現役後期
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1996年にデーブ・ジョンソン監督は若手有望株だったマニー・アレクサンダーを遊撃手に据えようと考え、リプケンを三塁手へ再コンバートしようとした。結局、この案は約1週間しか続かなかったが、この間リプケンはアレクサンダーと1ヶ月以上も話をしなかったという。アレクサンダーは翌1997年にニューヨーク・メッツへトレードされた。アレクサンダーはリプケンを恨み続け、背番号8を提示されたがリプケンと同じ番号であるという理由から拒否した。 1997年からは三塁手として出場を続けた。 1998年の本拠地最終戦となった9月20日、自ら欠場を申し出て連続試合の記録は2632で終わった。。 1999年3月25日に父のシニアが亡くなり精神的に大きなショックを受け開幕を迎えた。開幕から不調で打率.179の成績で4月19日に腰痛のため自身初の故障者リスト入りとなった。故障から復帰して以降は調子を上げ、6月13日のアトランタ・ブレーブス戦で球団記録の1試合6安打を記録。7月には年俸630万ドルで2000年の契約を延長した。8月3日に再び腰痛でリスト入りとなり、2度の故障者リスト入りで出場試合数は86に留まり規定打席に達していないが、打率.340は自己最高となった。 2000年4月16日のミネソタ・ツインズ戦で3000本安打を達成。
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現役後期
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平幕優勝に続く2012年7月場所では、東前頭筆頭の位置で初日から8連敗と早々に負け越しが決まり、以降も精彩を欠いて初日から13連敗を喫してしまい、14日目と千秋楽には勝利して15戦全敗は免れたものの、結果的には2勝13敗という大敗に終わった。1場所15日制が定着した1949年以降で、前場所の優勝力士が翌場所において初日から8連敗で負け越すのは史上初のこととなり、また前場所の優勝力士が翌場所に皆勤して13敗を喫したのは1968年5月場所における若浪および2000年5月場所における貴闘力と並ぶ史上1位のワースト記録となった。 東前頭11枚目の位置まで番付を下げた翌9月場所では、幕内では自身初となる初日からの8連勝で中日に勝ち越しを決めた。38歳0か月3日での幕内中日勝ち越しは、1952年1月場所における羽黒山の37歳2か月を60年ぶりに更新する史上最年長記録となった。9日目には栃煌山を破り通算813勝目を挙げて、高見山が持つ外国出身力士の最多通算勝利記録を28年ぶりに更新した。その後は優勝争いからは脱落し、勝てば敢闘賞受賞が決まっていた千秋楽の豪栄道戦にも敗れてしまい三賞受賞も逃したものの、10勝5敗という好成績を挙げた。翌11月場所でも10勝5敗の成績を挙げて自身初となる2場所連続しての2桁勝利を記録した。 2013年3月場所では9日目に通算出場1655回を記録して、高見山が持つ外国出身力士の最多通算出場記録を29年ぶりに更新した。同年9月13日には39歳の誕生日を迎えて、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては、1984年3月場所において39歳8か月で十両へ陥落するまで幕内に在位した高見山に次いで2人目となる39歳の幕内力士となり、直後に行われた同年9月場所では13日目に勝ち越しを決めて、年6場所制となった1958年以降では1983年11月場所において39歳5か月で勝ち越しを果たした高見山に次いで2人目となる39歳での幕内勝ち越しを記録した。 2014年1月場所では10日目に白鵬と結びの一番で対戦し、昭和以降では1983年7月場所での千代の富士戦における高見山の39歳0か月を抜いて史上最年長となる39歳4か月での結びの一番への出場を記録した。11日目には魁皇を抜いて史上3位となる通算出場1732回を記録した。翌3月場所では12日目に勝ち越しを決めて、年6場所制となった1958年以降では高見山を抜いて史上最年長記録となる39歳6か月での幕内勝ち越しを記録すると同時に、39歳を迎えて以降に複数回の幕内勝ち越しを記録した史上初の力士となった。 翌5月場所では初日の時点で39歳7か月28日となり、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては、1984年1月場所千秋楽における高見山の39歳7か月6日の記録を30年ぶりに更新しての史上最年長幕内力士となった。6日目には新横綱の鶴竜と、7日目には白鵬とそれぞれ結びの一番で対戦し、自身が持つ結びの一番の史上最年長出場記録を39歳8か月に更新した。10日目には同場所における初白星を挙げて、1984年1月場所初日に幕内にて高見山が39歳206日で挙げた白星の記録を抜いて、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては最年長記録となる39歳249日での幕内勝利を記録した。翌7月場所では14日目に寺尾を抜いて史上3位となる幕内通算出場1379回を記録した。 2014年9月13日には40歳の誕生日を迎えて、昭和以降では1954年9月場所における名寄岩以来となる5人目、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては史上初となる40歳の幕内力士となり、その翌日から開始された同年9月場所では、初日に隠岐の海を上手投げで破り、1954年9月場所千秋楽において名寄岩が増巳山に勝利して以来60年ぶりとなる40歳での幕内勝利を記録した。13日目には栃乃若を破って勝ち越しを決めて、昭和以降では1935年5月場所における能代潟と1941年5月場所における藤ノ里に続いて3人目、戦後および年6場所制となった1958年以降では史上初となる40歳代での幕内勝ち越しを記録した。千秋楽には寺尾を抜いて史上2位となる通算出場1796回を記録した。 翌11月場所では4日目に大潮に次いで史上2人目となる通算出場1800回を記録し、5日目には高見山・魁皇に続いて3人目となる幕内通算出場1400回を記録した。6日目には千代大龍を寄り切りで破り、魁皇・千代の富士・大潮・北の湖に続いて史上5人目となる通算900勝を達成した。9日目には豊ノ島を破って勝ち越しを決めて、昭和以降では1935年5月場所における能代潟の40歳1か月15日を抜いて史上最年長記録となる40歳2か月4日での幕内勝ち越しを記録すると同時に、40歳代を迎えて以降に複数回の幕内勝ち越しを記録した史上初の力士となった。その後は優勝争いからは脱落したものの、勝てば敢闘賞受賞が決まっていた千秋楽の千代丸戦には勝利して、最終的には10勝5敗の好成績を挙げて7回目の敢闘賞を受賞し、1958年11月場所において38歳9か月で技能賞を受賞した若瀬川の史上最年長三賞受賞記録を56年ぶりに更新すると同時に、昭和以降では史上初となる40歳代での三賞受賞 ならびに幕内での2桁勝利を記録した。 2015年3月場所では6日目に高見山を抜いて史上2位となる幕内通算出場1431回を記録した。翌5月場所では5日目に魁皇を抜いて史上1位となる幕内通算出場1445回を記録し、14日目には佐田の富士を破って勝ち越しを決めて、自身が持つ昭和以降における幕内勝ち越しの史上最年長記録を40歳8か月10日に更新した。 西前頭11枚目の位置で迎えた同年7月場所では、9日目に豊ノ島に敗れて寺尾を抜いて史上1位となる通算939敗目を記録した。11日目には貴ノ岩に敗れて負け越しが決まり、以降も精彩を欠いて全く白星を挙げることができず、最終的に3勝12敗と大敗して、翌9月場所における十両陥落が決定的となった。本人は十両へ陥落した場合は十両では相撲を取らずに引退することを公言していた ため、千秋楽の翌日となる同年7月27日に現役引退を発表し、年寄・4代大島を襲名して友綱部屋の部屋付き親方に就任した。引退会見では「白星黒星で左右される勝負の世界。年齢がいくと気持ちのダメージが大きい。自分の力が無くなったんじゃないかと。気持ちの糸が切れた感じ」とコメントし、「十両で、もう一回(関取の)スタートラインにいく自信はない」ともこぼした。思い出の一番として2012年5月場所の優勝決定戦を挙げており「土俵の上で泣いたのは初めて。あの優勝で、いろんな人に知ってもらったし、僕も成長できた」と振り返った。親方としての目標を「たくさんの拍手、声援をもらい、みんなに愛される力士を育てたい」と語り、将来は部屋持ち親方として“旭天鵬2世”を送り出す夢を明らかにした。同年7月29日にはウランバートル市内で夫人と9年越しに結婚式を挙行した。 明治神宮例祭奉祝 奉納70回全日本力士選士権大会 横綱土俵入り(2011年10月3日撮影) 太刀持ちの魁聖を伴った白鵬の横綱土俵入りで露払いを務める旭天鵬(2012年3月2日 住吉大社)
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