上代より近世
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紀元前88年(崇神天皇10年)- 大彦命が高志道を綏撫したとされる。 大宝年間- この頃、越国が越前、越中、越後の4国に分割された。また、新川郡もこの頃までには成立していたといわれる。なお、正史に窺い得る新川郡の初出は、『続日本後紀』839年(承和6年)12月8日条である。 726年(神亀3年)- 泉福寺開基の僧明仙が、数万の石を洗い清め、その面に法華経文を浄写し塚をなす。 863年(貞観5年)- 6月、越後、越中に大地震あり、家屋崩れて死者多数。 927年(延長5年)- 本年成立の『延喜式』に北陸道新川郡内の駅として「磐瀬」、「水橋」の文字がみえるが、この水橋駅が水橋荒町・ 辻ヶ堂遺跡に比定されていることから、磐瀬から水橋に至る北陸道は本村該当区域内を通っていた。また、越中国内の税率やその期限、運賃等が定められた。 1187年(文治2年)- 源義経が奥州落ちの折、当村域内を流れる川を眺めて、その形状の琵琶に似ていることから京を思い起して感興に耽り、以後これを琵琶川と呼称する。また古志の松原に義経鎧掛けの松の伝説がある。『義経記』曰く、「すこしも違はぬ風情とて、磐瀬のもりにつき給ふ。其日はこゝにとまり給ひけり。あくれば黒部のやどに、すこし休せ給ひて」。 1207年(承元7年)- 親鸞が当地の松(「親鸞上人腰掛けの松」と呼称される)の下で暫時の休息をとったとの伝説がある。 1308年(延慶元年)- 清和天皇皇子の貞純親王の嫡流九代後胤多田良之基の次男多田良政道(埜崎家祖)が守邦親王より住吉三神の御墨付を賜りこれを奉斎する。これを基として越中に下向した埜崎家の手により、1571年(元亀2年)平榎に住吉社が創立された。 1491年(延徳3年)- 3月14日、冷泉為広がその『越後下向日記』において「ヨカタ里」より「イハセ渡」を経て「ヒカタイ」、「クロザキ」を過ぎ、「水ハシ」の渡船に乗船したとの記述がある。 1504年(永正元年)- 征夷大将軍足利義澄の命によって神保慶宗の支配下に入り、当地に於いて3万8千石を与えられた河内国枚方城主の埜崎政光の子政彌が、当村域内の平榎に築城する。2015年(平成27年)12月27日の北日本新聞の報道によると、富山市埋蔵文化センターの試掘調査によって、当城のものとみられる遺構が発見された。なお天正年間、当城は上杉謙信によって落城させられ、当時の城主たる政彌の嫡男政弘は戦死している 1517年(永正17年)- 10月、朝廷に伊達稙宗が左京大夫に任ぜられ稙宗はその礼を述べるため頤神軒存奭を京に遣わしたが、その頤神軒存奭が水橋、磐瀬の各渡渉点で船賃として百文を支払ったことを記録しており、中世に於ける北陸道比定の有力なる史料とされている。 天正年間、大村城の出城として日方江城が築城され、江上重左衛門が居城するが、佐々成政によってこれを追われる。『越中志徴』曰く、「故墟考に、在二長榎郷日方江村領一。平地也。湟塁の遺蹟僅に存す。三辺田畑所々田水多し。西に窪川流る。自二大村故城一二十町余。今は民の居地となる。邑伝に、江上重左衛門居せしが、天正中成政之を追ふと云へり。重左衛門。一作二萬十郎一。○寶永誌に、日方江村領内之内城跡有レ之候。昔江上萬十郎と申者致二居住一候由申伝候。○文政九年絵図方留記郡方答書に、日方江村館跡は村の西にて、畑並人々居屋敷に相成居申とあり」と。『肯構泉達録』曰く、「日方江城 江上重左衛門住す」と。 1578年(天正6年)- 轡田豊後守の居城たる大村城を上杉景勝が攻略し、轡田豊後守が戦死する。この時、謙信は大村城内の望見のため、当村域内の村民に「そうけ(筒箕)一杯の土砂を持ってきた者に銭三文を与える」と布告し、これによって一夜のうちに大丘が築かれた。この丘は現在当村域内の日方江にある天神社の境内にあり、「そうけ塚」、「三文塚」などと呼ばれている。 1583年(天正11年)- 2月、寺島民部左衛門旧領の「ひかたへなかえの木一円」を、勲功による賞として大関親憲に与えるとの記述が、上杉景勝契約状(「於越中依勲功、寺島民部左衛門分令契約地之覚」)にみえる。 1601年(慶長6年)- 浜街道に松並木が植樹される。『加賀藩史料』及び『越中史料』にもこの記述があり、『加賀藩史料』は『應事通載』の「慶長六年往還並松為御植樹被為成候」を、『越中史料』は『加賀藩民事志』の「慶長六年令シテ松ヲ往還ニ栽ヱシム、往還トハ官道ヲ曰フ」を引用している。元来、常願寺川の渡渉点であった西水橋町辻ヶ堂はそれまで海岸沿いを伝ってきた北陸街道が、富山の町へ向う脇道と辻ヶ堂から海岸を沿って氷見まで通ずる「浜街道」の分岐点であって、浜黒崎の松並木はこの浜街道沿いに植樹されたものであった。土屋義休が1714年(正徳4年)に著した『加越能大路水経』によると、東岩瀬駅が「寛文二年新宿被仰付候」として新たに駅宿に指定されているが、これは1660年(万治3年)に富山藩が富山の町を加賀藩より譲受したことによって新たに富山を経由しない街道を整備するため行われたものでもあったといわれる。坂井誠一は往時の北陸街道について「北陸街道の主道はこのように富山をはずれていた。これは富山を通ることは距離的に廻り道になるのみならず、富山藩領を避けようとの意図にもよるものと思われるのである。然し、富山を通る別道も勿論開かれていた。その一つは今石動より戸出、中田、水戸田を通り安養坊を越えて富山に出るものであり、他の一つは小杉より戸波、安養坊を経て富山に出るものである。富山を通る時は新庄を経て西水橋に至り本道に合流するのである」と述べている。松並木植樹の理由は参勤交代の折に積雪時の目印となすため、また街道の美観を慮ってのことであるといわれる。 1604年(慶長9年)- 2月、徳川秀忠が北陸道の諸道に里堠を築かせる。当村域内においては現富山学園前に一里塚を築き、また榎を堠樹として植えた。 1623年(元和9年)- 横越に慶善が西蓮寺創建。『加越能寺社由来』所収の「三州寺号帳」には「元和九慶善 同郡(引用者註:新川郡)針原横越村同断 西蓮寺」とあり、また「貞享二年寺社由緒書上」にも「当寺開闢者、元和年ニ慶善と申僧建立ニ而」とある。 1639年(寛永16年)- 6月、前田利常が致仕を許され、加賀藩領を前田利光に加賀藩80万石、前田利次に富山藩10万石、前田利治に大聖寺藩7万石と分かつ。富山藩の該当区域は越中国のうち婦負郡及び新川郡浦山地方であったため、当村域内は全域が加賀藩領であった。 1644年(正保元年)- 空善が泉福寺を再興。『加越能寺社由来』所収の「貞享二年寺社由緒書上」には「当寺開闢者、旧記等無御座候故、年号并由来知レ不申候。中興正保元年九月十八日ニ寺再興仕拙僧入寺仕候」との証言が残る。 1646年(正保3年)-正保郷帳に日方江村、黒崎村、横越村、平榎村の記載あり。 1674年(延宝2年)- 横越村を針原横越村に改称。 1696年(元禄9年)- 江間氏親の『行嚢抄』の東岩瀬西水橋間の記述に次の如くある、曰く「日方江村 路ノ右ニアリ 枇杷川 小川也 黒崎村 路ノ右ニアリ 今川 小川也」と。 1703年(正徳3年)- 白山社に「大江山酒呑童子」奉納される。当村内最古の現存絵馬である。順に1802年(享和2年)の「那須与一扇の的図」、1815年(文化12年)の「徳川工作場釿始之図」が当村内の古い絵馬であるが、これらは何れも常磐神社に奉納されている。同社は浜黒崎村の産土神にして、『加越能寺社由来』所収の「貞享二年寺社由緒書上」には「草創年号不レ知。昔細川越中殿建立之由申伝候得共、乱世之比縁起寺焼失、委曲之義不レ知」とされており、神職は若宮氏が務めている。末社に地主、神明、貴船、諏訪、八幡、悪王子、春日の七社があったが、後述の如く凡て合祀され社号も常磐神社と改称された。この貴船神社については『越中国式内等旧社記』に「針原郷横越村鎮座、往古山城貴船社領新保庄内也、故勧請云」とある。同書においてはまた、「同庄内黒崎村鎮座、今称ニ白山明神一」とあり、往古、白山社が天神社と称していたことは、『越中国神社由来』の「黒崎村天神社 一当社天神、開闢年号知不レ申候、古ハ細川越中殿御建立之由申伝候得共、乱世之節何茂焼失仕、縁起等無ニ御座一ニ付、知不レ申候」及び『三州地理志稿』の「天神祠 在針原郷黒崎村細川越中営」の記述からもわかる。 1720年(享保5年)- 寶蔵寺が浜黒崎に移転。 1780年(文化6年)- 日方江に了照寺開基。寶蔵寺の住職慈賢が親鸞の御影を質入れし86貫を以て村民の困窮を救う。 1784年(天明4年)- 寶蔵寺の住職慈全が梵鐘を質入れし銭90貫を以て村民の困窮を救う。 1794年(寛政6年)- 9月、横越に稲荷社奉鎮。当社北の竹藪は当時加賀藩の矢箆竹の産地であったという。『越中志徴』に曰く、「文政社号帳に、針原横越村鎮座産土神は稲荷社にて、別社四社あり」と。 1798年(寛政10年)- 5月、白山社の社殿が再建される。この年成立の富田景周『越登賀三州志』に「長榎六村」とあるが、吉田東伍の『大日本地名辞書』はその記述に則り、この長榎郷に浜黒崎が属していたものとしている。だが、富田景周は1815年(文化12年)の『三州地理志稿』に於いては「長榎郷、在郡西、統大村、東至飯野郷、西至大海、南至広田郷、北至針原郷」として、その長榎郷に属する地名に当村域内からは日影、針木、日方江を挙げ、黒崎(浜黒崎の古称)は高野郷、平榎、野田、針原横越、高来は針原郷に属するものとしており、吉田東伍の見解とは一致しない。長榎というのはもと東岩瀬町の地名である大村の古称であったが、後世に至って針木や日方江など4ヶ村がこれより村立てされる際に、その親村という意味で「大村」と名付けたのだという(『越中志徴』曰く、「長榎の本郷は、今此郷内なる大村てふ村落その本郷にて、昔は長榎村と呼べり。此村より日方江村・針木村・田畑村・中田村の四村を建たり。故に長榎村は親村の由にて、大村と称すと」)。長榎の地名は先にも述べたる如く、1583年(天正11年)の上杉景勝契約状にも見えている。 1803年(享保3年)- 8月、伊能忠敬が浜街道(現在の富山県道1号線)を伝い、日方江、浜黒崎、横越の海岸測量を行う。 天保年間- 高来に高畠社創建。田地掠奪の企図から村を救った改作奉行高畠猪太郎の徳を讃えたものという。 1838年(天保9年)- 前田斉広の正妻鷹司隆子(眞龍院)の『眞龍公自東都至金城の御紀行』中水橋岩瀬間に「高麗野といふに、千種の花咲きみだれたるを、こま野なる野辺は錦にいく千種 織重ねにし花の百艸」との記述がある。 1839年(天保10年)- 富山藩領黒崎村との区別のため、当村を正式に浜黒崎村に改称。 1842年(天保13年)- 9月、野田に神明社創建。 1844年(天保15年)- 3月、高来に高来社創立。同社はもと西水橋町荒町所在の高麗神社の分社であって、上古この地に高麗人が住んでいたことに由来するといわれる。『越中志徴』曰く、「或云、此村は高麗の略字にて、上代此地に高麗人を置かれしにやと。按ふに、続日本紀に、霊亀二年五月辛卯、以二駿河。相模。甲斐。上総。下総。常陸。下野七國高麗人千七百九十九人一。遷二于武蔵国一。始置二高麗郡一焉。とありて、和名抄に、武蔵国高麗郡に即ち高麗といへる郷名あり。甲斐名勝志に、甲斐国巨麻郡巨麻郷あり。風土記に、或高麗とあり。此地は霊亀二年に武蔵国へ遷されし高麗人の居たる地なるべしといへり」と。 1858年(安政5年)- 2月、飛越地震発生、鳶山崩れによって常願寺川河流一帯に大被害、死者140人、負傷者8945人、流出家屋1603戸。これによって常願寺川は氾濫頻発の暴れ川となり、本村もこの水害に度々悩まされるようになる。横越の稲荷社境内の小祠は、この地震によって霊峰立山より流れた石を祀るものである。当村域内に於いては地震によって全潰家屋が浜黒崎に於いて3戸、日方江に於いて1戸、日影に於いて1戸あり、半潰家屋は浜黒崎に於いて11戸、針原横越に於いて2戸、日方江に於いて5戸、日影に於いて2戸、針木に於いて2戸の被害があり、広田組内の罹災者は島組、高野組、上条組、下条組、西加積組、中加積組と共に全壊家屋一戸につき3斗5升、半壊家屋一戸につき1斗7升5合の貸米を受けた。 1859年(安政6年)- 4月、天然痘の流行によって当村内に罹患者75人、死者12人。 慶応年間、日方江に天神社創建。
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