日本の降伏
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脚注
関連項目
注釈
出典
- ^ 福田和也 『悪と徳と岸信介と未完の日本』 産経新聞社 2012年4月 第19回『サイパン陥落』、第20回『尊攘同志会』 pp.228-246
- ^ 長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、p151
- ^ 『暗闘(上)』 p.198
- ^ 『暗闘(上) 』 pp.290 - 212、218 - 220
- ^ 『満洲国―「民族協和」の実像』塚瀬進 吉川弘文館 p.147
- ^ 『暗闘(上)』 p.226
- ^ 『暗闘(上)』 pp.248 - 250
- ^ a b 寺崎英成著 『昭和天皇独白録』 136ページによれば、「私が今迄聞いてゐた所では、海岸地方の防備が悪いといふ事であつたが、報告に依ると、海岸のみならず、決戦師団さへ、武器が満足に行き渡つてゐないと云ふ事だつた。敵の落した爆弾の鉄を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ、これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した。木戸は米内にも東郷にも鈴木にも意見を聞いたが、皆講和したいと云ふ、然し誰も進んで云ひ出さない。それで私は最高指導会議の者を呼んで、速かに講和の手筈を進める様に云つた。「ソビエト」を経てやれと云つたかどうかは記憶して居らぬ。この時鈴木その他から先づ「ソビエト」の肝を探らうと、云ひ出した、私はそれは良い事と思ふが、現状に於ては速かに事を処理する必要があると云つた。これですつかり講和の決意が出来て安心した、但し講和の条件に付ては、皆各と意見があつた。之と前后して、鈴木は詔書を出して国民を激励して頂きたいと云つて釆たが、前述の理由で、絶対に反対だと云つたら、鈴木は御尤もだと云つて帰つた。どうも政府も軍人も二股かける傾向があるのはよろしくない。この場合鈴木だから、隔意なく思ふ事が云へたのだ。・・・然しソ連は誠意ある国とは思へないので、先づ探りを入れる必要がある、それでもし石油を輸入して呉れるなら南樺太も、満洲も与へてよいといふ内容の広田「マリク」会談を進める事にした。しかし、「スターリン」は会議から帰つた后も、返事を寄越さず、その中に、不幸にして「ソビエト」の宣戦布告となつた。こうなつては最早無条件降伏の外はない。」とある
- ^ NHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」(2012年8月15日放映)[1]。当番組では連合国に傍受解読された駐在武官発の電報(ロンドンに保存)が紹介された。
- ^ NHK取材班 『太平洋戦争 日本の敗因6 外交なき戦争の終末』 角川文庫、1995年、pp.204 - 208
- ^ 昭和天皇実録より
- ^ a b c 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.264
- ^ 昭和天皇実録 iza14090905120002 2/3
- ^ 衣奈多喜男『最後の特派員』朝日ソノラマ 1988年7月、ISBN 978-4-257-17205-5
- ^ a b c 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.267
- ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.265
- ^ "… the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander …"
- ^ The ultimate form of government of Japan... government は無冠詞である(プログレッシブ英和中辞典(第4版) government)。
- ^ “The Decision to Use the Atomic Bomb” by Henry Stimson
- ^ August 10, 1945 Truman Diary
- ^ 山下祐志 1998, pp. 6.
- ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 219 / 85%.
- ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 471頁
- ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 473頁
- ^ 山下祐志 1998, pp. 7.
- ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.274
- ^ 新人物往来社 1995, p. 166.
- ^ a b 岩田重則『「玉音」放送の歴史学: 八月一五日をめぐる権威と権力』青土社、2026年6月26日、143-,170頁。
- ^ 角田房子 1980, p. Kindle5159.
- ^ 半藤一利 2006, p. 66.
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- ^ 伊藤正徳・5 1961, p. 284.
- ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.275
- ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 pp.277-278
- ^ 半藤一利 2003, p. 520.
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- ^ “「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男 : 読売新聞”. 読売新聞. 2023年7月13日閲覧。
- ^ 『占領下の津京』佐藤洋一 p.25(河出書房新社)2006年
- ^ 「厚木でマッカーサーを出迎えた「太平洋戦争きっての名作戦家」2021年9月6日」 - 2021年9月6日 譚璐美 JBpress
- ^ 『占領下の東京』佐藤洋一 p.24(河出書房新社)2006年
- ^ 外務省
- ^ 『占領下の東京』佐藤洋一 p.84(河出書房新社)2006年
- ^ 「大日本帝国の興亡5」ジョン・ト―ランド著 早川書房 P.328
- ^ 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- 永井和京都大学教授
- ^ 「大日本帝国の興亡5」ジョン・ト―ランド著 早川書房 P.318
- ^ 「私を通り過ぎたスパイたち」佐々淳行著 文藝春秋 P.178
- ^ 石川真澄 『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書、6ページ
- ^ a b c d 石川真澄 『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書、7ページ
- ^ a b c d e f 石川真澄著『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書56ページ
- ^ United States Department of State (1951). United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts). VI, Part 1. pp. p. 1296
- ^ 塚本孝「韓国の対日平和条約署名問題」『レファレンス』 494巻、国立国会図書館調査立法考査局、1992年3月、95-101頁。
- ^ 池谷薫『蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相』(新潮社、2007年(平成19年))、米濱泰英『日本軍「山西残留」』(オーラル・ヒストリー企画、2008年(平成20年)6月)、山口盈文『僕は八路軍の少年兵だった』(草思社 1994年(平成6年)、新版が光人社文庫、2006年)に詳しい、また中国山西省日本軍残留問題を参照。
- ^ 回想に小野寺百合子『バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争』(共同通信社。初版1985年)。
- ^ 情報開示により近年研究が進み、評伝に岡部伸(産経新聞編集委員)による『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書、2012年)、『「諜報の神様」と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官小野寺信の流儀』(PHP研究所、2014年)がある。
- ^ 小野寺工作を元に、作家の佐々木譲が小説で『ストックホルムの密使』(新潮社、のち新潮文庫)を著し、1995年(平成7年)10月に、NHKでドラマ放送(前・後)された。
- ^ 岡本・加瀬のルートによるスイスでの活動は、竹内修司『幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ1945夏』(文春新書、2005年)に詳しい。著者は『月刊文藝春秋』、『諸君!』などの編集者で、昭和史関連の著作編集を行っている。なお、岡本・加瀬と藤村は別個に活動しており、お互いの活動をほとんど知らなかったとされる。
- ^ 有馬哲夫『「スイス諜報網」の日米終戦工作 ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか』(新潮選書、2015年)では、藤村の和平工作に否定的な見解を述べている。
- ^ 藤村=ダレス工作を元に、作家の西村京太郎が小説『D機関情報』(講談社)を著し、『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』(主演役所広司、1988年)で映画化された。
- ^ 「占領の瞬間生々しく 降伏式の写真見つかる」デーリー東北新聞社オンライン(2010/03/11)[2]
- ^ a b “日本軍の降伏文書 公開 沖縄市が終戦70年展”. 琉球新報. (2015年8月19日) 2016年5月27日閲覧。
- ^ “9月7日 沖縄での降伏調印式 (1945年)”. 沖縄県公文書館. 2016年5月28日閲覧。
- ^ “独立混成第5旅団(桐)l”. アジア歴史資料センター. 2018年12月21日閲覧。
- ^ “Second Instrument of Surrender Document”. Lillian Goldman Law Library. 2018年12月21日閲覧。
- ^ “Instrument of Surrender, Rabaul”. National Archives of Australia. 2018年12月21日閲覧。
- ^ 別巻は「終戦を問い直す シンポジウム」栗原健ほか編、江藤淳解説, 1980。
- ^ 時事及び図書センター版は、回顧談「終戦の表情」(労働文化社, 1946)を収録
- ^ 終戦・占領での当事者・その親族13名へのインタビュー
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