「jam」とは? わかりやすく解説

「JAM」

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JAM/Tactics」の記事における「「JAM」」の解説

一方A面「JAM」は、「ヘヴィ音像憂い帯びたメロディを軸にしたバラードナンバー」であり、THE YELLOW MONKEYブレイク決定的にした楽曲である。ハ長調構成されている三連符のロックバラード。NHKポップジャムエンディングテーマ起用された(1996年1月12日 - 3月)。この作品の後にシングルSPARK」をトライアドレーベルへの置き土産THE YELLOW MONKEYファンハウス(現・アリオラジャパン)へのレーベル移籍発表する。よって、「JAM」「SPARK」の2曲は製作時期1年以内とほぼ重なっているにもかかわらず権利面の関係もありアルバムSICKS』(1997年)には未収録となった。「公式の」アルバム収録され機会逃し、公式アルバムに初収録されたのは解散後2004年発売された『MOTHER OF ALL THE BESTであったライブでは、「THE YELLOW MONKEYという王国があったとしたら、その国の国歌として聴いてほしい」と紹介されている。 「JAM」という楽曲は、世を生きる人々多くが自らを守る為に目を背けてしまうような残酷な世界実状に対して、その歪み真正面から受け止めよう試みるも徐々に明らかになる現実の前で筆舌に尽くし難いやるせなさ抱え傷付いた心で "君に逢いたい" と強く願う、という一人若者痛いほどに純粋で美し哀しみと、それでも決し消えることの無い心の中の熱き炎とを歌というメッセージ赤裸々綴ったロックアンセム(Anthem/アンセム国歌讃歌)である。 「JAM」にはモチーフとなる楽曲がある。それは1972年デヴィッド・ボウイ解散危機のグラムロックバンド・モット・ザ・フープルに提供した楽曲すべての若き野郎ども(All the Young Dudes)」である。モット・ザ・フープルは、THE YELLOW MONKEYリスペクトしているバンド一つである。「JAM/Tactics」から半年後の8月31日にはモット・ザ・フープルトリビュート・アルバムMOTH POET HOTEL』がリリースされ、このアルバムTHE YELLOW MONKEYモット・ザ・フープルのキーボーディスト・モーガン・フィッシャーらとともにすべての若き野郎ども」のカバー曲制作したTHE YELLOW MONKEYそれまでにもフィッシャー一緒に仕事したことがある。 「JAM」を制作した当時30歳前後の、子供という年ではなく大人としても若かったこのバンドのメンバーたちにとって「JAM」は、『パンチドランカー・ツアー』(1998年 - 1999年)で音響スタッフ転落事故死したことや、難航したリリース当時プロモーション担当吉井和哉同い年友人中原繁が2000年3月急死したことが思い出される特別な楽曲であるということ吉井により語られている。 2000年11月バンド2001年1月メカラ ウロコ・8』大阪東京公演を以て活動休止発表した。この公演中盤を過ぎる頃、吉井MC改め休業宣言があり、亡くなった中原繁と『パンチドランカー・ツアー』スタッフ捧げるのである伝えられ「JAM」の演奏が行われた。 2004年7月THE YELLOW MONKEY解散後展示会・フィルムコンサート『メカラウロコ15』が日本各地10か所で開催され12月26日東京ドームでの『メカラウロコ15最終日メンバー挨拶予定されていた。東京ドーム再集結したメンバーは、葬式ということで黒系統の服でオーディエンス前に登場した。これは、2001年活動休止から約4年ぶりの登場である。悲鳴のような歓声の中ステージに入るとメンバーは「JAM」を演奏し始めた。このサプライズ演奏オーディエンス総立ち状態になっていた。中には立っていられないほど号泣するオーディエンスもいた。歌が終わり差し掛かると、ライブにおける「JAM」の恒例であった終奏合唱吉井のあおり立て会場いつまで響き渡り吉井が「ずっと歌ってくださいと言うと笑い起きた。やがて会場合唱に取って代わり悲痛な叫び拍手包まれた。「JAM」1曲を演奏するメンバー去って行ったこのようにして「JAM」が解散にかかる有終の美となったファン2016年再結成までの間、バンド別れることになった解散中のソロ活動においては2007年8月25日オールナイトニッポン40周年記念イベント『8.25 オールナイトニッポン武道館』でサプライズ企画としてTRICERATOPS演奏バック吉井が「JAM」を歌った。後にTRICERATOPSトリビュート・アルバムで「JAM」をカバーしている。 2009年8月15日、『サンスター オーラツー presents J-WAVE LIVE 2000+9』のアンコールにて吉井レミオロメンコラボで「JAM」が演奏された。 仲違い解散ではなかったため、THE YELLOW MONKEY解散中もメンバー間の交流があり普段からみんなで仲良く飲み行っていた。『JAPAN JAM 2010』の大トリ務め吉井同じくソロ活動中の菊地英昭EMMA)らをゲスト迎えアンコール最後に吉井菊地フジファブリック共演し、「本当ヴォーカルがいるんですが、今日ワケあって来てません。すぐに帰ってくると思います」と吉井からフジファブリック亡きフロントマン志村正彦についてのMCがあり、「JAM」が演奏された。 吉井は『サマーソニック 2012』においてもバンドソロ楽曲等から選曲された10曲の最後の曲に「JAM」を歌った2016年15年ぶりに再集結活動再開した同年12月31日『第67回NHK紅白歌合戦』初出場果たし「JAM」を歌唱、「解散する前、紅白に出ることが夢の一つだったので、きょうようやくかないました再集結してよかったです」と吉井表明した同日朝日新聞には歌詞全文載せた上で残念だけど、この国にはまだこの歌が必要だ」「今晩JAM歌います2016年ありがとうございましたデビュー25周年にむけて THE YELLOW MONKEY」のメッセージ記した一面広告掲載した

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楽曲制作は、1995年9月10月頃に行われた当時ディレクターである宗清裕之によると、吉井は、モット・ザ・フープルの「すべての若き野郎ども」という曲が頭にあり、「僕は日本の『すべての若き野郎ども』を作りたいんです」と語っていたという。「ロックンロール・アンセム」を作りたいという思い吉井たちにはあった。 吉井本作について、「ある日自分抱えている不条理を、全部紙に書いてそれに曲を乗せた7分近いバラード作った社会的なこと、プライベートなこと等、思うことを遠慮なく全部書いた。 今ならそのまま世に出せるが、当時そういうわけにはいかなかった。少しずつ詩を削っていき、 5分ちょっとの曲になった」と語っている。 歌詞の「外国飛行機が墜ちました〜」の部分取り沙汰されることが多いが、吉井重要なのはその後こんな夜は逢いたくてまた明日待ってる」まで続くラインであると語っている。また、このラインについて吉井は「ちょうどオウム真理教地下鉄サリン事件とか、阪神・淡路大震災とかあって、子供を持つ身としては不安な世の中だったから、それも大きかった。『君に逢いたくて』というくだりは、当時、娘に向けて書いたんです。あまり家にいてやれなかったですし」と語っている。さらに、その部分当初メロディー作られておらず、本番アドリブ歌われた。テイクワン歌唱採用されたが、最後の1フレーズ吉井感極まって詰まってしまったため、そこだけ歌い直している。 吉井シングル候補として「JAM」をコロムビアディレクター宗清裕之に提案したものの、コロムビア宣伝会議では脅し文句並べ立てられ、「我々宣伝ここまで培ってきたものをぶち壊す気ですか」「この曲じゃあテレビ出られません」「バラード勝負なんて早いですよ」と、発売強く反対された。この理由として、スマッシュヒットとなった8thシングル太陽が燃えている」がキャッチーポップかつハードロック楽曲であったため、コロムビア宣伝営業、そしてマスコミ同様の曲を望んでいたのであるという。月刊誌音楽と人1996年2月号(前月上旬発売)はそのような営利突き付けられている状況逆手取りレコード会社発売反対する問題作というストーリー仕立て上げたインタビュー表紙掲載した。この巻頭特集の中で『音楽と人編集長市川哲史は、レコード会社スタッフ現行路線求めるのは分かる日本ロックシーン一線を画す孤高ロック感が格好良い」このバンド営利的方向性持った市場論理」を武器として用いないほしいと訴えた1996年1月12日に『TOUR'96 "FOR SEASON" at 日本武道館』で初披露されたものの、吉井演奏前のMC発売未定であることを説明していた。しかし、当時プロモーション担当であった中原繁がこの曲を気に入り、よく「リンダリンダ」熱唱していたパンク魂の中原は「これは代表曲になるよ。会社の上人間がなんて言おうが、オレ絶対売ってやるよ」と、吉井語りバンド所属事務所上層部)に強く推したことで2月29日発売決定したラジオ番組吉井和哉オールナイトニッポン』は阪神・淡路大震災から1年経過した1996年1月17日に「JAM」を初オンエアし、翌週以降オンエアした。このラジオ番組には『音楽と人2月号を読んだリスナーからの手紙が届いた。『吉井和哉オールナイトニッポン』は淡路島復興応援のチャリティー・ライブを開催した。このライブ震源最も近い野島断層が走る北淡町において、1996年1月15日成人の日」に小学校体育館行われた淡路島での新成人を祝うライブ』で、ライブメンバーTHE YELLOW MONKEYの4人とキーボード三国義貴。「JAM」を初オンエアした1月17日午前1:00 - 3:00)の放送北淡町旅館からの生放送で、ゲスト泉谷しげるであった。 「JAM/Tactics発売から8日後の3月8日に『ミュージックステーション出演決定したが、当初は4分のでの演奏予定だった。しかし、吉井は曲が削られてしまうことから「絶対に出ない」と語っていたが、プロモーターである中原繁の熱心な交渉によって異例の5分枠を取ることに成功アウトロ以外省略なし(歌詞省略なし)で披露された。 後にTHE YELLOW MONKEYレーベル移籍し移籍機に中原繁もバンド事務所に連れて行こうとしたが、会社は親であるから会社裏切れないコロムビア社員中原誘い断りバンド中原袂を分かった新たなバンド発掘して成功したら勝ちだと言っていた中原ミッシェル・ガン・エレファントヒットさせた。2000年3月18日中原宮崎県のアマチュアバンドコンテスト会場大動脈瘤破裂により息を引き取った中原会場トイレ倒れているのを発見したスタッフの話によると、トイレスピーカーから聴こえていた会場演奏は「JAM」のカバーであった中原の死は、解散危機ただ中THE YELLOW MONKEY伝えられ解散棚上げとなり活動休止という話になった2000年7月リリースされシングルパール」の歌詞の、語り掛け相手中原繁である。名物プロモーターであった中原死によりコロムビアのトライアドレーベルは空中分解始まった。トライアドレーベルは2007年休止状態入り2014年吉井和哉コロムビアに戻るとレーベル復活した18年ぶりにトライアドレーベルに戻って来た吉井は、2015年5月19日トライアドTRIAD復活記念ライブTRIAD ROCKS -Columbia vs Triad-』において、中原手掛けた想い出のロックンローラー・ミッシェル・ガン・エレファントのデビュー曲世界の終わり」を中原のために歌い続いて「JAM」を歌った吉井幾度かメディア語っているが、グループ・サウンズ・ザ・タイガースのカリスマ・シンガーで日本ポップスター沢田研二ジュリー)の楽曲おまえがパラダイス」(1980年)と「JAM」は結びつきが強い。吉井表現によると、この2曲は「同じ引き出し」にある。吉井ソロ・アルバムヨシー・ファンクJr. 〜此レガ原点!!〜』(2015年)には、「おまえがパラダイス」の吉井によるカバー収録された。

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吉井以前、「最近取材なんかで、俺たち影響受けたっていう若くて有名なミュージシャン達と話すと、みんな『JAMは最高ですよ』って言ってくれる」と語っている。 NHK-FMの『ミュージックスクエア』ではリスナーからの人気が特に高く、「週間」「月間」「年間」「心に残る90年代の曲(1999年放送)」と、番組あらゆるリクエストランキングで1位をとり続けたファンからの人気高く解散後2004年行われたORICON STYLE人気投票「あなたが選ぶ THE YELLOW MONKEY BEST1」と、2012年ナタリー×レコチョク行われた人気投票アナタ好きなTHE YELLOW MONKEYの曲を教えてください!」でともに第1位となった2013年行われたベスト盤イエモン-FAN'S BEST SELECTION-』のファン投票では、19thシングルバラ色の日々」に次いで2位となっている。また、イエモン-FAN'S BEST SELECTION-』の特設サイト行われた「私のTHE YELLOW MONKEY『この1曲』」という企画において、番組パーソナリティ務めた中村貴子がこの曲を投票している。 2017年京都大学入学式4月7日)で山極壽一総長ボブ・ディラン「風に吹かれて」歌詞紹介したその2週間ほど前、東京外国語大学卒業式3月24日)では立石博高学長次のように「JAM」を紹介した。 もちろん私たち自分の国、自国伝統文化愛す態度大切にしたいと思います。しかし、地球市民であるためには、自国民ではない人々にも思いをはせ、他国伝統文化尊重することが必要です。昨年ノーベル文学賞ボブ・ディラン氏に与えられ歌詞というものがもつ力を私たち改め示しましたが、外国他者思いをはせることの大切さを、私は日本のロックバンドThe Yellow Monkey」の歌詞とおしてつねづね思い起こしてます。この歌詞一部紹介させてください立石このように述べると「外国飛行機が墜ちました」のくだりから最後までを朗読した

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