シリア民主軍による侵攻
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「ラッカの戦い (シリア内戦)」の記事における「シリア民主軍による侵攻」の解説
詳細は「en:Northern Raqqa offensive (May 2016)」を参照 2016年5月、クルド人勢力ロジャヴァの軍事部門シリア民主軍(SDF)がラッカ県北部のISILに対して攻勢を開始した。この作戦ではラッカ攻略は計画に入っていなかった。これに対してISILは民間人を人間の盾にして対抗した。 詳細は「en:Raqqa campaign (2016–2017)」を参照 2016年11月5日、SDFはラッカ解放に向けて軍事作戦「ユーフラテスの怒り (Wrath of the Euphrates)」を開始した。SDF部隊はアインイッサとタル・アブヤドからラッカの北へ、マクマン村からラッカの東へと、3方面から前進した。ラッカ周辺の地区を占拠し、それに続いてラッカ市を奪取する作戦だった。同じころイラクではISILに対するモスル奪還のための軍事行動が行われていた。 2017年3月27日、SDFはラッカから50キロ西にあるタブカ軍用空港を占領した。ここは2014年8月にISILに占領されたとき政府側の兵士最大200人が虐殺されていた。 アメリカの増援もあってSDFはISIL支配地を奪い取っていった。4月上旬にはラッカ周辺の県の3分の2を支配下に置き、最も近い所ではラッカの北東8キロまで迫った。 6月までに、SDFがラッカに迫ると、ラッカ市民約20万人がラッカから難民キャンプなどに避難したという報道もあった。 詳細は「en:Battle of Raqqa (2017)」を参照 6月6日、SDFはラッカ市内への侵攻を開始し、北・東・西の三方向から攻撃を加えた。そしてメシュレブ地区の大部分を早々に占領した。市に立てこもっているISIL戦闘員は最大2500人とみられ、有志連合からの空爆を受けた。 11日にSDFは2日にわたる戦闘の後、ラッカ西部のロマニヤ地区を占領した。また、メシュレブ地区に隣接するセヌア地区も、既に約半分を制圧しているとした。シリア人権監視団は、ラッカの人口は約30万人(うち約8万人は内戦発生後に国内各地から逃げてきた人々)で、ここ数か月で数千人がラッカを脱出したとしている。国連は今も市内に16万人が取り残されていると推計している。 6月末にはSDFがラッカの南方にあるユーフラテス川南岸の2村を占領し、ラッカにいるISIL戦闘員を完全包囲した。ISIL戦闘員は自爆攻撃などで反撃した。 7月26日、SDFはISILからラッカの50%を制圧した。 8月17日にはラッカの70%がSDFに占領された。シリアの人道問題に関する国連の責任者ヤン・エーゲランはジュネーブで記者会見を行い、「おそらく現在シリアで最悪の状況にある場所は、いわゆるISが依然支配するラッカの一部地域だ」と語った。ラッカ市内に、現在も最大で推定2万5000人の民間人が取り残され、ISILによって人間の盾にされていると考えられた。 9月1日、SDFはラッカ旧市街を占領し、ISILが支配するラッカ中心部へ迫った。 9月20日、SDFはラッカの9割を占領した。ISILは有志連合の空爆により要所4ヶ所から撤退し、中心部に追いやられた。 10月1日、ISILは国立病院とスタジアムの2ヵ所に追い込まれた。このうち病院では民間人を人間の盾にして立てこもった。 14日、ISIL戦闘員のうち、シリア人のグループがSDFに投降した。 17日、SDFによってスタジアムが占領され、生き残ったISIL戦闘員が投降したことにより、ラッカ全域が奪還された。シリア人権監視団の主張によるとラッカ奪還作戦を開始した6月初め以降、戦闘による死者は少なくとも3250人に上り、うち3分の1以上に当たる少なくとも1130人が民間人であるという。また、数百人以上が行方不明である。一連の戦闘でSDFがラッカで捕らえたISIL戦闘員捕虜は400人で、そのうち350人は陥落の1週間前に投降したものだった。
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