上代より近世とは? わかりやすく解説

上代より近世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 02:24 UTC 版)

浜黒崎村」の記事における「上代より近世」の解説

紀元前88年崇神天皇10年)- 大彦命高志道を綏撫したとされる大宝年間この頃越国越前越中越後の4国に分割された。また、新川郡この頃までには成立していたといわれる。なお、正史窺い得る新川郡初出は、『続日本後紀839年承和6年12月8日条である。 726年神亀3年)- 泉福寺開基の僧明仙が、数万の石を洗い清め、その面に法華経文を浄写し塚をなす。 863年貞観5年)- 6月越後越中大地震あり、家屋崩れて死者多数927年延長5年)- 本年成立の『延喜式』に北陸道新川郡内の駅として「磐瀬」、「水橋」の文字がみえるが、この水橋駅水橋荒町・ 辻ヶ堂遺跡比定されていることから、磐瀬から水橋に至る北陸道本村該当区域内を通っていた。また、越中国内の税率やその期限運賃等定められた。 1187年文治2年)- 源義経奥州落ちの折、当村域内を流れる川を眺めて、その形状琵琶似ていることから京を思い起し感興耽り以後これを琵琶川と呼称する。また古志の松原義経掛け伝説がある。『義経記曰く、「すこしも違はぬ風情とて、磐瀬のもりにつき給ふ其日はこゝにとまり給ひけり。あくれば黒部のやどに、すこし休せ給ひて」。 1207年承元7年)- 親鸞当地(「親鸞上人腰掛け」と呼称される)の下で暫時休息をとったとの伝説がある。 1308年延慶元年)- 清和天皇皇子貞純親王嫡流九代後胤多田良之基の次男多田良政道(埜崎家祖)が守邦親王より住吉三神御墨付賜りこれを奉斎する。これを基として越中下向した埜崎家の手により、1571年元亀2年平榎住吉社創立された。 1491年延徳3年)- 3月14日冷泉為広がその『越後下向日記』において「ヨカタ里」より「イハセ渡」を経て「ヒカタイ」、「クロザキ」を過ぎ、「ハシ」の渡船乗船したとの記述がある。 1504年永正元年)- 征夷大将軍足利義澄の命によって神保慶宗支配下入り当地に於いて38千石与えられ河内国枚方城主の埜崎政光の子政彌が、当村域内の平榎築城する。2015年平成27年12月27日北日本新聞報道によると、富山市埋蔵文化センター試掘調査によって、当城のものとみられる遺構発見された。なお天正年間当城上杉謙信によって落城させられ当時城主たる政彌の嫡男政弘は戦死している 1517年永正17年)- 10月朝廷伊達稙宗左京大夫に任ぜられ稙宗はその礼を述べるため頤神軒存奭を京に遣わしたが、その頤神軒存奭が水橋、磐瀬の各渡渉点で船賃として百文を支払ったことを記録しており、中世に於ける北陸道比定有力な史料とされている。 天正年間大村城出城として日方江城築城され、江上左衛門居城するが、佐々成政によってこれを追われる。『越中志徴』曰く、「故墟考に、在二長日方江領一。平地也。湟塁の遺蹟僅に存す。三辺田畑所々田水多し。西に窪川流る自二大村故城一二十町余。今は民の居地となる。邑伝に、江上左衛門居せしが、天正中成政之を追ふと云へり。重左衛門一作十郎一。○寶永誌に、日方江領内内城跡有レ之候。昔江上十郎と申者致二居住一候由申伝候。○文政九年絵図方留記郡方答書に、日方江館跡の西にて、畑並人々居屋敷に相成居申とあり」と。『肯構泉達録』曰く、「日方江城 江上左衛門住す」と。 1578年天正6年)- 轡田豊後守の居城たる大村城上杉景勝攻略し轡田豊後守が戦死する。この時、謙信大村城内の望見のため、当村域内の村民に「そうけ(筒箕)一杯の土砂を持ってきた者に銭三文与える」と布告し、これによって一夜のうちに大丘が築かれた。この丘は現在当村域内の日方江にある天神社境内にあり、「そうけ塚」、「三文塚」などと呼ばれている。 1583年天正11年)- 2月寺島民部左衛門旧領の「ひかたへなかえの木一円」を、勲功による賞として大関親憲与えるとの記述が、上杉景勝契約状(「於越中勲功寺島民部左衛門分令契約地之覚」)にみえる1601年慶長6年)- 浜街道松並木植樹される。『加賀藩史料』及び『越中史料』にもこの記述があり、『加賀藩史料』は『應事通載』の「慶長六年往還並松為御植樹被為成候」を、『越中史料』は『加賀藩民事志』の「慶長年令シテ往還ニ栽ヱシム、往還トハ官道ヲ曰フ」を引用している。元来常願寺川渡渉であった西水橋町辻ヶ堂はそれまで海岸沿いを伝ってきた北陸街道が、富山の町へ向う脇道と辻ヶ堂から海岸沿って氷見まで通ずる「浜街道」の分岐点であって浜黒崎松並木はこの浜街道沿いに植樹されたものであった土屋義休が1714年正徳4年)に著した加越能大路水経』によると、東岩瀬駅が「寛文二年新宿被仰付候」として新たに駅宿に指定されているが、これは1660年万治3年)に富山藩富山の町を加賀藩より譲受したことによって新たに富山経由しない街道整備するため行われたものでもあったといわれる坂井誠一往時北陸街道について「北陸街道の主道はこのように富山はずれていた。これは富山を通ることは距離的に廻り道になるのみならず富山藩領を避けようとの意図にもよるもの思われるのである然し富山を通る別道も勿論開かれていた。その一つは今石動より戸出中田水戸田通り安養坊越えて富山に出るものであり、他の一つ小杉より戸波、安養坊経て富山に出るものである富山を通る時は新庄経て西水橋至り本道合流するのである」と述べている。松並木植樹理由参勤交代の折に積雪時の目印となすため、また街道美観慮ってのことであるといわれる1604年慶長9年)- 2月徳川秀忠北陸道諸道に里堠を築かせる。当村域においては富山学園前一里塚築き、また堠樹として植えた1623年元和9年)- 横越に慶善が西蓮寺創建。『加越能寺社由来所収の「三州寺号帳」には「元和九慶善 同郡(引用者註:新川郡針原横越村同断 西蓮寺」とあり、また「貞享二年寺社由緒書上」にも「当寺開闢者、元和年ニ慶善と申僧建立ニ而」とある。 1639年寛永16年)- 6月前田利常致仕許され加賀藩領を前田利光加賀藩80万石前田利次富山藩10万石、前田利治大聖寺藩7万石分かつ富山藩該当区域越中国のうち婦負郡及び新川郡浦山地方であったため、当村域内は全域加賀藩であった1644年正保元年)- 空善が泉福寺再興。『加越能寺社由来所収の「貞享二年寺社由緒書上」には「当寺開闢者、旧記等無御座候故、年号由来知レ不申候。中興正保元年九月十八日ニ寺再興拙僧入寺仕候」との証言が残る。 1646年正保3年)-正保郷帳日方江黒崎村横越村平榎記載あり。 1674年延宝2年)- 横越村針原横越村改称1696年元禄9年)- 江間氏親の『行嚢抄』の東岩瀬西水橋間の記述次の如くある、曰く日方江 路ノ右ニアリ 枇杷川 小川黒崎村 路ノ右ニアリ 今川 小川也」と。 1703年正徳3年)- 白山社に「大江山酒呑童子奉納される。当村内最古現存絵馬である。順に1802年享和2年)の「那須与一扇の的図」、1815年文化12年)の「徳川工作釿始之図」が当村内の古い絵馬であるが、これらは何れも常磐神社奉納されている。同社浜黒崎村産土神にして、『加越能寺社由来所収の「貞享二年寺社由緒書上」には「草創年号不レ知。昔細川越中殿建立之由申伝候得共、乱世之比縁起寺焼失委曲之義不レ知」とされており、神職若宮氏が務めている。末社地主神明貴船諏訪八幡悪王子春日の七社があったが、後述如く凡て合祀され社号常磐神社改称された。この貴船神社については『越中国式内旧社記』に「針原横越村鎮座往古山城貴船社新保庄内也、故勧請云」とある。同書においてはまた、「同庄内黒崎村鎮座、今称ニ白山明神一」とあり、往古白山社天神社称していたことは、『越中国神社由来』の「黒崎村天神社当社天神開闢年号知不レ申候、古ハ細川越中殿御建立之由申伝候得共、乱世之節何茂焼失仕、縁起等無ニ御座一ニ付、知不レ申候」及び『三州地理志稿』の「天神祠 在針原黒崎村細川越中営」の記述からもわかる。 1720年享保5年)- 寶蔵寺浜黒崎移転1780年文化6年)- 日方江に了照寺開基寶蔵寺住職慈賢が親鸞御影質入れし86を以て村民困窮を救う。 1784年天明4年)- 寶蔵寺住職慈全が梵鐘質入れし90を以て村民困窮を救う。 1794年寛政6年)- 9月横越稲荷社奉鎮。当社北の竹藪当時加賀藩矢箆竹の産地であったという。『越中志徴』に曰く、「文政社号帳に、針原横越村鎮座産土神稲荷社にて、別社四社あり」と。 1798年寛政10年)- 5月白山社社殿再建されるこの年成立富田景周『越登賀三州志』に「長」とあるが、吉田東伍の『大日本地名辞書』はその記述則り、この長郷に浜黒崎属していたものとしている。だが、富田景周1815年文化12年)の『三州地理志稿』に於いては「長郷、在郡西、統大村東至飯野郷、西至大海、南至広田郷、北至針原郷」として、その長郷に属す地名に当村域内からは日影針木日方江挙げ黒崎浜黒崎古称)は高野郷、平榎野田針原横越高来針原郷に属するものとしており、吉田東伍見解とは一致しない。長というのはもと東岩瀬町地名である大村古称であったが、後世至って針木日方江など4ヶがこれより村立てされる際に、その親村という意味で「大村」と名付けたのだという(『越中志徴』曰く、「長本郷は、今此郷内なる大村てふ村落その本郷にて、昔は長呼べり。此より日方江針木村・田畑村中田村四村を建たり。故に親村の由にて、大村称すと」)。長地名先に述べた如く1583年天正11年の上景勝契約状にも見えている1803年享保3年)- 8月伊能忠敬浜街道現在の富山県道1号線)を伝い日方江浜黒崎横越海岸測量を行う。 天保年間高来高畠創建田地掠奪企図から救った改作奉行高畠太郎の徳を讃えたものという。 1838年天保9年)- 前田斉広正妻鷹司隆子眞龍院)の『眞龍公自東都金城の御紀行中水岩瀬間に「高麗野といふに、千種花咲きみだれたるを、こま野なる野辺は錦にいく千種重ねにし花の百艸」との記述がある。 1839年天保10年)- 富山藩黒崎村との区別のため、当正式に浜黒崎村改称1842年天保13年)- 9月野田神明社創建1844年天保15年)- 3月高来高来創立同社はもと西水橋町荒町所在高麗神社分社であって上古この地に高麗人住んでいたことに由来するといわれる。『越中志徴』曰く、「或云、此高麗略字にて、上代此地に高麗人置かれしにやと。按ふに、続日本紀に、霊亀二年五月辛卯、以二駿河相模甲斐上総下総常陸下野七國高麗人七百九十九人一。遷二于武蔵国一。始置二高麗郡一焉。とありて、和名抄に、武蔵国高麗郡に即ち高麗といへる郷名あり甲斐名勝志に、甲斐国巨麻郡麻郷あり。風土記に、或高麗とあり。此地は霊亀二年に武蔵国へ遷されし高麗人居たる地なるべしといへり」と。 1858年安政5年)- 2月飛越地震発生鳶山崩れによって常願寺川河流一帯大被害死者140人、負傷者8945人、流出家屋1603戸。これによって常願寺川氾濫頻発暴れ川となり、本村もこの水害に度々悩まされるうになる横越稲荷社境内小祠は、この地震によって霊峰立山より流れた石を祀るのである。当村域に於いては地震によって全潰家屋浜黒崎に於いて3戸、日方江に於いて1戸、日影に於いて1戸あり、半潰家屋浜黒崎に於いて11戸、針原横越に於いて2戸、日方江に於いて5戸、日影に於いて2戸、針木に於いて2戸の被害があり、広田内の罹災者は島組、高野組、上条組、下条組、西加積組、中加積と共に全壊家屋一戸につき3斗5升、半壊家屋一戸につき1斗7升5合の貸米受けた1859年安政6年)- 4月天然痘流行によって当村内罹患者75人、死者12人。 慶応年間日方江天神社創建

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