算知との争碁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 01:57 UTC 版)
1668年(寛文8年)、かつて算悦との六番碁を行った安井算知が名人碁所を命じられたが、道悦は算知が自分との対局が無いことを理由に、寺社奉行に争碁を願い出た。この時に寺社奉行加賀爪甲斐守は、上意に反して番碁を願って負ければ遠島となるとして思いとどまらせようとしたが、道悦は「(負けて)遠島に処せらるるも寸毫の憾なし」と述べて、遂に道悦定先で六十番の番碁を命ぜられた。 算知との争碁は同年御城碁を第1局とし、1671年(寛文11年)第16局までに道悦が9勝3敗4ジゴの六番勝越しで先相先に手直りし、さらにその後は道悦の3勝1敗で1675年まで計二十番打ち、算知は碁所を返上して終了した。前半はやや苦戦した道悦が後半に勝率を上げたのは、弟子である道策との共同研究によるところがあったと言われる。 道悦も「公儀決定に故障を唱えし廉をもって遠慮の意」により、1677年(延宝5年)に道策に家督を譲り、同時に碁所に推挙。ただし道悦は道策の後見、名人格20人扶持として、対局免除の上で御城碁に10年間出仕、1686年(貞享3年)に退隠して京都に移り住んだ。1727年死去、92歳と歴代家元中最長命だった。
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