現役引退~晩年
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二回目の大関陥落後も様々な病気・怪我が減る気配は一向に無く、幕内も前頭下位にまで落ちていたが、名寄岩は懸命に土俵を務めていた。1950年5月場所では西前頭14枚目の地位で土俵に上がり、9勝6敗の成績で2度目の敢闘賞を受賞した。1952年9月場所では千代の山から金星を奪うなど健在ぶりを発揮し、再び敢闘賞を受賞した。1954年5月場所千秋楽には、全力士の鑑として日本相撲協会から特別表彰を受けた。同年9月場所を最後に現役を引退したが、若い頃からのライバルだった羽黒山より1年遅い引退となった。最後の土俵となった1954年9月場所千秋楽には40歳と6日で、これはちょうど60年後の2014年9月場所7日目に旭天鵬に更新されるまで、戦後の最高齢幕内出場記録だった。 現役引退後は年寄・春日山を襲名して春日山部屋を再興。旧・春日山部屋閉鎖後に立浪部屋預りとなっていた前頭・大昇充宏を育成し、直弟子からは白法山旺三が十両昇進を果たした。協会内では長く勝負検査役を務めていたが、1965年脳出血で倒れ1966年参与に退いた。その後肝臓癌になり白法山が関取昇進を決めた1971年初場所千秋楽から2日後の1月26日に肝臓がんで死去。56歳没。 名寄岩の死去から10年が経過した1981年、故郷の名寄市に名寄岩の銅像が建てられた。また、2006年には孫(長女の子)が「片桐」の四股名で松ヶ根部屋に入門して祖父(名寄岩)に続く関取昇進を目指したが、幕下昇進を間近にしながら網膜剥離でドクターストップとなり、2010年11月場所を最後に現役を引退している。
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現役引退~晩年
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1962年3月場所で5勝10敗と大きく負け越し、来場所の十両陥落が決定的になったところで現役を引退し、年寄・武隈を襲名した。引退時は39歳で、両国駅での毎朝の自主トレーニングが丈夫で長持ちするということを実証した形となった。年寄・武隈としては日本相撲協会の理事や監事を歴任し、春日野理事長の体制を支える重要な役割を担った。弟弟子である安念山治(羽黒山礎丞)からも全幅の信頼をおかれ、1969年10月に先代立浪(元横綱・羽黒山)が亡くなると、年寄・追手風を襲名していた羽黒山礎丞(=安念山)が「立浪」を継承する際に「武隈親方がいれば大丈夫だ」と言われるほどだった。在職中には日本テレビの相撲放送解説を務めていた。 1987年の年末に横綱・双羽黒光司が立浪とちゃんこの味付けを巡って衝突し、女将を突き飛ばして部屋を飛び出す騒動が発生した(双羽黒廃業騒動)。武隈は双羽黒の居場所を突き止め、結果としてそのまま廃業となったことで失敗に終わったものの、双羽黒に対して部屋に戻って謝罪するように説得に当たるなど、騒動解決に奔走した。 1988年1月場所を最後に停年退職し、娘婿の元関脇・黒姫山秀男に年寄・武隈の年寄名跡を譲った。自身は本名の「緒方 昇」としてNHKの相撲解説を務めたほか、タレントとしてNHK総合テレビのクイズ番組「クイズ日本人の質問」に出羽錦忠雄と共に解答者(大相撲チーム)として準レギュラー出演していたほか、1996年には映画「スーパーの女」(伊丹十三監督)に出演したことが話題となった。 2000年1月場所を最後に勇退した後も新聞などで相撲の評論活動を行っていたが、2001年の春に脳梗塞で突然倒れて療養生活を送る。一時快方に向かったが2002年1月8日、脳梗塞のため栃木県塩原町の病院で死去、78歳没。墓所は旧・両國國技館が開館するまで相撲が行われていた、両国の回向院にある。
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現役引退・晩年
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「三遊亭圓楽 (5代目)」の記事における「現役引退・晩年」の解説
『笑点』降板後に出演した『徹子の部屋』(テレビ朝日、2006年6月5日放送)では落語家として引退はせず、後輩の指導にあたると発言した。また同年7月20日放送の『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ)では、初代 林家木久蔵(現:林家木久扇)の応援としてVTR出演している。 2007年2月25日に落語会「国立名人会」で高座に復帰することとなり、自分の進退をかけ本番の半年前から稽古をして臨んだ。しかし、その出来に納得がいかずに引退を決意。口演後の記者会見で現役引退を表明した。弟弟子の6代目三遊亭圓窓が「まだやれるじゃないの。高座に上がらない圓楽兄さんなんて考えられない」などと説得をしたものの決意は固かった。引退記念の高座が予定されていなかったことから、この日演じた『芝浜』が最後の高座となった。 また同年4月1日放送『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ)の出演をもって、テレビ出演の引退も表明した(2008年3月9日放送『笑点』には弟子の真打昇進披露口上のため出演した)。なお、1967年(昭和42年)から担当していた日本香堂のCMは2009年まで出演を継続していた。生前の圓楽の言によれば「ギャラもらってるからね」という理由でCMのみの出演を続けていたとのことであるが、実際は日本香堂の会長と私的にも交流のあったためであり、また引退後も自分の健在をアピールできる唯一の場であったためと圓楽没後に前述の会長がテレビで語っている。 同年11月に胃がんの手術を受け、翌2008年3月には肺がんの手術を受けた。 2008年8月、愛弟子の楽太郎に自らの名跡である圓楽を6代目として襲名させることが明らかとなった(林家木久扇による、子息の2代目木久蔵襲名以来となる生前贈与となる予定であった)。このことは弟子の好楽や後任司会者の歌丸により『笑点』でもネタにされている。圓楽は「私はもう落語家を引退した身ですから」として楽太郎の6代目圓楽襲名後は落語界から完全に引退し、隠居することを表明していた。名前については、木久扇の師匠である林家彦六(8代目林家正蔵、彦六は三遊亭圓楽を3代目として名乗っていたこともあった)のように隠居名を名乗らず、本名の「吉河寛海」に戻すことを明らかにしたが、「師匠が落語家でなくなってしまうのは嫌だ」という楽太郎の反対により「5代目圓楽」「6代目圓楽」とを並立させる(楽太郎は〈圓〉ではなく〈円〉を通すと表明)予定であった。 2009年5月、肺がんが再発。同時期に脳梗塞も再発し、半身不随となった。9月に慶應義塾大学病院に入院し、本人の意向により10月23日に退院。自宅(および近所に住む長男宅での)療養に入った。10月29日午前8時15分、転移性肺がんのため、長男宅で76歳(享年77歳)で死去。訃報は翌日の10月30日に公表された。圓楽の死去を受け、愛弟子の楽太郎を始め、桂歌丸、立川談志、林家こん平、8代目橘家圓蔵、鈴々舎馬風など多くの落語家が哀悼のコメントを発表した。また、かつては『笑点』の裏番組(『ヤングおー!おー!』)の司会を長年担当し、東西の噺家タレントとしてライバルであり戦友でもあった桂三枝(現:6代桂文枝)が自らのブログで圓楽へ向けた哀悼のメッセージを綴った。 圓楽は2010年2月に行われることになっていた楽太郎の6代目圓楽襲名を楽しみにしており、襲名に際し2代の圓楽揃い踏みが行われるはずであったが、目前にして叶わぬ夢となってしまった。 死去の一報を受けた日本香堂は自社のホームページで哀悼の意を表した。その後、日本香堂・毎日香のCFナレーションは、2010年2月28日より、同日の『笑点』をもって名跡を襲名した直弟子・6代目圓楽が継承している。また、死去翌日の『NNN Newsリアルタイム』(日本テレビ)ではその死がトップニュースで報じられた。 戒名は、「光岳院情誉圓楽寛海居士」(こうがくいんじょうよえんらくかんかいこじ)。遺影も圓楽が生前に選んでおり、国立演芸場での高座で『芝浜』を演じている際の写真が使われた。死去直後の週の11月1日の笑点は歌丸が喪服で追悼する特番が大喜利の前に組まれ、生前の若いころの落語を演芸コーナーで放送し、死去前に収録した大喜利が放送された。死の翌週、2009年11月8日の『笑点』では追悼特別企画として生前を振り返り、後半では「ありがとう円楽さん、追悼大喜利」を放送し、5代目を偲んだ。副音声での解説放送は休止された。 一門・親族による、通夜・密葬は2009年11月4日・5日の両日に代々幡斎場で非公表で執り行われ、同年11月21日に一門主催による「お別れの会」が東京會舘で行われた。この「お別れの会」の席の中で、これまでの「圓楽一門会」をそのまま「五代目円楽一門会」(会長:三遊亭鳳楽)へ改称・改組する方向であることが明らかになった。
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