世話頼んだ。彼女を見初めたゲーテは彼女を恋人にし、後に自身住居引き取って内縁の妻とした。帰国後まもなく書かれ連詩ローマ哀歌』も彼女への恋心をもとに書かれたものである。しかし身分違い恋愛社交界憤激の的となり、シュタイン夫人との決裂決定的にすることになる。1789年には彼女との間に長男アウグスト生まれているが、ゲーテ1806年まで彼女と籍を入れなかった。なおゲーテとクリスティアーネの間にはその後4人の子供が生まれたいずれも早く亡くなり長じたのはアウグスト一人である。

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