シリア内戦
シリア暴動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 06:29 UTC 版)
2011年になりアラブの春がシリアにも広がりを見せ始めた。シリアのケースでもチュニジアのジャスミン革命と同様に抗議の焼身自殺がきっかけとなった。北部の街ハサカにて、シリア人のハサン・アリ・アクレーがガソリンをかぶり、自らに火をつけた。活動家たちはこの日を「怒りの日」と呼んだが当初の抗議活動は比較的低調なものにとどまった。抑圧的な政府に対する恐れが原因にあったと考えられている。 小規模な抗議活動が続いていたが2011年の3月7日、13名の政治犯がハンガーストライキを決行すると漸く流れに勢いがついてくる。3日後には数十名のクルド人がアサド政権への抗議を掲げてハンガーストライキを行った。3月12日にはカーミシュリーにて大規模なデモが開かれ、アサド政権への抗議と、カーミシュリー事件での犠牲者たちへの追悼が行われた。 抗議活動は2011年の3月から4月にかけて拡大する。アサド政権は無国籍のクルド人に市民権を与えると約束することで民衆をなだめようと試みる。しかしそれから夏にかけて、シリア政府の暴力的な取り締まりが強化される中で、民衆の抗議はただ過激さを増すのみであった。 2011年8月7日、影響力のあるクルド人人権活動家、マシャール・タモ(Mashaal Tammo)が覆面の男に殺された。彼の死を悼む集会が各地で開かれ、それはすぐにアサド政権への抗議運動へと変わった。このデモに対する取り締まりの中で、シリア全土で少なくとも20名の死者を出した。9月20日、ラース・アル=アインでクルド人政治家マフムード・ワリ(Mahmoud Wali)がまたしても覆面の男に暗殺された。 8月、野党連合はシリア国民評議会を設立、アサド政権に変わる民主的で複数政党に拠った政治を目指すとした。しかしながら意見の相違のためにこの国民評議会は当初から紛糾を極めた。2011年7月には自由シリア軍が結成され、シリア政府軍からも自由シリア軍へと参加する者が続出した。2011年の秋口には民主化運動は武力による紛争へとエスカレートしていた。
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