シリア民主軍による侵攻とは? わかりやすく解説

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シリア民主軍による侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 17:37 UTC 版)

ラッカの戦い (シリア内戦)」の記事における「シリア民主軍による侵攻」の解説

詳細は「en:Northern Raqqa offensive (May 2016)」を参照 2016年5月クルド人勢力ロジャヴァ軍事部門シリア民主軍SDF)がラッカ県北部ISILに対して攻勢開始した。この作戦ではラッカ攻略計画入っていなかった。これに対してISIL民間人人間の盾にして対抗した詳細は「en:Raqqa campaign (20162017)」を参照 2016年11月5日SDFラッカ解放向けて軍事作戦ユーフラテス怒りWrath of the Euphrates)」を開始したSDF部隊はアインイッサとタル・アブヤドからラッカ北へ、マクマンからラッカ東へと、3方面から前進したラッカ周辺の地区占拠し、それに続いてラッカ市を奪取する作戦だった。同じころイラクではISIL対すモスル奪還のための軍事行動が行われていた。 2017年3月27日SDFラッカから50キロ西にあるタブカ軍用空港占領した。ここは2014年8月ISIL占領されたとき政府側の兵士最大200人が虐殺されていた。 アメリカ増援もあってSDFISIL支配地を奪い取っていった。4月上旬にはラッカ周辺の県の3分の2支配下に置き、最も近い所ではラッカ北東8キロまで迫った6月までに、SDFラッカに迫ると、ラッカ市民20万人ラッカから難民キャンプなどに避難したという報道もあった。 詳細は「en:Battle of Raqqa (2017)」を参照 6月6日SDFラッカ市内への侵攻開始し北・東・西の三方向から攻撃加えた。そしてメシュレブ地区大部分早々に占領した。市に立てこもっているISIL戦闘員最大2500人とみられ、有志連合からの空爆受けた11日SDF2日にわたる戦闘の後ラッカ西部のロマニヤ地区占領したまた、メシュレブ地区隣接するセヌア地区も、既に約半分制圧しているとした。シリア人権監視団は、ラッカ人口は約30万人(うち約8万人内戦発生後国内各地から逃げてきた人々)で、ここ数か月数千人がラッカ脱出したとしている。国連は今も市内16万人取り残されていると推計している。 6月末にはSDFラッカ南方にあるユーフラテス川南岸の2占領しラッカにいるISIL戦闘員を完全包囲したISIL戦闘員自爆攻撃などで反撃した7月26日SDFISILからラッカ50%制圧した8月17日にはラッカ70%がSDF占領された。シリア人道問題に関する国連責任者ヤン・エーゲランはジュネーブ記者会見行い、「おそらく現在シリア最悪状況にある場所は、いわゆるISが依然支配するラッカ一部地域だ」と語ったラッカ市内に、現在も最大推定2万5000人の民間人取り残されISILによって人間の盾にされていると考えられた。 9月1日SDFラッカ旧市街占領しISIL支配するラッカ中心部迫った9月20日SDFラッカの9割を占領したISIL有志連合空爆により要所4ヶ所から撤退し中心部追いやられた10月1日ISIL国立病院スタジアムの2ヵ所に追い込まれた。このうち病院では民間人人間の盾にして立てこもった14日ISIL戦闘員のうち、シリア人のグループSDF投降した17日SDFによってスタジアム占領され生き残ったISIL戦闘員投降したことにより、ラッカ全域奪還された。シリア人権監視団主張によるとラッカ奪還作戦開始した6月初め以降戦闘による死者少なくとも3250人に上り、うち3分の1以上に当たる少なくとも1130人が民間人であるという。また、数百人以が行不明である。一連の戦闘SDFラッカ捕らえたISIL戦闘員捕虜400人で、そのうち350人は陥落1週間前に投降したのだった

※この「シリア民主軍による侵攻」の解説は、「ラッカの戦い (シリア内戦)」の解説の一部です。
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シリア支配「シリアによるレバノン占領」を参照内戦終結後のレバノンはシリアの実質支配下に置かれ、およそ3万人とされるシリア軍がベッカー高原を中心に駐屯した。シリアは、単に軍の駐留のみならず、情報機関の関係者を積極的にレバノンの政府機関に送り込むなど、明に暗にレバノン政府を支配できるシステムを構築しているとされている。また、国会議員選挙にもハーフィズ・アル=アサド大統領の「忠言」があったとされ、「レバノンの国会議員選挙の結果を知りたければ、シリアの大統領に聞けば良い」という風刺があるほどであった。さらに、ヒズボラに対する指揮・訓練・支援のために多数のイスラム革命防衛隊将兵がレバノン国内に駐在したといわれる。とは言え、シリア軍による武力での強制停戦は、レバノンに一応の平和をもたらし、「パクス・シリアーナ」と呼ばれる状態となった。シリアの軍事的支援を受けたレバノン国軍によって、多くの民兵組織が解体されたものの、シリアやイランが支援するヒズボラや反PLO系のパレスチナ難民組織は未だ武装解除されなかった。これは対イスラエル戦略のカードとしてヒズボラを利用したいシリアの思惑があった。イスラエルの撤退

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