シリア国旗の変遷とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > シリア国旗の変遷の意味・解説 

シリア国旗の変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/30 07:12 UTC 版)

シリアの国旗」の記事における「シリア国旗の変遷」の解説

最初シリア国旗は、ハーシム家建てたシリア王国時代1920年デザインされた。これは現在のヨルダンの国旗似ている緑色白色順序が逆で、第一次世界大戦中ハーシム家率いたアラブ反乱の旗をもとに七つの角のある白い星を加えたものであり、アラブ世界最初に汎アラブ色取り入れた国旗だった。しかしシリアフランス委任統治となったためフランス軍シリア侵攻ハーシム家敗れ王家イギリスの手によりイラク王国国王据えられた。フランス委任統治領シリア王国の旗に替え青地に白の三日月、左隅(カントン)にフランスの国旗配した旗を制定した。さらに一ヵ月後、緑・白・緑平三色旗に、左隅にフランス国旗配した旗に代えられた。この旗は1925年から1932年まで使用された。同時シリアアラウィー派国やドゥルーズ派国などにも分割されており、それぞれ左隅にフランス国旗配した旗を制定した。 この旗は1932年に、上から緑・白・黒三色の帯があり、白帯ところに3つの赤い星五芒星)があるデザイン代えられ次いでフランス・シリア条約制定されシリア部分的な独立得た。緑はイスラム帝国初期正統カリフ時代を、白はウマイヤ朝を、黒はアッバース朝表していた。三つの赤い五芒星当初委任統治領シリアアレッポ地区ダマスカス地区デリゾール地区指していたが、1936年アラウィー派国とドゥルーズ派国がシリア合流すると、三つの星はシリア主要部アラウィ―派地域ドゥルーズ派地域を表すということになった1944年独立時もこの旗であった1958年シリアエジプトアラブ連合共和国結成した時に、赤・白・黒緑の星二つある現在と同じデザインのものが使われた(二つの星はエジプトとシリア意味する)。1961年アラブ連合共和国離脱した際に、古いデザイン戻ったが、1963年バアス党クーデターでまた赤・白・黒平三色旗に戻った。この時には星は3つとなった同時期にバアス党政権奪取したイラクの国旗同様のデザインであり、当初はイラク・シリア・エジプトによる汎アラブ国家建設構想もあったとされるが、実現しなかった)。 1971年リビアカダフィ大佐主導で、シリア・エジプト・リビアの汎アラブ主義国がアラブ共和国連邦結成し国旗統合した。この連邦は、赤・白・黒平三色旗の中央アラビア語で「アラブ共和国連邦と書かれた巻物を持つ金のの旗を国旗制定したが、この連邦政治統合見ないまま1977年解消した1980年より現在のデザイン使われるようになった。この旗はアラブ連合共和国当時同じデザインで、赤色アラブ共和国連邦当時赤色からアラブ連合当時のやや明る赤色戻された。 2011年から始まったシリア内戦では、バッシャール・アル=アサド率いバアス党政権反対する勢力が、アサド政権バアス党正当性否定するため、バアス党政権掌握以前制定され1932年時の国旗を「シリア革命旗」として使用している。 ?シリア王国国旗 (1920) ?フランス委任統治領シリアの旗 (1920-1922) ?フランス委任統治領シリアの旗 (1922-1932) ?1932年から1958年、および1961年から1963年にかけて用いられた旗 ?アラブ連合共和国国旗 (1958-1961) ?バアス党政権奪取後に制定した国旗 (1963-1972) ?1972年制定され国旗アラブ共和国連邦解消後も1980年まで使われた ?アラブ共和国連邦軍艦旗 ?アラブ共和国連邦時代大統領旗 現在の国旗1980年以降シリア内戦において反体制派掲げシリア革命旗。 シリア内戦において反体制派掲げる旗。このように現在の国旗と同じ縮尺用いることもある。

※この「シリア国旗の変遷」の解説は、「シリアの国旗」の解説の一部です。
「シリア国旗の変遷」を含む「シリアの国旗」の記事については、「シリアの国旗」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「シリア国旗の変遷」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シリア国旗の変遷」の関連用語

シリア国旗の変遷のお隣キーワード

シリア内戦の影響

シリア内戦への関与

シリア内戦時の作戦

シリア写本が存在するかもしれない

シリア北部地域の地震

シリア反体制派との関係

シリア国旗の変遷

シリア地方での戦争~その死

シリア支配「シリアによるレバノン占領」を参照内戦終結後のレバノンはシリアの実質支配下に置かれ、およそ3万人とされるシリア軍がベッカー高原を中心に駐屯した。シリアは、単に軍の駐留のみならず、情報機関の関係者を積極的にレバノンの政府機関に送り込むなど、明に暗にレバノン政府を支配できるシステムを構築しているとされている。また、国会議員選挙にもハーフィズ・アル=アサド大統領の「忠言」があったとされ、「レバノンの国会議員選挙の結果を知りたければ、シリアの大統領に聞けば良い」という風刺があるほどであった。さらに、ヒズボラに対する指揮・訓練・支援のために多数のイスラム革命防衛隊将兵がレバノン国内に駐在したといわれる。とは言え、シリア軍による武力での強制停戦は、レバノンに一応の平和をもたらし、「パクス・シリアーナ」と呼ばれる状態となった。シリアの軍事的支援を受けたレバノン国軍によって、多くの民兵組織が解体されたものの、シリアやイランが支援するヒズボラや反PLO系のパレスチナ難民組織は未だ武装解除されなかった。これは対イスラエル戦略のカードとしてヒズボラを利用したいシリアの思惑があった。イスラエルの撤退

シリア文字のエストランゲロ体

シリア暴動

シリア正教会

シリア民主軍による侵攻

検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シリア国旗の変遷のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのシリアの国旗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS