アントニオ・マリア・デ・ルカとは? わかりやすく解説

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アントニオ・マリア・デ・ルカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/30 18:03 UTC 版)

アントニオ・マリア・デ・ルカ
Antonio Maria De Luca
アントニオ・マリア・デ・ルカの肖像画
生年月日 1764年10月20日
出生地 ナポリ王国チェッレ・ディ・ブルゲリーア
没年月日 (1828-07-28) 1828年7月28日(63歳没)
死没地 両シチリア王国サレルノ
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アントニオ・マリア・デ・ルカイタリア語: Antonio Maria De Luca1764年10月20日 - 1828年7月28日)は、イタリアイタリア統一運動時代の聖職者革命家愛国者である。イタリア統一運動の初期にあたる「チレントの暴動 (1828年)イタリア語版」で主導的な役割を果たした。

生涯

アントニオ・マリア・デ・ルカは1764年10月20日、当時ナポリ王国が支配していた小都市チェッレ・ディ・ブルゲリーアに生まれた[1]アルフォンソ・デ・リゴリのもとで神学を学んだのちに聖職者となり、若い頃はポリカストロ・セッブンティーノイタリア語版というカンパニアにある村で教義を説いた。しかし18世紀の終わりには聖職者を続けつつも革命思想にも傾倒するようになり、1798年には革命思想の疑いから初めて逮捕を経験。ナポレオン戦争イタリアに進軍していたフランス軍によって解放されるもナポリ王国崩壊後には再び逮捕されている。ジョアシャン・ミュラによるナポリ王国統治時代には、カルボナリに参加した[1]

1820年から1821年にかけてはカルボナリの一員としてナポリ革命に参加した。短期間だけ存在した両シチリア王国議会イタリア語版にも議員として参加し、自らの土地を一部農民に分け与えるなどして農民の権利拡大に努めた[1]

ナポリ革命の失敗後はカルボナリを抜けてフィラデルフィに参加。そして1828年7月7日にはサレルノ近郊のボスコイタリア語版憲法の利点を演説し民衆を扇動するなどして「チレントの暴動 (1828年)イタリア語版」の拡大に重要な役割を果たした。ボスコはこの暴動の中心となった町である。しかしこの暴動は軍隊によって鎮圧され[2]、デ・ルカは両シチリア王国の警察大臣フランチェスコ・サヴェーリオ・デル・カレットイタリア語版によって逮捕された。逮捕後はサレルノの大司教カミーロ・アレヴァイタリア語版に破門され、1828年7月28日にサレルノで銃殺刑に処された[1]

脚注

  1. ^ a b c d Antonio Maria De Lucaイタリア人名辞典 (イタリア語)
  2. ^ 森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』近藤出版社(1976年) 86-87ページ

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