歴代家元
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初代家元 笹岡竹甫(ささおか ちくほ) 二代家元 笹岡勲甫(ささおか くんぽ、1925年3月23日 - 2014年1月29日)1966年、二代家元を継承。流派名を「未生流笹岡」と改める。本名は笹岡勲太郎(ささおか くんたろう)。京都生まれ。竹甫の長男。既婚、2女あり。京都市在住。 三代家元 笹岡隆甫(ささおか りゅうほ、1974年9月21日 - )2011年11月27日、三代家元を継承、花号「桃流斎」を襲名。京都生まれ。勲甫の外孫(長女の長男)で、養子。父親は数学者。弟、妹がいる。京都大学で日本建築の歴史を専攻。2007年に、2004年にテニスで知り合った女性と結婚。2011年2月に長女、2012年12月に長男が生まれる。京都市在住。
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歴代家元
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千利休の没後、傍系の少庵(後妻の連子)の後を継いだ宗旦が京都に屋敷を構え三男・宗左に家督を継がせ表千家が本家となり、次男 宗守・四男 宗室にそれぞれ武者小路千家・裏千家を興させたのが三千家の始まりである。武者小路千家では初代一翁宗守を四世、二代文叔宗守を五世として数えていたが、最近は他の二家に合わせて利休より代を数えている。武者小路千家の家元は一翁の諱「宗守」を受け継ぎ、家元後嗣は「宗屋」、隠居してからは元伯の諱「宗安」を名乗る伝統である。 武者小路千家歴代代道号法諱斎号生没年備考初 利休宗易 抛筌斎 1522年-1591年2月28日 二 少庵宗淳 1546年-1614年10月10日 利休の後妻宗恩の連れ子で女婿 三 元伯宗旦 咄々斎 1578年-1658年12月19日 四 一翁宗守 似休斎 1593年-1675年12月19日 五 文叔宗守 許由斎 1658年-1708年閏1月22日 六 真伯宗守 静々斎 1693年-1745年3月28日 七 堅叟宗守 直斎 1725年-1782年2月6日 九条家の臣、嵯峨家よりの養子 八 休翁宗守 一啜斎 1763年-1838年4月16日 直斎の門人 九 仁翁宗守 好々斎 1795年-1835年1月22日 裏千家9代不見斎石翁の子 十 全道宗守 以心斎 1830年-1891年4月14日 久田宗也の子、表千家10代吸江斎の弟 十一 一叟宗守 一指斎 1848年-1898年12月12日 表千家10代吸江斎の子 十二 聴松宗守 愈好斎 1889年-1953年7月21日 久田宗悦の子 十三 徳翁宗守 有隣斎 1913年-1999年8月19日 女婿 十四 宗守 不徹斎 1945年- 当代 宗屋 隨縁斎 1975年- 後嗣(若宗匠)
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歴代家元
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代名、号など生没年備考 小堀宗甫(そうほ) 政一(まさかず) 孤篷庵(こほうあん) 通称:遠州(えんしゅう) 1579年(天正7年)-1647年3月12日(正保4年2月6日) 千利休~古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぐ徳川将軍家の茶道指南役。作事奉行として、名古屋城天守閣、大坂城天守閣、仙洞御所、二条城を建築。大徳寺龍光院内に孤篷庵を創建。南禅寺の方丈と金地院を造園、青蓮院門跡の霧島を造園。初代大森玉川の漢学の師である石川丈山と交友。 初 大森玉川(ぎょくせん) 秀祐(しゅうゆう) 漸斎(ぜんさい) 1626年1月1日(寛永2年12月13日)-1706年5月11日(宝永3年3月29日) 大和大森もしくは大和郡山の武家の浄雲の子、名:安右衛門(やすうえもん)。石川丈山に漢学を学ぶ。霊元上皇の茶匠。京都市の浄土宗金戒光明寺にある墓標は「玉川漸斎居士」。大森玉川での記載茶書:『茶人系譜』(鈴木政通/著 1832年(天保3年))、『茶人系譜大全』(柴山準行/編 1923年(大正12年))。大森漸斎での記載茶書:『古今茶人系譜大全』(高谷隆/著 藝術サロン社 1948年(昭和23年)) 二 大森杖信(じょうしん) 重達(しげなり) 甘古斎(かんこさい) 閑古斎(かんこさい) 禎翁(ていおう) 頑翁(がんおう) 1669年(寛文9年)-1756年12月20日(宝暦6年11月29日) 初代玉川の兄 浄栄の子、名:太右衛門(たうえもん)。閑院宮家2代典仁親王の茶匠。『茶道葎集』著。 三 大森有斐(ゆうひ) 重厚(しげあつ) 清閑斎(せいかんさい) 清閒斎(せいかんさい) 1722年(享保7年)-1785年1月27日(天明4年12月17日) 2代杖信の孫、大森卯左衛門の子。閑院宮家3代美仁親王の茶匠、青蓮院門跡の好文亭の庭を造園。 四 大森宗震(そうしん) 正之(まさゆき) 一黙斎(いちもくさい) 漸翁(ぜんおう) 1774年(安永3年)-1832年11月23日(天保3年11月2日) 鎌田助四郎の長男 鎌田文治政幸の子。花山院の家司として仕え、従五位下 実花葉加賀守に叙せられる。閑院宮家4代孝仁親王と有栖川宮家8代幟仁親王の茶匠。『改正葎集』著。 五 大森宗龍(そうりゅう) 正吉(まさよし) 漸庵(ぜんあん) 華頂老(かちょうろう) 暁雲(ぎょううん) 1824年(文政7年)-1897年(明治30年)8月14日 4代宗震の子。有栖川宮家9代熾仁親王の茶匠。『茶道夏木立 上/中/下』、『茶道秘訣抄 初/中/奥伝』、『置土産浮世之茶話』著。 六 大森岑尾(みねお) 如々庵(にょにょあん) 1864年(元治元年)-1928年(昭和3年)10月1日 5代宗龍の娘、僧 南天棒中原鄧州全忠に参禅。 七 大森宗夢(そうむ) 安松(やすまつ) 無相斎(むそうさい) 1890年(明治23年)2月5日-1965年(昭和40年)3月18日 大山崎上野家の三男。僧 南天棒中原鄧州全忠の仏弟子、道号:槐安(かいあん)。6代岑尾の弟子である中野賢子(後の大森柳庵)の夫、大森家の養子。 八 大森宗晋(そうしん) 正己(まさみ) 玉川庵(ぎょくせんあん) 隠居して墨翁(ぼくおう) 1920年(大正9年)1月26日-2004年(平成16年)12月31日 7代宗夢の長男。京都工芸繊維大学助教授(機械工学専攻)、『茶の湯 心と形』著。1974年(昭和49年)1月、京都大学工学博士の学位を受け、京都大学講師(非常勤)并務。1983年(昭和58年)4月1日定年退官後は家業に専念。1995年(平成7年)10月流祖290年二代甘古斎240大遠諱全国大会を最後に隠居。76歳、墨翁と号し、墨書三昧を過ごした。 九 松﨑大嶺(たいれい) 幼名 山津晃一 松﨑宜晃(ぎこう) 正的院(しょうてきいん) 1952年(昭和27年)1月16日- 茶室:僊壺庵(せんこあん)。南禅寺塔頭 正的院住職。授業師 正的院住職 松﨑冝秀(ぎしゅう)。1975年(昭和50年)神戸大学理学部系統生物学教室卒業、南禅寺専門道場に掛錫。南禅寺派第10代管長 南虎室 勝平宗徹老師の室に入る事多年。南禅僧堂師家 古清軒 高山泰巌老師に通参。1980年(昭和55年)10月 南禅寺塔頭正的院住職を拝命。名を松﨑宜晃と改め、大嶺と号する。1991年(平成3年)4月~1995年(平成7年)10月 南禅寺宗務本所法務部長就任。茶は八代宗晋に学び、宗晋長女光子を迎える。要請により、次代の大森家当主成長まで、1995年(平成7年)10月、玉川遠州流9代家元を継承する事となった。
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歴代家元
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千利休の没後、傍系の少庵(後妻の連子)の後を継いだ宗旦が京都に屋敷を構え、三男 宗左が紀州徳川家に茶頭として仕えたのち千家の家督を継いで本家となり表千家となった。その後、次男 宗守は武者小路千家を、四男 宗室は裏千家を興こしたのが三千家の始まりであるが、各家ともに家元は利休を初代として数える。裏千家の家元は四代である仙叟の諱「宗室」を受け継いでいる。 裏千家歴代代道号法諱斎号生没年備考初 利休宗易 抛筌斎 1522年-1591年2月28日 利休忌3月28日 二 少庵宗淳 1546年-1614年9月7日 利休の後妻宗恩の連れ子で女婿 三 元伯宗旦 咄々斎 1578年-1658年12月19日 元叔・寒雲 四 仙叟宗室(英語版) 臘月庵 1622年-1697年1月23日 宗旦の末子 襲名前は玄室以後代々家督継承者は宗室を名乗る 五 常叟宗室 不休斎 1673年-1704年5月14日 加賀藩・松山藩茶道指南初代指南は幕末まで継続 六 泰叟宗室 六閑斎 1694年-1726年8月28日 宗安と称した 七 竺叟宗室 最々斎 1709年-1733年3月2日 表千家七代如心斎の弟宗乾と称した 八 一燈宗室 又玄斎 1719年-1771年2月2日 表千家七代如心斎および竺叟宗室の弟 九 石翁宗室 不見斎 1746年-1801年9月26日 寒雲、玄室とも称した 十 柏叟宗室 認得斎 1770年-1826年8月24日 夫人は松室宗江、秀でた茶人 十一 精中宗室 玄々斎 1810年-1877年7月11日 三河国奥殿藩4代藩主(大給)松平乗友の子 十二 直叟宗室 又玅斎 1852年-1917年12月8日 京角倉家・角倉玄祐の子隠居後、玄室を称する 十三 鉄中宗室 圓能斎 1872年-1924年8月5日 対流軒・近代化に尽力 十四 碩叟宗室 無限斎 1893年-1964年9月7日 襲名以前は玄句斎永世、玄句斎宗叔と称した一般に淡々斎として知られている 十五 汎叟宗室 鵬雲斎 1923年- 襲名以前は宗興と称した2002年に家元を譲り大宗匠「千玄室」と称する 十六 玄黙宗室 坐忘斎 1956年- 襲名以前は宗之と称した当代 宗史 丹心斎 1990年- 2020年に「若宗匠」の格式継承後嗣
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歴代家元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:31 UTC 版)
千利休の没後、傍系の少庵(後妻の連子)の後を継いだ宗旦が京都に屋敷を構え三男・宗左に家督を継がせ表千家が本家となり、次男 宗守・四男 宗室にそれぞれ武者小路千家・裏千家を興させたのが三千家の始まりであるが、各家ともに家元は利休を初代として数える。表千家の家元は四代である江岑の諱「宗左」を受け継ぎ、家元後嗣(若宗匠)は「宗員」、隠居してからは元伯の諱「宗旦」を名乗る伝統である。 表千家歴代代道号法諱斎号生没年備考初 利休宗易 抛筌斎 1522年-1591年2月28日 二 少庵宗淳 1546年-1614年10月10日 利休の後妻宗恩の連れ子で女婿 三 元伯宗旦 咄々斎 1578年-1658年12月19日 四 江岑宗左 逢源斎 1613年-1672年10月27日 五 良休宗左 随流斎 1650年-1691年7月19日 久田宗全の弟襲名以前は宗巴と称した 六 原叟宗左 覚々斎 1678年-1730年6月25日 久田宗全の子襲名以前は宗員と称した 七 天然宗左 如心斎 1705年-1751年8月13日 襲名以前は宗員と称した 八 件翁宗左 啐啄斎 1744年-1808年10月6日 襲名以前は宗員と称した隠居して後は宗旦と称した 九 曠叔宗左 了々斎 1775年-1825年8月7日 久田宗渓の子 十 祥翁宗左 吸江斎 1818年-1860年6月6日 久田宗也の子で了々斎の甥隠居して後は宗旦と称した 十一 瑞翁宗左 碌々斎 1837年-1910年1月7日 襲名以前は宗員と称した隠居して後は宗旦と称した 十二 敬翁宗左 惺斎 1863年-1937年7月18日 十三 無盡宗左 即中斎 1901年-1979年8月29日 十四 宗旦 而妙斎 1938年- 襲名以前は宗員と称した隠居して後は宗旦と称した 十五 宗左 猶有斎 1970年- 襲名以前は宗員と称した当代
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