「JAM」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:38 UTC 版)
「JAM/Tactics」の記事における「「JAM」」の解説
一方のA面「JAM」は、「ヘヴィな音像と憂いを帯びたメロディを軸にしたバラードナンバー」であり、THE YELLOW MONKEYのブレイクを決定的にした楽曲である。ハ長調で構成されている三連符のロックバラード。NHK『ポップジャム』エンディングテーマに起用された(1996年1月12日 - 3月)。この作品の後にシングル「SPARK」をトライアドレーベルへの置き土産にTHE YELLOW MONKEYはファンハウス(現・アリオラジャパン)へのレーベル移籍を発表する。よって、「JAM」「SPARK」の2曲は製作時期が1年以内とほぼ重なっているにもかかわらず権利面の関係もありアルバム『SICKS』(1997年)には未収録となった。「公式の」アルバムに収録される機会を逃し、公式アルバムに初収録されたのは解散後の2004年に発売された『MOTHER OF ALL THE BEST』であった。 ライブでは、「THE YELLOW MONKEYという王国があったとしたら、その国の国歌として聴いてほしい」と紹介されている。 「JAM」という楽曲は、世を生きる人々の多くが自らを守る為に目を背けてしまうような残酷な世界の実状に対して、その歪みを真正面から受け止めようと試みるも徐々に明らかになる現実の前で筆舌に尽くし難いやるせなさを抱え、傷付いた心で "君に逢いたい" と強く願う、という一人の若者の痛いほどに純粋で美しい哀しみと、それでも決して消えることの無い心の中の熱き炎とを歌というメッセージで赤裸々に綴ったロックアンセム(Anthem/アンセム = 国歌、讃歌)である。 「JAM」にはモチーフとなる楽曲がある。それは1972年にデヴィッド・ボウイが解散危機のグラムロックバンド・モット・ザ・フープルに提供した楽曲「すべての若き野郎ども(All the Young Dudes)」である。モット・ザ・フープルは、THE YELLOW MONKEYがリスペクトしているバンドの一つである。「JAM/Tactics」から半年後の8月31日にはモット・ザ・フープルのトリビュート・アルバム『MOTH POET HOTEL』がリリースされ、このアルバムでTHE YELLOW MONKEYはモット・ザ・フープルのキーボーディスト・モーガン・フィッシャーらとともに「すべての若き野郎ども」のカバー曲を制作した。THE YELLOW MONKEYはそれまでにもフィッシャーと一緒に仕事をしたことがある。 「JAM」を制作した当時30歳前後の、子供という年齢ではなく大人としても若かったこのバンドのメンバーたちにとって「JAM」は、『パンチドランカー・ツアー』(1998年 - 1999年)で音響スタッフが転落事故死したことや、難航したリリース当時のプロモーション担当で吉井和哉と同い年の友人の中原繁が2000年3月に急死したことが思い出される特別な楽曲であるということが吉井により語られている。 2000年11月、バンドは2001年1月『メカラ ウロコ・8』大阪・東京公演を以ての活動休止を発表した。この公演で中盤を過ぎる頃、吉井のMCで改めて休業宣言があり、亡くなった中原繁と『パンチドランカー・ツアー』スタッフに捧げるものであると伝えられ「JAM」の演奏が行われた。 2004年7月のTHE YELLOW MONKEY解散後、展示会・フィルムコンサート『メカラウロコ・15』が日本各地10か所で開催され、12月26日東京ドームでの『メカラウロコ・15』最終日はメンバー挨拶が予定されていた。東京ドームに再集結したメンバーは、葬式ということで黒系統の服でオーディエンスの前に登場した。これは、2001年の活動休止から約4年ぶりの登場である。悲鳴のような歓声の中ステージに入るとメンバーは「JAM」を演奏し始めた。このサプライズ演奏にオーディエンスは総立ち状態になっていた。中には立っていられないほど号泣するオーディエンスもいた。歌が終わりに差し掛かると、ライブにおける「JAM」の恒例であった終奏大合唱が吉井のあおり立てで会場にいつまでも響き渡り、吉井が「ずっと歌っててください」と言うと笑いが起きた。やがて会場は合唱に取って代わり悲痛な叫びと拍手に包まれた。「JAM」1曲を演奏するとメンバーは去って行った。このようにして「JAM」が解散にかかる有終の美となった。ファンは2016年の再結成までの間、バンドと別れることになった。 解散中のソロ活動においては、2007年8月25日、オールナイトニッポン40周年記念イベント『8.25 オールナイトニッポン武道館』でサプライズ企画としてTRICERATOPSの演奏をバックに吉井が「JAM」を歌った。後にTRICERATOPSはトリビュート・アルバムで「JAM」をカバーしている。 2009年8月15日、『サンスター オーラツー presents J-WAVE LIVE 2000+9』のアンコールにて吉井とレミオロメンのコラボで「JAM」が演奏された。 仲違いの解散ではなかったため、THE YELLOW MONKEYは解散中もメンバー間の交流があり普段からみんなで仲良く飲みに行っていた。『JAPAN JAM 2010』の大トリを務める吉井は同じくソロ活動中の菊地英昭(EMMA)らをゲストに迎え、アンコールの最後に吉井と菊地はフジファブリックと共演し、「本当はヴォーカルがいるんですが、今日はワケあって来てません。すぐに帰ってくると思います」と吉井からフジファブリックの亡きフロントマン・志村正彦についてのMCがあり、「JAM」が演奏された。 吉井は『サマーソニック 2012』においてもバンドとソロの楽曲等から選曲された10曲の最後の曲に「JAM」を歌った。 2016年、15年ぶりに再集結し活動を再開した同年12月31日の『第67回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たし「JAM」を歌唱、「解散する前、紅白に出ることが夢の一つだったので、きょうようやくかないました。再集結してよかったです」と吉井は表明した。同日の朝日新聞には歌詞全文を載せた上で「残念だけど、この国にはまだこの歌が必要だ」「今晩JAM歌います 2016年ありがとうございました デビュー25周年にむけて THE YELLOW MONKEY」のメッセージを記した一面広告を掲載した。
※この「「JAM」」の解説は、「JAM/Tactics」の解説の一部です。
「「JAM」」を含む「JAM/Tactics」の記事については、「JAM/Tactics」の概要を参照ください。
「JAM」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:38 UTC 版)
「JAM/Tactics」の記事における「「JAM」」の解説
楽曲制作は、1995年9月、10月頃に行われた。当時のディレクターである宗清裕之によると、吉井は、モット・ザ・フープルの「すべての若き野郎ども」という曲が頭にあり、「僕は日本の『すべての若き野郎ども』を作りたいんです」と語っていたという。「ロックンロール・アンセム」を作りたいという思いが吉井たちにはあった。 吉井は本作について、「ある日自分が抱えている不条理を、全部紙に書いてそれに曲を乗せた7分近いバラードを作った。 社会的なこと、プライベートなこと等、思うことを遠慮なく全部書いた。 今ならそのまま世に出せるが、当時はそういうわけにはいかなかった。少しずつ詩を削っていき、 5分ちょっとの曲になった」と語っている。 歌詞の「外国で飛行機が墜ちました〜」の部分が取り沙汰されることが多いが、吉井は重要なのはその後「こんな夜は逢いたくて〜また明日を待ってる」まで続くラインであると語っている。また、このラインについて吉井は「ちょうどオウム真理教の地下鉄サリン事件とか、阪神・淡路大震災とかあって、子供を持つ身としては不安な世の中だったから、それも大きかった。『君に逢いたくて』というくだりは、当時、娘に向けて書いたんです。あまり家にいてやれなかったですし」と語っている。さらに、その部分は当初メロディーが作られておらず、本番にアドリブで歌われた。テイクワンの歌唱が採用されたが、最後の1フレーズで吉井が感極まって詰まってしまったため、そこだけ歌い直している。 吉井はシングル候補として「JAM」をコロムビアのディレクター・宗清裕之に提案したものの、コロムビアの宣伝会議では脅し文句が並べ立てられ、「我々宣伝がここまで培ってきたものをぶち壊す気ですか」「この曲じゃあテレビに出られません」「バラードで勝負なんて早いですよ」と、発売は強く反対された。この理由として、スマッシュヒットとなった8thシングル「太陽が燃えている」がキャッチーでポップかつハードロックな楽曲であったため、コロムビアの宣伝・営業、そしてマスコミが同様の曲を望んでいたのであるという。月刊誌『音楽と人』1996年2月号(前月上旬発売)はそのような営利を突き付けられている状況を逆手に取り、レコード会社が発売に反対する問題作というストーリーに仕立て上げたインタビューを表紙に掲載した。この巻頭特集の中で『音楽と人』編集長市川哲史は、レコード会社やスタッフが現行路線を求めるのは分かるが日本のロックシーンと一線を画す「孤高のロック感が格好良い」このバンドに営利的方向性を持った「市場の論理」を武器として用いないでほしいと訴えた。 1996年1月12日に『TOUR'96 "FOR SEASON" at 日本武道館』で初披露されたものの、吉井は演奏前のMCで発売が未定であることを説明していた。しかし、当時のプロモーション担当であった中原繁がこの曲を気に入り、よく「リンダリンダ」を熱唱していたパンク魂の中原は「これは代表曲になるよ。会社の上の人間がなんて言おうが、オレが絶対売ってやるよ」と、吉井に語り、バンドの所属事務所(上層部)に強く推したことで2月29日に発売が決定した。 ラジオ番組『吉井和哉のオールナイトニッポン』は阪神・淡路大震災から1年経過した1996年1月17日に「JAM」を初オンエアし、翌週以降もオンエアした。このラジオ番組には『音楽と人』2月号を読んだリスナーからの手紙が届いた。『吉井和哉のオールナイトニッポン』は淡路島で復興応援のチャリティー・ライブを開催した。このライブは震源に最も近い野島断層が走る北淡町において、1996年1月15日「成人の日」に小学校体育館で行われた『淡路島での新成人を祝うライブ』で、ライブのメンバーはTHE YELLOW MONKEYの4人とキーボードの三国義貴。「JAM」を初オンエアした1月17日(午前1:00 - 3:00)の放送は北淡町の旅館からの生放送で、ゲストは泉谷しげるであった。 「JAM/Tactics」発売から8日後の3月8日に『ミュージックステーション』出演が決定したが、当初は4分の枠での演奏予定だった。しかし、吉井は曲が削られてしまうことから「絶対に出ない」と語っていたが、プロモーターである中原繁の熱心な交渉によって異例の5分枠を取ることに成功。アウトロ以外省略なし(歌詞の省略なし)で披露された。 後にTHE YELLOW MONKEYはレーベルを移籍し、移籍を機に中原繁もバンドの事務所に連れて行こうとしたが、会社は親であるからと会社を裏切れないコロムビア社員の中原は誘いを断り、バンドは中原と袂を分かった。新たなバンドを発掘して成功したら勝ちだと言っていた中原はミッシェル・ガン・エレファントをヒットさせた。2000年3月18日、中原は宮崎県のアマチュアバンドコンテスト会場で大動脈瘤破裂により息を引き取った。中原が会場トイレで倒れているのを発見したスタッフの話によると、トイレのスピーカーから聴こえていた会場の演奏は「JAM」のカバーであった。中原の死は、解散危機のただ中にTHE YELLOW MONKEYに伝えられ、解散は棚上げとなり活動休止という話になった。2000年7月にリリースされたシングル「パール」の歌詞の、語り掛けの相手は中原繁である。名物プロモーターであった中原の死によりコロムビアのトライアドレーベルは空中分解が始まった。トライアドレーベルは2007年に休止状態に入り、2014年に吉井和哉がコロムビアに戻るとレーベルは復活した。18年ぶりにトライアドレーベルに戻って来た吉井は、2015年5月19日のトライアド(TRIAD)復活記念ライブ『TRIAD ROCKS -Columbia vs Triad-』において、中原が手掛けた想い出のロックンローラー・ミッシェル・ガン・エレファントのデビュー曲「世界の終わり」を中原のために歌い、続いて「JAM」を歌った。 吉井が幾度かメディアに語っているが、グループ・サウンズ・ザ・タイガースのカリスマ・シンガーで日本のポップスター・沢田研二(ジュリー)の楽曲「おまえがパラダイス」(1980年)と「JAM」は結びつきが強い。吉井の表現によると、この2曲は「同じ引き出し」にある。吉井のソロ・アルバム『ヨシー・ファンクJr. 〜此レガ原点!!〜』(2015年)には、「おまえがパラダイス」の吉井によるカバーが収録された。
※この「「JAM」」の解説は、「JAM/Tactics」の解説の一部です。
「「JAM」」を含む「JAM/Tactics」の記事については、「JAM/Tactics」の概要を参照ください。
「JAM」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:38 UTC 版)
「JAM/Tactics」の記事における「「JAM」」の解説
吉井は以前、「最近取材なんかで、俺たちに影響を受けたっていう若くて有名なミュージシャン達と話すと、みんな『JAMは最高ですよ』って言ってくれる」と語っている。 NHK-FMの『ミュージックスクエア』ではリスナーからの人気が特に高く、「週間」「月間」「年間」「心に残る90年代の曲(1999年末放送)」と、番組のあらゆるリクエストランキングで1位をとり続けた。 ファンからの人気も高く、解散後の2004年に行われたORICON STYLEの人気投票「あなたが選ぶ THE YELLOW MONKEY BEST1」と、2012年にナタリー×レコチョクで行われた人気投票「アナタの好きなTHE YELLOW MONKEYの曲を教えてください!」でともに第1位となった。2013年に行われたベスト盤『イエモン-FAN'S BEST SELECTION-』のファン投票では、19thシングル「バラ色の日々」に次いで2位となっている。また、『イエモン-FAN'S BEST SELECTION-』の特設サイトで行われた「私のTHE YELLOW MONKEY『この1曲』」という企画において、番組パーソナリティを務めた中村貴子がこの曲を投票している。 2017年、京都大学の入学式(4月7日)で山極壽一総長がボブ・ディラン「風に吹かれて」の歌詞を紹介したその2週間ほど前、東京外国語大学の卒業式(3月24日)では立石博高学長が次のように「JAM」を紹介した。 もちろん私たちも自分の国、自国の伝統や文化を愛する態度を大切にしたいと思います。しかし、地球市民であるためには、自国民ではない人々にも思いをはせ、他国の伝統や文化を尊重することが必要です。昨年、ノーベル文学賞がボブ・ディラン氏に与えられ、歌詞というものがもつ力を私たちに改めて示しましたが、外国の他者へ思いをはせることの大切さを、私は日本のロックバンド「The Yellow Monkey」の歌詞をとおしてつねづね思い起こしています。この歌詞の一部を紹介させてください。 立石はこのように述べると「外国で飛行機が墜ちました」のくだりから最後までを朗読した。
※この「「JAM」」の解説は、「JAM/Tactics」の解説の一部です。
「「JAM」」を含む「JAM/Tactics」の記事については、「JAM/Tactics」の概要を参照ください。
- 「jam」のページへのリンク