現役後半
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1997年末、広島は経営悪化がピークに達し、主力放出を余儀なくされた。そこへ、1998年にオフトに誘われ、大型補強を行っていた京都パープルサンガにレンタル移籍した。当初は完全移籍の方向で話を進めていたが、広島サポーターが怒り、移籍反対署名を集め、その結果レンタル移籍に変わった経緯がある。移籍後、京都は低迷し監督は清水秀彦に代わったが、引き続き主力としてチームを支えた。 翌1999年広島に復帰、同シーズンに広島の選手としては初のJリーグ通算200試合出場達成。ただ、元々エディ・トムソン監督からの評価は低く、また森崎和幸の台頭で先発メンバー入りできなくなった。2001年ヴァレリー・ニポムニシに監督が代わるも、ケガのため満足な出場は叶わなかった。 2002年広島からスタッフ転進のオファーを受けるも、現役にこだわり清水秀彦に誘われベガルタ仙台に移籍した。主力として活躍したが、2003年のJリーグシーズン末に仙台はJ2に降格、自身も戦力外通告を受け、2004年1月に正式に現役引退を表明した。
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現役後半
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1993年には斎藤、桑田が軒並み調子を落とす中で孤軍奮闘し、自己最高の13勝、防御率2.28の好成績でチーム最多勝、FAの権利を取得した。シーズンオフになり槙原はいくつかの球団から誘いを受けたが、球団フロントが慰留などの態度を一切示さないことに不信感を持ちFA宣言をする。その後、当時監督を務めていた長嶋茂雄が槙原の自宅を訪問、説得を受けて巨人に残留を決めた。この際に長嶋が槙原の背番号と同数の17本のバラの花束を持ってきた逸話が残されているが、実際は20本だったという。 1994年5月18日に福岡ドームで行われた対広島戦で平成初の完全試合を達成(槙原寛己の完全試合)。平成唯一および20世紀最後の達成者になった。現役引退後には「ミスター・パーフェクト」として紹介されることも多い。完全試合達成は引退会見の際に記者からの質問で「一番思い出に残っている試合はどれですか?」と聞かれた際、「そりゃ、あれですよ。あれしかないですよ」と答えた程で、本人にとってプロ野球人生の中で最高の思い出となっている。前々日の門限破りで外出禁止1か月を言い渡されたため、好投してこれを解こうと奮起した結果であると大久保博元と「おしゃれカンケイ」に出演した際に話している。ちなみに同試合で広島の両主砲、江藤智・前田智徳はともに欠場であった。 同年の西武ライオンズとの日本シリーズでは第2戦と優勝決定の第6戦で完投勝利、2勝0敗・防御率0.50と、今までの勝負弱いイメージを払拭する活躍でシリーズMVPも獲得した。 1995年オフにレーシック手術を受けたが、最初の手術で左目に痛みが出て物が二重に見えるようになってしまい、翌シーズン直前に新しいコンタクトレンズを用意し、シーズン終了後再手術をすることとなった。 1996年は、6月19日のナゴヤ球場での中日戦で音重鎮、山崎武司、大豊泰昭に、3連続本塁打をまたも打たれた。7月、胸の痛みを訴えて入院。肺気胸と診断された。その前日に球団トレーナーが行った鍼治療で電気針を深く打ちすぎたのが原因で、槙原は鍼が原因との自覚を持ちながら、トレーナーを庇うため表沙汰にはしなかったが、球団側が槙原の名誉のために事実を公表。治療を行ったトレーナーを減俸にするなどの処分を行い、槙原には公傷を認めた。槙原は「起きたことは仕方がないので、早くリハビリをして復帰の準備をしたい」などとコメントした。 1998年、開幕から出遅れ4月半ばにシーズン初登板となり5月の頭にシーズン初勝利が通算150勝目の記録となった。しかし初登板から不調な投球が目立ったものの、5月16日の対ヤクルト戦の延長戦でチームは勝ち越したがリリーフ投手を使い切りベンチ入りしていたこともあり登板すると無失点で抑え6年ぶりのセーブを記録。この登板を境に調子を取り戻し次の試合ではシーズン初完封し更に三連勝を記録(通算では4連勝)。しかしその頃チームがストッパー不在に苦しみ6月末からストレート、フォーク、スライダーのキレを買われて、ストッパーに転向。 リリーフでの成績は2勝2敗18S防御率2.93(先発での成績は4勝2敗防御率4.71)を記録し、27試合の登板で無失点で抑えたのは23試合ありセーブ機会での失敗による敗戦は一度だけだった。7月15日の横浜戦では、3点リードの8回に登板。1点を失い、なおも走者一塁のピンチも佐伯貴弘をライトフライに打ち取りチェンジかと思われたがボークが宣告され打ち直しになってしまう。直後に同点2ランを打たれ、続投した9回にサヨナラ負けを喫する。 全国中継が多いチームの宿命からか少しの失敗だけで一部マスコミ等では「ダメ魔神」(さらに犬顔だったことから「犬魔神」とも)と書かれた。これは当時横浜ベイスターズのリリーフエースだった佐々木主浩の「ハマの大魔神」のあだ名をもじったものである。このフレーズは、自虐ネタの達人である槙原が自ら売り込んだほど。契約更改では翌年もリリーフでの登板が濃厚で「200勝は諦めます」と記者会見で発表した。 1999年6月12日の対阪神戦(甲子園)では、12回裏同点一死一・三塁の場面で打者の新庄剛志を敬遠しようとしたが、新庄に敬遠球を打たれサヨナラ負けした。なお、槙原にとってはこれが現役最後の敬遠であった。年間ではプロ入り初の全試合リリーフ登板をしたが、シーズン終盤に不振の投球でストッパーの座は桑田に代わった。 2000年も開幕から引き続きストッパーとしてシーズンを迎えたが敗戦投手にはならないものの投球内容が悪く、7月15日の対ヤクルト13回戦の9回に登板するも一死も取れないまま降板し更に足を負傷、チームは逆転負けをした。その後シーズン終盤に一軍復帰し福岡ダイエーホークスとの日本シリーズ第1戦に同点の9回にリリーフ登板するも、メルビン・ニエベスに決勝本塁打を打たれ負け投手に。故障後に日本シリーズに合わせ無理に体を作ったことで、それまで一度も怪我が無かった肩を負傷、直球が130km/h台に落ち込む。 2001年、肩の怪我からの再起を目指したが一向に回復せず、このシーズンの一軍での登板は引退試合の1試合の登板に留まり、現役引退。引退試合は9月30日の横浜戦で、この試合では槙原から同年引退が決まっていた斎藤雅樹にリレーされ、2人の球を受けたのは同年引退が決まっていた村田真一だった。
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現役後半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 05:08 UTC 版)
1997年、キャンプ前に再び左肩を故障して従来とは明らかに異なる痛みを感じ、精密検査により奥の筋肉に損傷が確認された。このため肩の状態を確かめながら負担を抑えるスローペースな調整をしたものの、オープン戦初登板となった3月20日の対ロッテ戦では球速が最高124km/hにとどまっている。更に試合後には肩関節周囲炎の再発が判明して投球練習ができなくなり、5年連続の開幕投手を断念した。6月に一軍登録され、6月8日のナゴヤドームでの対巨人戦でリリーフとしてシーズン初登板を果たしたものの、球威やキレが戻らず二軍に戻って再調整を続けた。8月に一軍に復帰して8月15日のナゴヤドームでの対ヤクルト戦でシーズン初先発し、最速143km/hの速球と90km/h台のスローカーブで6回を3安打1失点に抑えて初勝利を挙げたが、同年は2勝に終わっている。例年ノースローだった秋季キャンプでは、投手コーチの宮田征典が止めたにもかかわらず積極的に投球練習を行い、感覚が回復してきたと周囲に語っていた。12月6日に結婚式を挙げ、鈴木宗男夫妻が媒酌人を務めている。 1998年、肩の状態が回復し、キャンプから筋力強化や遠投などを重ねた。5月16日の横浜戦(ナゴヤドーム)では、先発した1回に1点を失ったものの、その後は直球で押し、5回1失点の成績でシーズン2勝目を挙げたが、結果的にこの勝利が、現役生活最後の勝ち星となった。6月5日のナゴヤドームでの対巨人戦では最速140km/hを記録して90km/hのスローカーブも戻り、8回131球を投げ2安打1失点の内容で復活の兆しを見せた。しかし好調が持続せず、自身4連敗で迎えた7月9日の対ヤクルト戦に先発して2/3回で5安打4失点とKOされて2勝8敗となると、監督の星野仙一に改めて軟投派への転向を命じられて一軍登録を抹消された。秋からはそれまで強く拒否していたウエイトトレーニングにも進んで取り組み、ランニングや坂路走で下半身を強化し、自身初となる12月の自主トレも行った。この年の契約更改は12月20日の16時に球団事務所で行う予定だったが、早めに家を出たにもかかわらず、名古屋市内の繁華街において、大渋滞に巻き込まれたことや同日17時にチームメイトである門倉健の結婚披露宴を控えており、今中や球団幹部も出席する予定だったことから、契約更改の場を急遽結婚式場に変更した上で行われた。 1999年、2月11日には投球練習を始めるなど早めの調整を行っていたが、一方でブルペンに入るのが怖くなるほど状態が悪化していた。7月15日のナゴヤドームでの対広島戦に先発したものの2回6失点に終わり、福岡市の病院で改めて検査を受けた。当初はリハビリによる治療を考えていたが、良い肩の状態が数日しか続かない状況にケジメをつけるため、炎症の原因だった左肩の滑液包を除去して突起骨を3箇所切除する手術を8月20日に受けている。執刀医が驚くほど患部は悪化していたが5時間かかった手術は成功し、そのまま福岡で数ヶ月間リハビリを続けた。同年は入団後初めてチームがリーグ制覇を果たしたものの、9月30日の神宮での対ヤクルト戦で優勝が決まった時も福岡市内で医師と共に夜釣りをしていたという。結局、このシーズンはプロ入り初の未勝利に終わり、自身プロ入団後初のリーグ優勝には貢献できなかった。ダイエーとの日本シリーズの際には経過報告を兼ねて福岡の宿舎を訪ね、チームメイトに激励の言葉をかけて静かに去っている。 2000年、11年ぶりに二軍キャンプでのスタートとなり、初めて一軍登板のないままシーズンを終えた。オフの契約更改は大幅な減俸となって翌年2月までかかり、星野監督からは「契約するだけでも感謝するように」という最後通告を受けている。 2001年は1月の伊良湖岬での合同自主トレで積極的にランニングに取り組む姿勢が投手コーチの山田久志に評価され、2年ぶりに一軍キャンプでのスタートとなった。キャンプ直前の1月30日には読谷球場のブルペンで100球を投げ込み、キャンプ中も投球練習の球数をこなしたが制球に問題があった。オープン戦では球速が最高131km/hにとどまったものの、フォークやシュートを駆使して3月3日の対ロッテ戦では4回を1失点に抑えている。しかし野手の状態が上がるに連れて打たれる場面が増え、3月23日の教育リーグでの対阪神戦では5回106球を投げて8安打5四球3失点の内容で、開幕一軍入りを諦めた。同年は7試合に登板したものの、気力の限界などから10月に引退を決意。山田は中継ぎとしての再生を考え、他球団からも獲得の打診があったという。11月10日に引退の記者会見を開いた。
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現役後半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:54 UTC 版)
「セザール・サンパイオ」の記事における「現役後半」の解説
1999年ブラジル帰国後、パルメイラスに復帰しコパ・リベルタドーレス1999制覇に貢献する。日本に凱旋する形でトヨタカップにジーニョらと共に出場したが、マンチェスター・ユナイテッドに0-1と敗れた。 2000年翌シーズンにはスペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャへ移籍するも、マウロ・シルバとドナトからレギュラーを奪えなかった。 2001年SCコリンチャンス・パウリスタに移籍後、2002年柏レイソルに入団する。ただ柏ではチームにうまくハマらなかった。 2003年、当時Jリーグ ディビジョン2(J2)のサンフレッチェ広島へ移り、チームのJ1昇格に貢献した。翌2004年8月一旦引退発表し広島からスタッフ入りを打診されていたが、オファーが来たことからサンパウロFCでプレー、同年12月正式に現役引退した。
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