小説家時代
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初期は直木賞を受賞した『梟の城』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代・伝奇小説が多い。忍者を主人公にした作品が多く「忍豪作家」(五味康祐ら「剣豪作家」にちなむ呼び名)とも呼ばれた。また、初期数編が西アジアを主要舞台としている点も(当時としてはなおのこと)異色でありながら、後年の創作へは(エッセイ等では同地への強い関心を維持しつつも)引き継がれなかった。推理小説も書き、『豚と薔薇』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。 だが、1962年(昭和37年)より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』、1963年(昭和38年)より『国盗り物語』を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を本格化させた。この辺りの作品より、作者自ら、作中で随筆風に折込解説する手法が完成している。1964年(昭和39年)には、終のすみかとなる布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居した。近所には付近の大地主であり上宮中学からの同級生の山澤茂雄がおり終生交流が続いたの(「近所の記」)ちに「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と記している。1966年(昭和41年)、菊池寛賞を受ける。その後も『国盗り物語』に続き、『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓した。 1971年(昭和46年)から、紀行随筆『街道をゆく』を週刊朝日で連載開始した。1972年(昭和47年)には明治の群像を描いた『坂の上の雲』の産経新聞での連載が終了。また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』(日本芸術院恩賜賞)に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。1970年代中期から80年代にかけ、明治初期の『翔ぶが如く』や、『胡蝶の夢』、江戸後期の『菜の花の沖』、戦国期の『箱根の坂』などを著し、清朝興隆の時代を題材にした『韃靼疾風録』を最後に小説執筆を止める。「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ『風塵抄』、『この国のかたち』に絞り、日本とは、日本人とは何かを問うた文明批評を行った。 1981年(昭和56年)に日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者となり、1993年(平成5年)に文化勲章を受章した。このころから腰に痛みを覚えるようになる。坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となる腹部大動脈瘤であった。それでも「街道を行く 台湾紀行」取材の折に、当時台北で台湾総統だった李登輝との会談「場所の悲哀」を行ったり、「街道を行く」取材で青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続ける。また、晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった。 1996年(平成8年)1月、「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、大阪市中央区の国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、2日後の2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去した、72歳。同日は「菜の花忌」と呼ばれている。死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆「濃尾参州記」は未完となった。親族・関係者による密葬を経て、3月10日に大阪市内のホテルで「司馬遼󠄁太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列した。法名は、「遼󠄁望院釋淨定」。政府から従三位を追賜された。 翌年に司馬遼󠄁太郎記念財団が発足し、司馬遼󠄁太郎賞が創設された。2001年(平成13年)に、東大阪市の自宅隣に司馬遼󠄁太郎記念館が開館。司馬遼󠄁太郎記念室がある姫路文学館では毎年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬遼󠄁太郎メモリアル・デー」を開催している。また、NHK大河ドラマ原作となった作品数は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」(後にNHKスペシャルドラマと変更)と称する『坂の上の雲』を含めると7作品である。
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小説家時代
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2000年、風水で吉方とされる真南に講談社があったことで、江戸川乱歩賞への応募を決意。2001年、死刑制度を扱ったミステリー『13階段』で第47回江戸川乱歩賞を満場一致で受賞。選考委員の逢坂剛は「素人ばなれした腕前、といってよい。選考委員全員が一致して推したのは、最近では珍しいのではないか。ここ十年ほどの乱歩賞受賞作の中でも、出色の佳作だと思う」と評した。同作品は40万部を売り上げ、乱歩賞受賞作品の中でもっとも速く高い売り上げ記録を達成している。 2008年、「6時間後に君は死ぬ」がWOWOW「ドラマW」枠で映像化された。その際脚本を担当した。また、後半部分の「3時間後に僕は死ぬ」では監督を担当した。 2011年に発表した『ジェノサイド』で第2回山田風太郎賞と第65回日本推理作家協会賞を受賞。同作は「週刊文春ミステリーベスト10」と「このミステリーがすごい!」の両方で1位に選ばれた。2013年12月に文庫化されると、2014年5月には発行部数が累計100万部を突破するベストセラーになった。オリコンが発表した「2014年年間“本”ランキング」の文庫総合TOP50でも、上下巻併せて50万部を売り上げている。
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小説家時代
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1945年(昭和20年)、早稲田大学法律学科に入学するが、勤労動員に追われる。翌年に小説家を志し、国文科の聴講生となる。大学の創作研究会懸賞小説に応募し、「麦秋」で入選するが、原稿は行方不明になってしまい、発刊もされなかったので、幻の処女作となった。 1947年(昭和22年)より米本光代と結婚したことを受け、日本へ帰化。相手方の姓をとって、米本 正秋となる。 1948年(昭和23年)7月、長男潮誕生とともに婚姻届を提出。日本の古典、とくに中世の古典に強く惹かれ、能、陶磁器、日本庭園などを好み、世阿弥の『風姿花伝』で作家としてのあり方を学ぶ。小説を本格的に書き始める。 1949年(昭和24年)2月発行の民族雑誌『自由朝鮮』に、短編小説「ある父子」を金胤奎名義で発表。 1951年(昭和26年)に丹羽文雄主宰の『文学者』に載った「晩夏 或は別れの曲」は、現存する最初の作品である。この時に名乗ったペンネーム『立原正秋』が、生涯を通した名乗りとなる。 1953年(昭和28年)4月、長女幹誕生。 1961年(昭和36年)、「八月の午後と四つの短編」で第2回近代文学賞を受賞。 1964年(昭和39年)、『新潮』に発表した「薪能」が芥川賞候補となり、単行本として出版された初の作品となった。同年11月、同人雑誌『犀』を1967年(昭和42年)まで刊行することとなる。 1965年(昭和40年)には「剣ヶ崎」で再び芥川賞候補になるとともに『別冊文藝春秋』第93号に発表した「漆の花」は直木賞候補となり、第94号に発表した「白い罌粟」で翌年の直木賞を受賞した。 1968年(昭和43年)より第7次『早稲田文学』編集長を務める。同年、初の新聞連載小説「冬の旅」を『読売新聞』にて開始。 1973年(昭和48年)から『日本経済新聞』で「残りの雪」を連載。その後、日経映画社・東京12チャンネルによってテレビドラマ化される。同年、29年ぶりに韓国を訪ねる。 1976年(昭和51年)、『藝術新潮』に「日本の庭」連載。 1977年(昭和52年)、『日本経済新聞』に「春の鐘」を連載。 1979年(昭和54年)、『読売新聞』で「その年の冬」の連載を開始するが、体調を損ねる。 1980年(昭和55年)、書き下ろし小説『帰路』を発表するが、4月に聖路加国際病院に入院。6月に戸籍名も『立原正秋』と改めたが、その2ヶ月後の8月12日、国立がんセンターにおいて食道癌により死去。54歳没。戒名は凌霄院梵海禅文居士。 墓所は鎌倉市二階堂の瑞泉寺。 同年、『恋人たち』(光風社、1965年)と『はましぎ』(新潮社、1973年)を原作として脚色した作品が 主演 根津甚八 『恋人たち』としてTBSによってテレビドラマ化される。
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